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おっぱい考

 女の胸部の膨らみについて考える。乳児が飲む液体のソレではない。女の胸のアレについてである。

 おっぱいとは、何であるか。これは永遠の謎である。なぜ男はおっぱいに惹かれるのか。永遠のなぞである。分かったと膝を打ったことが過去に何度かあった。だが数日のうちにおっぱいは謎に帰する。

 女の胸部が“おっぱい”となった理由について生物学的進化論的説はいくつかある。どの説にも一長一短があるのだが、私は直立二足歩行起源説に説得力を感じている。直立二足歩行説とはすなわち、まだ人類の祖先が四足歩行をしていた時は、現在のチンパンジーなどと同様に繁殖期には生殖器が大きく腫れてオスにそれと知らせていたが、人類が進化の過程で直立二足歩行をするに至りメスの生殖器が両脚の間に隠れてしまい、そこが腫れていたのではメスの歩行が制限されるので腫れなくなり、オスに正確な情報が伝わらない。そこで代わりの部位がその役割を担うことになった、それがおっぱいであるという説である。よく目立つ正面やや上部に位置し、繁殖期のメスのチンパンジーの生殖器がそうであるように大きく腫れるのである。人間以外の多くの哺乳類は生殖可能な時期は半年に一度しかない。そうしてその時期にだけ、例えばメスのチンパンジーの生殖器は腫れる。しかるに人間は4週間に1回の割合で生殖が可能であるチート種だ。だから女の胸は引っ込む手間を省いたと考えられる。

 女の胸部はおっぱいでないと、すなわち膨らんでいないと母乳を作れないのだ… と勘違いしている者も少なくないと思うが、そんなことは全くない。現に生物種として近縁な猿の仲間を見るがいい。例えば繁殖可能なチンパンジーのメスの胸部は全く膨れてはいないが子を産めば当然母乳はふんだんに出る。要は乳腺があれば事足りるのでそこに脂肪のクッションを纏う必要はない。もしも人間を含む猿のなかまの女・メスの胸がすべからく膨れていてもって母乳を作るには膨れていることが必要であると結論付けられるなら、世の男の心はどんなに安らかだったであろう。だが実際はそうではなかった。かくしてここに謎と神話と酒の肴とが生まれたのである。

 おっぱいは目を引く。これは善い・悪いではなく事実である。例えば空いた電車の正面の席に立派なおっぱいの女が座っていたとする。季節は夏が良い。ヒトの男達はその視覚的引力に抗しきれるであろうか。いや、無理であろう。そんな男はこの世にいないと筆者は断言する。筆者は学生のある時、実際にそのような場面に遭遇したその場で実験をしたことがある。決しておっぱいを見ないで何分耐えられるかという実験である。結果は2分強であったと記憶する。これは銀河系中心のBHのそれにも匹敵するような強力な視覚的引力と言えるであろう。では次に、立派なおっぱいのこちら側にいる観察者が男でなく女であったらどうであろう。男の視線がおっぱいに引かれるのは自明のことと言えるが、女はどうであろうか。実は筆者は大学生の頃、知り合いの女という女にこれを質問していた一時期があった。変態のそしりを受けつつも得られた多くの回答が、女であっても女の立派なおっぱいには目が引き寄せられるというものであった。つまり、おっぱいは男女問わず目を引くのである。

 ちなみに、筆者はこれに類する別の質問を同じ時期に、知り合いの女という女にしていたことがある。その質問とは、電車の正面の席にミニスカートの若い女が座っている場面でその女がうとうとし始め脚が開き気味になった時に、ミニスカートの奥の下着を見るかどうかという質問だ。このシチュエーションでも白だかベージュだかのそれをちらりとも見ない男は皆無であろうと確信するが、実は女にあっても必ずと言ってよいほど見るという回答を筆者は数多く得た。比較のために、正面に座っているのがかなりハンサムな若い男でしかも短パンを履いていて、開いた脚の短パンの隙間から彼の御子息が「こんにちは~」と顔をのぞかせている場合についても聞いてみたが、大多数の女は気づいた時に一瞬見てしまうことはあってもその後二度とは見ないと答えたのである。これは男である筆者と全くの同意見であった。ここから結論づけられるのは、女の身体には元々視覚的引力が備わっているということである。

