【小説】真珠の耳飾りのフェルメール
ハーグ王立美術学院の学生、テオ・ホイヘンスはマウリッツハイス美術館からの帰り道にホームセンターのGAMMAで買った直径二センチメートルほどのステンレス球を右手の三本の指で摘むように持ってかれこれ二時間も眺めていた。離してみたり近づけてみたり、身体の向きを変えてみたりしながら、その銀球を覗き込み深く物思いにふけっていた。
「見るということに於いて、どんな人種よりも敏感で貪欲な"画家"が気付かないはずはない… まして描かないはずはないんだ…」
テオは良く磨かれたその金属球を眺めながら自室の窓際の椅子に腰を下ろした。円くゆがんで窓枠と雲の浮かぶ空とが映って見えた。そして……
ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト、通称ヨハネス・フェルメールは彼の義理の母親の屋敷の上階にある彼自身のアトリエの作業机の前に座り、最近よく見かけるようになった模造真珠を指に持って眺めていた。黒真珠を模したその球体には窓枠とともに五月のデルフトの空がよく映っていた。模造真珠はガラスで作った球の内側にニシンの鱗から作ったパールエッセンスを塗布することで作られる。色味は本物の真珠に近いが表面がガラスであるために本物の真珠よりも周囲をよく映す。人工であるがゆえに大きなものも安価かつ容易に得られた。ヨハネスはその模造真珠を見つめながら、半月ほど前に親友の画家、ピーテル・デ・ホーホが話してくれたある静物画のことを思い出していた。『自画像のある静物画』と呼ばれるその作品は一世代前の画家ピーテル・クラースが三十年以上前に描いたもので、ヴァイオリンや頭蓋骨などが寓意を込めて描かれているものだった。デ・ホーホは「昔、ハールレムに住んでいた時に面白い絵を見た」といってその静物画に描かれている物について話してくれたのだ。ヨハネスは、デ・ホーホが話してくれたことを思い出しながら、描かれた静物が象徴する存在について、少しの間考えを巡らせていた。
三つ年上のデ・ホーホと知り合ったのは十年前だった。ヨハネスが聖ルカ組合のマイスターだった時に新たに加入してきた彼とはすぐに意気投合し、以来ずっと、一番の親友として付き合ってきた。真面目な性格で絵を描くことに対して可能な限り真摯な態度を採ろうとする男であった。ヨハネスはいつも、自分を除けば彼ほど絵を描くことに真正直な者はいないと言っていた。だがデ・ホーホは真面目な性格があだをなすようなところがあり、常に金に苦労していた。ヨハネスは大金持ちの義理の母や極めて強力なパトロンにも恵まれていて、金の苦労は一切なかったが、デ・ホーホはいつも金の工面に奔走しているのだった。もちろんヨハネスは自分のパトロンにデ・ホーホの才能を説いて便宜を図るように協力はしていたが、立ち回るのがうまくないデ・ホーホは思うようにはいかないことが多かった。
と、アトリエのドアがノックされる音が響いた。「はい」とヨハネスが答えるとドアが開き、屋敷のメイドの一人が顔を出して「ピーテル・ファン・ライフェンさまがお見えです」と告げた。「お通しして。それと紅茶を二つたのむ」とヨハネスが返すとメイドは「かしこまりました」と言って膝を少し折ってからドアを閉めた。ライフェンはヨハネスにとって最大のパトロンだった。ヨハネスの絵を常に高く評価してそのほとんどを買い上げてくれていた。ヨハネスは裕福な義母とこのライフェンのおかげで、一年に絵を二・三描き上げるだけでほとんど不自由のない生活を送ることができているのだった。
ドアが開いた。仕立ての良い薄いブラウンの上等な上着を着たライフェンが入ってきた。
「やぁ、ヨハネス。元気かい」
ライフェンがヨハネスに歩み寄りながら笑顔で言うと
「こんにちは、ライフェンさん。おかげ様でこの通り生気がみなぎっていますよ」
