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白鳥静香先生の言葉より 229 四君子(しくんし)

白鳥静香先生の言葉より 229 四君子(しくんし)

先日、ニュースを読んでいたら、

天候のせいで、お盆で使う菊の花の値段が高騰していると

いうことがいわれていました。

お盆というのは、故人を供養したり、お墓参りをする
東洋の夏の行事ですが、

菊の花は、

日本ではお葬式や法事、お墓参りの花になってしまっているのです。

私は菊の花はとても美しいと思います。

菊の花は東洋では昔から、

「四君子(しくんし)」といって、蘭、竹、梅とともに、

とくに気品があって徳の高い四種類の植物のひとつとされていました。

「君子(くんし)」とは東アジアの思想体系である儒教が考える、

徳や気品、教養をそなえた理想的人間像のことです。

この四君子(しくんし)ということを教えてくれたのは、

菊を育てていた私の祖母でした。

小さいころ、私も祖母が菊を育てる手伝いをしていました。

美にはいろいろなタイプの美がありますが、

徳の高さを感じさせる美というのは本当によい表現であると思います。

儒教の徳という概念が単なる道徳や善ではなく、

美を含んだ概念であるということは、

儒教の創始者、孔子の言行録である『論語』からもよく読み取れます。

四君子(しくんし)のひとつといわれ、

東洋で、それほどまでに美の典型のひとつとされていた菊の花ですが、

いつのまにか、お葬式や法事の花のようになってしまったのは、

ひとえに日本人がお葬式や法事に菊の花を使うという習慣に
よっているのでしょう。

私は菊の花がそのようなイメージになってしまって、

お葬式や法事にしか使われない花になってしまったことを

とてももったいないことであると思います。

菊は本当は、

薔薇の花や百合の花と同じくらいに美しいと思います。

いえ、美の気品や徳という面においては、むしろ薔薇や百合以上かも
しれません。

イギリス経験論哲学の祖といわれる

哲学者フランシス・ベーコン(1561~1626)は、

真理を探究するにあたって、

人間のあやまちの原因となりやすい四種類の偏見をあげ、

「イドラ」と名づけました。

ひとつめは

人間の感覚や錯覚など、

人類すべてに共通する人間性にもとづく偏見(種族のイドラ)。

二つめは

個人の習慣や教育、くせなど、個人の狭い経験によって

生まれる偏見(洞窟のイドラ)。

三つめは

他者との交わりのなかで互いに不正確な言葉のやり取りをすることから

生まれる偏見(市場のイドラ)。

四つめは

権威や伝統を無条件に信用してしまうことから生まれる偏見

(劇場のイドラ)。

これらの偏見は、

人間が真理を探究する際におちいりやすいあやまちとしてあげられた
ものですが、

私は、これらの偏見は同時に、

美の探究においても、

人間がおちいりやすいあやまちなのではないかと思うのです。

私たちは、

そのような偏見にもとづいてものを見てしまうために、

真理だけではなく、

美もまた見出だすことができなくなってしまっているのでは
ないでしょうか?

日本における、

菊の花の扱いはその典型なのではないかと思います。

先ほどのイドラということにあてはめるなら、

日本における菊の花の扱いは「市場のイドラ」にあたるでしょう。

私は菊の花は非常に美しい花であると思います。

子どものころ、

白い菊の花は、私の一番好きな花のひとつでした。

菊の花が、お葬式や法事のお花になってしまっていることは、

非常にもったいないことであると思います。

おそらく、世界には、

ほかにもそのようなことで

素直に美を見出だされていないものが数限りなくあるのではないでしょうか?

「私たち人間が、偏見から解放されて、

素直に世界の美を見出だすことが出来ますように。」

私はそう願います。

それは、私たち自身の幸福のためにでもありますが、

(世界に多く美を見出だしている人の方が幸福であるでしょう。)

ほかのすべての存在のためにもそう思います。

ある存在にたいして美を見出だすことができないということは、

その存在にたいする冒涜であるように思うからです。

私には、

すべての存在のなかに美を見出だすことは、

人間に与えられた倫理的義務、

あるいは使命であるように思えるのです。

この地球上に生まれたあらゆる生命のなかで、

ただ人間だけがそれをすることができるのですから。

本当はすべての存在は美しいのです。

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