 次におっぱいの外見について触れる。おっぱいには実に様々な形状がある。これは複数の要素に分けることが可能でありまた分けて考察するのが正しい態度である。

 そこでまずは大きさの違いについて考えてみる。おっぱいが単なる胸ではなくおっぱいたり得るのは、膨れているという一事によってである。したがって一般には小さいおっぱいより大きいおっぱいが好まれる傾向がある。もちろん大きければ大きいほど良いということではない。自ずと人によって“このくらいが最良”という大きさがある。このあたりの事情は極度に個人的な要素を多分に含むので単一の理論で多様な意見を両断するということは不可能だが、その存在理由を考えても、ある程度の大きさがあることが望まれるのは間違いなかろう。ちなみに、ごく小さいあるいは皆無に等しいものを好む者が一定の割合で存在することは了解しているが、この嗜好についてはまず前提として「生殖可能な女の胸はある程度大きく腫れている」ということがあり「しかるにこれは極めて小なり」という文脈からその特殊性なり希少性なりそのおっぱいの所有者の心情を慮るなり容姿の総合的系統を加味するなりの過程があってはじめて成立するという、副次的なものであると解釈することができる。この辺の事情については別稿を立てなければならないほど複雑であるので、ここでは置くとする。

 ところでインターネット上に豊富に存在する参考動画を見ると、モンゴロイドとコーカソイドとの間でおっぱいの大きさの平均値が大きく異なる事実に気付く。この二つ以外の人種を無視する気持ちは毛頭なく筆者としては網羅的に扱いたい欲求を強く感じるものの、考察を単純化する必要上この二つに限って比較するが、我がモンゴロイドはおっぱいの大きさの平均値に関してはコーカソイドに完敗であろう。だが、単に大きければ良いのかという先述した要素がここで大きく影響し、我々モンゴロイドの男の多くはコーカソイドの巨大なおっぱいに驚愕を覚え称賛を送りながらも、実際問題としてはモンゴロイドのそれを望む傾向が強いのではないだろうか。あまりに巨大であると、むしろ気持ちが引くのを覚えるように思う。このへんの事情は所謂「価値観」に関わるところが大であり文化論や人種論、心理学などが絡む事象であり、別稿を待たれたい。

 次におっぱいの位置・形状について触れてみよう。位置については大まなに言ってy軸方向とx軸方向とに分けて考えられる。まずはy軸方向について考える。おっぱいは胸の比較的上部に付いているものと比較的下部に付いているものとに大きく分けられる。大きさが大きければ重力の影響が増大するので結果的に下の方に位置しているように見える場合も多いが、比較的小さなものでも下の方についているものがある。また大きさが大きめであったとしても内容の充実したおっぱいは高い位置を保つ傾向が見て取れる。このように大きさや充実具合によって複雑に変化するおっぱいのy軸位置であるが、何をもって「おっぱいの位置」とするかに関して、ここでは「胸のどの高さからおっぱいが“生えているか”」ということと一旦定義する。その上でおっぱいの上下の位置とその大きさとを
①高・大
②高・小
③低・大
④低・小
の4つの類型に分けて考えると、①は重力の影響を比較的大きく受けてやや垂下するが、もともとの位置が高いため全体としてバランスがとれる傾向にある。また下着による矯正も容易であり、各種下着による演出も様々な可能性を有している。②については、歳若く未発達なおっぱいの印象を見る者に与え、フレッシュな果実のイメージと結びついて多数派ではないかも知れないが一定の積極的支持がある。③については、観察者が未熟な場合はそのおっぱいに実際の大きさ以上の存在感を与えることに成功するだろう。これは着衣時に顕著であると推察される。ただし①と比するなら下着による演出のバリエーションはある程度限定的となる。そして④であるが、不本意ながら④には特段言及する客観的美点が無いように思われる。そして我がモンゴロイドのおっぱいは④の割合が存外高い。だがここに主観を交えることが許されるなら、我々モンゴロイドの多くの者は、ここにこそ“故郷”を感じるのではないだろうか。泣きたいような郷愁を得るのではないだろうか。

