花粉症草紙
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生まれてから20数年間というもの、私は花粉症というものにはてんで縁はございませんでした。
春が近づくにつれテレビジョンから流れてくるようになる花粉症の為の飲み薬やら目薬やらのコマーシャルを見ても、たいへんだなあ、苦しいんだろうなあ、と思うだけで、どこかやはり他人事のような目で眺めておりました。
ところが20代も終わろうかというある日のことでございます。
こともあろうに私自身が花粉症というものになってしまったのでございます。
災いというものはいつも突然に降りかかってくるものとは存じ上げておりましたが、それはそれは、聞くも涙、語るも涙の惨状でございました。
涙と鼻汁はとめどなく流れ落ち、頭の重さ熱さといったらまさに囲炉裏の中の焼け石のごとく、両のまぶたの荒れ模様なんぞは鍋底にこべり付いたおじやくずかと見紛うばかり。
まさか私が花粉症になる日が来るなどとは夢にも思わなかった故、はじめはそれが花粉症であるとは露ほども思わず、永く治らないやっかいな流行り病を譲り受けてしまったなあと軽く考えていたのでございますが、いずれはそういった諸々の症状も、医者先生から告げられる予想外な病名とともに否応無しに受け入れなければならなくなったのでございます。
その頃の私といったら、突然放り込まれた濁流の中でなすすべもなく流されていく小枝のような心境でございました。
薬なんぞは気休め程度。
友人から投げかけられるどんなお見舞いの言葉も水に浮かぶ薄っぺらい気持ちの上でただ横滑りしていくだけでございました。
実際にこのたいへんな病を患った者でなければこの気持ちは理解できないのだ、どんな言葉で繕おうとしてもこの苦しみが紛れるわけではないのだ、などとついついそんな言葉を胸の内でつぶやいてしまうのでございます。
そんなわけですから、春というのは私にとっては身に覚えの無い罪で牢に繋がれる時節の様なもので、春の便りを耳にする度に逮捕状を持ってにじり寄ってくる薄ら笑いを浮かべた警察官の姿をついつい思い浮かべてしまうのでございます。
今年もまたそんな囚人のような日々が始まるのか、などと諦めにも似た気持ちで四度目の春を迎えようとしていたその時、なんということか、ひょんなことから私は蝦夷の国へと居を移すことになってしまったのでございます。
蝦夷……!
よりにもよって蝦夷とは!!
ああ、運命というのはここまで残酷なものなのでございましょうか。
蝦夷の国は年中強い空っ風が吹くといいますし、花粉症の症状も今までとは比べるべくも無く、目を覆うほどの惨状となることは火を見るよりも明らかでございます。
ああ、もう、どうにでも好きにするがよい。
私は身寄りも何も無いこの蝦夷の地で、独り苦しみ、病に倒れる運命だったのでございます。
私を追い詰めようとしている警察官の手には逮捕状ではなく死刑執行証が握られていたのです。
おそらく警察官に見えていたものも実際は黒装束を身にまとった死神だったのでございましょう。
ああ、ならばいっそ早く楽にしてくださいませ。
私はもうこの恐怖には耐えられそうもございません。
死神殿、早く私を連れて行ってくださいませ。
そんなふうにして涙と共に蝦夷の国へと渡った後、枯れるような思いで一枚また一枚と日めくりを引き剥がしておりましたが、意外にも何も起こらぬまま弥生、卯月があっさり終わってしまい、いやいや蝦夷の国は春が遅いというし花粉症になるのはこれからだと気合を入れなおした皐月も、拍子抜けするほどにあっけなく私の前を通り過ぎていってしまったのでございます。
これはいったいどうしたことかと、近くのお医者の先生に、これこれこうでこういうわけでございますとお伝えしてみると、なんと、蝦夷の国では私の花粉症の原因となる樹木の花粉がほとんど飛散していない、とおっしゃるではございませんか。
思いもしなかったお言葉に、私は心の臓が止まってしまうのではないかと思いました。
もしかしたら実際に椅子の上で飛び上がってしまったのかもしれません。
なんということでしょう。
つまりそれは、私は蝦夷の国に住んでいる限り、もう二度と花粉症に悩まされることは無いということなのでございます。
逮捕状やら死刑執行証やらを握った警察官も死神も、この蝦夷の国にはやってはこないのです。
突然舞い降りてきたこの世の春に、私の胸はただただ狂喜乱舞するだけでございました。
それからというもの、春が近づくにつれテレビジョンから流れてくるようになる花粉症の為の飲み薬やら目薬やらのコマーシャルを見ても、たいへんだなあ、苦しいんだろうなあ、と思うだけで、どこかやはり他人事のような目で眺めている毎日なのでございます。
初出:2009年 ブログ『晴れた日に見えるもの 雨の日が見せるもの』(現在は終了)
修正,加筆:2015年
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