 これら4つの類型はあくまで便宜的なものであることを付記しておく。当然ながらおっぱいの位置は極めて高い位置から極めて低い位置の間において無段階のバリエーションを有している。

 次におっぱいのx軸方向の位置について考えてみよう。つまり横の広がりについてである。y軸方向に関するそれと同様にx軸方向に於いてもおっぱいの位置というものを定義しておくなら、それは「左右のおっぱいが胸部中央からどの程度離れた位置に“生えているか”」と定義できるが、このx軸方向の定義はy軸方向の位置のそれと比べてかなり限定的な意義しか有し得ないと言える。即ちさほどの個体差を認め得ないということだ。むしろx軸方向については、先天的な位置から後天的にどのような発達をするかに大きな意味があるのは疑い得ない。大まかに言えば横に広がるように発達するものと前に突き出るように発達するものが存在するということである。y軸方向と同様にこれも四つの類型に分けて触れてみよう。おっぱいの位置・発達の方向である。
①広・広
②広・凸
③狭・広
④狭・凸
①はコーカソイドに頻繁に見観察される。大味で弛緩した印象を禁じ得ない。一部に熱心な支持者もいる。②は雄大なおっぱいになる可能性が高い。大きく発達しても破綻することがない一方で、もしもあまり大きくならなければやや間延びしたおっぱいになる可能性がある。③も②と同様に立派なおっぱいになる可能性を有している。しかもさほど発達しなかったとしても比較的バランスの取れたおっぱいとして存在感を示すだろう。④については、特に着衣時に美しいシルエットを作るのに寄与するだろう。脱衣して仰向けに寝てもおっぱいはその存在感を維持できるに違いない。ただ脱衣時にややスケールの小さなおっぱいの印象を与える嫌いがある。いわゆる「寄せて上げて」はこの形状を目指していると言える。

 余談であるが、進化論的なことを述べれば現在でこそ一対二個のヒトの乳首であるが、ヒトがまだ四足歩行していた頃は現在の犬や猫のそれのように四対八個とか五対十個とか、そなような数があったようである。現代でも時折ちょっとした先祖返りが起こり、脇の下などに小さな乳首が現れることがある。これを副乳と呼ぶ。もしも副乳が通常のおっぱいの下部などに大きく発達して第三・第四のおっぱいとなるなら、あるいはここで論じるに足る物と言うことができるかもしれないが、実際は多くの副乳が取るに足らないもので終わってしまう。

 さて、ここでおっぱいの構造に関して触れなければならないのが乳輪についてである。そもそも乳輪の存在意義とは何であるか。不可思議である。まるでダーツの的のようだ。まるで「ココを狙ってください」と言っているかのようだ。もちろん授乳期にまだ視覚のままならぬ新生児が乳首を見つけやすくしているのだという推測は容易である。が、それなら授乳期にだけ色付けば済む理屈である。とすれば、やはりただの胸部がおっぱいになったことと同根の理由、即ち性的成熟をアピールするために目立たせていると解釈するのが妥当であろう。女本人の意志とは無関係に男の関心を惹く効果を発揮しているのである。ところで乳輪の大きさについてであるが、乳首の直径:乳輪の直径が1:3であるとバランスが良いようである。ただし、賢明なる読者はすでにお気付きのことであろうが、これらの比を云々する前に、そもそも乳首の大きさについて触れておかないと論が意味をなさないということがある。この点をこの場で掘り下げていくと深い樹海の中を彷徨うことにもなりかねないので、ここでは乳首の直径は日本人の平均とされる1.3センチメートルとしておこう。故にバランスのよい乳輪の直径は約4センチメートルほどということになる。ただし、このへんの事情は複雑を極めており、軽々に論ずることができない。即ち、おっぱいのサイズが大きければそれに合わせて乳首・乳輪もある程度大きくなければバランスはとれず、逆も然りということだ。x軸方向の位置とのバランスも無視できないし、どの方向に発達するかも関わってくる。さらに言うなら後述するおっぱいの充実度によっても印象は変化する。それはあたかも三体問題のような性質であり、複数のファクターを並行同時的に考えなければならない難しさがある。

 おっぱいの形状に関する最後の要素として、そのz軸方向の諸相について触れておこう。すなわち、おっぱいがどの程度前に突き出ているかである。

 このz軸方向について論ずるのは、実は思いの外難しい。大きなおっぱいのz軸は当然のことながら大きな数値をとる傾向があるが、おっぱいの「充実度」という概念を導入してこれを捉えないと論が非常に浅薄になる。おっぱいの「大小」とは、おっぱいに関する様々な定量的要素が総合された結果として現れてくる複合的な相である。例えば、器・袋としてのおっぱいが大きくても内容的充実度が低ければ、それはダランと垂れ下がる物になるであろう。ただしその場合でもおっぱいを形成する脂肪の質が硬めであれば、それは比較的前に突き出るだろう。さらに皮膚組織が厚みと強度の高い場合はその傾向が強まるだろう。おっぱいの器・袋としての大きさが小ぶりである場合、その内容物の充実度がある程度以上の水準であり皮膚組織にある程度以上の厚みと力強さがあるならば、張りのあるいわゆるロケット型おっぱいと呼ばれるz軸方向に尖ったおっぱいになる可能性が高い。一方で、器・袋が小さくしかも充実度が低くさらに皮膚組織が脆弱な場合、サイズが小さくしかも垂れ下がる形状となり、残念おっぱいとなる可能性が増す。

 このように、おっぱいのz軸方向に関しては単純類型的に扱うのが難しい。

 さて、おっぱいの位置・形状から離れて少し感覚的なことに話題を移す。散々位置・形状について触れておきながらこう言ってしまっては身も蓋もないのであるが、一般に男も女もおっぱいの微細な位置・形状の違いには大して注意を払わない。おっぱいはまずそこに二つながら存在していることそれ自体に大いなる意味がある。0か1かの違いと比べれば1と2との違いなどほとんど黙殺できてしまう。これは特に着衣中において顕著である。まずそこに“ある事”が重要であり、そのかなり後方に“大きく見えるか否か”が来る。これは我々人類がいかにおっぱいの存在に重きを置いているかの証左である。キリスト教の神は、はじめに
「光、あれ」
と言ったと伝わるが、もしかしたらそれに続けて
「おっぱい、あれ!」
と言ったかもしれない。それほどに深く強い力を、おっぱいは持っている。

 さて、着衣中では何をおいてもその存在自体に意味があるおっぱいであるが、脱衣時となるとそうもいかなくなる。世の諸姉は風呂上がりなどに自らのそれを鏡で点検してため息をつくなり首を振るなりすることがあると思うが、それは脱衣時だから起こることである。着衣さえしてしまえば上記のようにそれはただ存在するだけでアドバンテージとなる上に下着等でかなりの演出が可能だ。筆者は昔、JR大宮駅の埼京線ホームに降りる階段上にレモンのような形状のアレが落ちているのを見たことがある。どういう経緯でそんな所にあんな物が落ち放置されるに至ったのか想像もできないが、何とも言えない感慨を覚えたことを今に記憶している。

 さて、男においても脱衣時のおっぱいとの邂逅は様々な想いが交錯するイベントである。インターネット等で参考動画に見慣れた諸兄にとっては、現実一般のソレはわずかな落胆を伴うものとなることが多いのではないだろうか。プロのおっぱいで妙に目が肥えてしまえば現実の市井のおっぱいはどうしたって見劣りすることが多い。もちろんごく稀に大当たりを引き当てることだってあり得るだろうが、そんな幸運はそうそう巡っては来ない。ただし、極めて理想化された憧憬の想いは潰えたとしても、目の前にあるのは本物のおっぱいであってみれば、男はすぐに判断基準を切り換えて臨むことだろう。それが実おっぱいの説得力というものだ。

 おっぱいは一般に柔らかい。まぁ脂肪の塊であるのだから当然と言えば当然であるが、その柔らかさには色々なレベルがある。

 形状的美を優先するのなら、充実度の高い固めのおっぱいが良いであろう。このタイプは重力に逆らって、あるいは重力をうまく利用してその美しい形状を保つ。ただし、このタイプのおっぱいは触ってみた時の愛おしさという点では、後述する柔らかいタイプのおっぱいの後塵を拝することを避け得ない。着衣時にドーンとあって、脱衣に至ってもバーンとそこに起立するそれの存在感は見事の一言であろうが、触ってみると「……」となる。

 一方で柔らかいタイプのおっぱいは、どうしても重力に抗することができない。大きければ大きいなりに小さければ小さいなりにかなり垂下することになる。これは着衣時には大きな問題になり得ないが、脱衣するとどうにも隠蔽のしようがない。また仰向けに寝ようものなら、大きなものはロンドンとパリくらい大きく離れてしまうだろうし、小さなものだと乳首と乳輪とを残して完全に消失してしまうであろう。純粋に見た目の美しさて言えば、柔らかいおっぱいはあらゆる場面で固めのタイプに勝ることはできない。ただし、おお諸兄よ、それを触ってみるが良い。そこには深い感動と愛おしさとが見つかるであろう。男の自分が何を守らんが為に生まれて来たのかを瞬時に深く悟るであろう。

 さて固いタイプのおっぱいと柔らかいタイプのおっぱいと、女にとってどちらが得であるか。着衣時はどちらも演出可能であるが固めのおっぱいの方がやや優勢であろう。脱衣時は、触られる前までは固めが優勢だか触られてからは柔らかいタイプの圧勝。ただし触られるような仲になってしまっているのならおっぱいの主だった役割は既に果たしているとも言える。我々ヒトは圧倒的に着衣している時間が長いという事実もある。ここは引き分けとするのが良いのかも知れない。

 ところでこれは我が配偶者の説なのであるが、どういう物であれ男は一般に柔らかい物を好み女は一般に固い物を好む傾向があるという。ミスタードーナツのドーナツを例に採れば、配偶者は固めで歯応えのあるオールドファッションが好きであり、筆者はふわっふわのエンゼルフレンチが好みである。この説に関しては筆者はきちんとした調査をしていないので、ここではそのような説もあるということを示すに留める。

 感覚的なことで若い頃の筆者が非常に驚いた事が一つあるので紹介しておこう。それはおっぱいに関して、女は乳首以外は接触刺激があってもほとんど何も感じないという事実だ。諸兄よ、同志よ、一生懸命おっぱいを揉んでも第一義的な効果は皆無たることを銘記せよ。指や掌が乳首に触れない限り、なーんにも良くないんだって。おっぱいの脂肪を揉まれても腹の脂肪を揉まれても変わりはないんだって。無論何らかのシチュエーションの工夫による第二次的な心理的良さはあるだろう。だか少なくとも、多くの男が夢見るほどには、そこに浪漫はないのである。我々男はその前提で生きていく以外に選択肢は、無い。

 その他に触れるべき細々としたことに触れる。

 まず乳輪と乳首の色。一般に男は薄い色を好む傾向にある。願わくはうっすらピンクがかっているとさらに評価が上がるだろう。ただし、ピンクの乳首をモンゴロイドに求めるのは無理があるように思う。そしてかなり黒に近い焦茶色の物も、シチュエーションと関係性と嗜好によっては稀有の魅力を有する可能性も無いわけではない。ここでは巡り会った偶然に感謝して不平は慎むのが肝要である。

 乳輪のポツポツ。単に見た目の美しさを重視するなら乳輪のポツポツは皆無のおっぱいが良いが、適度にポツポツがあると何とはなしに生物学的リアリティが増すように思う。結果、味わいが増すということが起こり得る。餡子は砂糖を入れて甘くすれば良いというものではない。わずかに塩を入れるからこそ甘さに深みとコクとが出るのだ。乳輪のポツポツは餡子に於ける塩である。

 静脈。色白のおっぱいにうっすらと静脈の透けて見えるはいとをかし。これも前述の乳輪のポツポツと同じ理由で、よい味を醸し出す。だがその味わいを理解するのは、二十歳やそこらの子供には無理なのではないだろうか。例えば愚地独歩くらいには年季が入っていないと分からないのではないのだろうか。今思いついたのであるが、この“完全であることを嫌う”価値観は、兼好が『徒然草』に書き記し、奈良や平安の宮大工が喧伝せずにさりげなくやったような、日本古来から続く価値観に通ずるものがあるように思う。静脈の浮き出たおっぱいを好む傾向は海外にもあるが、彼らはそれを一つの潮流とは捉えていないように思う。日本の深い伝統文化はおっぱいにも通じるのだ。

 ほくろ。この拙稿冒頭の絵を見ていただきたい。向かって左のおっぱいの上に小さなほくろが確認いただけるだろうか。こんなところに小さなほくろがあるだけで、筆者の心拍数は40くらい上がるのである。何これ? どういうこと? なんで? どういう理論? どこかに論文ある?

 揺れ。おっぱいは揺れる。大きさが足りないと気付かれるほど揺れないこともある。恐らく全ての女がおっぱいは揺れるべきだと思っているのではないだろうか。そして恐らくそれ以上の男がおっぱいは揺れてほしいと願っているだろう。現実にはほとんどゆれないおっぱいが決して少なくない割合であるのであるが、とりあえず一端揺れると仮定して、揺れには
①上下平行揺れ
②左右平行揺れ
③左右アメリカンクラッカー揺れ
の3つの類型がある。着衣時にはおっぱいの自由な運動は制限を受けているのでほぼ①しか許されてない。②と③については脱衣時の特定のシチュエーションで観察されるのみである。また脱衣時にはごく稀に ④上下段違い揺れ が発生することがあるが、筆者はまだ肉眼でそれを確認したことがない。

 さて、次に「おっぱい」という名前について触れたいと思う。おっぱいの語源にはいくつかの説があるが定説はないようである。色々な説を読んだがどれもしっくりこない。ただ、「おっぱい」という響きの何と魅力的なことか。なんとおっぱいを余すことなく表現し切っていることか。諸外国の「おっぱい」を表す単語を読むにつけ、日本語の美しさと優位性とを深く再確認できる。ここに参考までにいくつかの外国語に於ける「おっぱい」を表す単語を示しておく。(Google 翻訳による)
英語 tits(ティッツ)
フランス語 seins(サーン)
ドイツ語 titten(ティトゥン)
イタリア語 tette(ティッテ)
中国語 山雀(シャンチエ)
スワヒリ語 matiti(マティティ)
いかがであろう。「おっぱい」こそおっぱいではないだろうか。「おっぱい」こそが、おっぱいの中のおっぱいではないだろうか。

 さて、そろそろおっぱいをめぐる冒険の旅もフィナーレが近づいて来た。おっぱいは永遠の謎である。例えば女性器それ自体に男が魅かれるなら、それは生殖本能の発露ということで片が付く。だがおっぱいは生殖それ自体と直接の関係がない。だから謎なのだ。筆者は20年ほど前に一つの哲学的な仮説を思いついた。それは、ヒトの身体には常に生命の内圧が大きくかかっており、より敏感であるように存在的皮膚の薄いところがその内圧によってより大きく膨らむという説である。この説が正しいなら、おっぱいは女の生命が最も顕著に表れる部位と言うことになる。その女の生命に呼応すべく男が(また女さえも)反応する… そう考えると全ては合点がいくのである。何等の証左もない、ただの直覚ではあるのだが。

 最後に堀口大学の『乳房』から一説を引いて拙稿を閉じる。

  乳房 恋愛の詩法
  乳房 愛撫の韻律


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