ヨハネスはそう言って両手を広げて自らの健康を笑顔で示した。そうして二人、しっかりと握手をかわした。
しばらくとりとめのない話しをして笑いあっていたが、ふとライフェンが声の調子を変えてヨハネスに聞いた。
「ときに… 君は自画像は描かんのかね? 聖ルカ組合のマイスターにもなり、世間では『フェルメール』の名を知らん者はそうそういなくなった。君もそろそろちゃんとした自画像を描いても良いころじゃないかと思っているのだが。最近、私のところに『あなたが持っているフェルメールの絵をいくつか売ってくれ』と言ってくる人がかなりいるんだよ。大体は上流階級の者なんだがね。そうすると『そもそもフェルメールというのはどういう画家なんだい』と聞かれるのが常なんだ。私も色々説明するのだが、どうも私の言語表現が拙いらしく、相手はなかなか分かってくれない。そこで『ほら、こんな男ですよ』と自画像を見せれば百聞は一見にしかずというわけなんだ」
ライフェンが「ちゃんとした自画像」というのには訳があった。実は十年ほど前、売春宿の一場面を描いた絵の中にそれっぽい人物を描き込んだことがあったのだ。だがそれは、初めてそういう所に連れて行かれてあたふたしたのを自嘲して描いた“おふざけ”のようなものだった。確かにアレが後の世で「こちらがフェルメールの自画像でございます」などと言われたのではかなわないと思う気持ちはあった。だがヨハネスにはどうしても自分を絵に描くことに抵抗があった。抵抗があるというよりも、自分を絵に描く必要を全く感じられなかったと言う方が近い。ヨハネスはパトロンの意向に沿う絵を描くことに疑問は感じなかったが、それは金を出してくれる者の希望と自らが描きたいと思うものの合わさったところを描くからであった。美しいと思うこともなければ興味も持てないものを、どうしてわざわざ描かなくてはならないのか分からない。そうしてヨハネスは自らの容貌について、美しいとも思わなければ全く興味もないのであった。そういう理由から、ヨハネスはこれまで自画像の類を描くことをしなかった。したがって今回も大恩人のライフェンに「自画像を描いてくれ」と言われ、一理あるような理由にちょっと頷きはしたものの、気乗りは全くしないのであった。
「自画像… ですか。そうですねぇ… でもライフェンさん、画家なんて容貌が知れずにミステリアスな方が、かえって絵の人気が増すというものではないですか? 何百年も経ったら、謎の画家の描いた絵が大流行りしているかも知れませんよ?」
ヨハネスはそんな屁理屈を捏ねて見せて、気乗りしないことをライフェンに示すと、
「まぁ、少し考えてみれくれないか。今すぐどうのこうのという話ではないんだよ。そのうち、気が向いたらで良いのだから」
ライフェンもそう返して、自分は諦める気はないよということをヨハネスに示した。
「分かりました。少し考えてみます」
ヨハネスはちょっと肩をすくめながら笑ってそう答えた。
ライフェンはその後はふたたびゴシップやら政治やら景気やらの話を小一時間ほどして帰っていった。ヨハネスは、自分を力強く援助する者があのように穏やかな性格の紳士で良かったと心から思った。そうして恐らく描くことはないであろうが、もし自分が自画像を描くなら… ということを、その日一日は考えたのであった。
ひと月ほどしたある日、デ・ホーホがヨハネスを訪ねて来た。仲が良いので訪ねて来ること自体はめずらしくはなかったが、その日はいつもと少し雰囲気が違っていた。早々にそのことに気付いたヨハネスが聞いてみると、デ・ホーホはヨハネスに頼みごとがあると言う。
「実は… ロッテルダムに俺の妹が住んでいるんだ」
「妹? 君の弟・妹たちは全員夭折してしまったって前に言ってなかったかい?」
「うん。前に確かにそう言った。だがそれは正式な弟・妹たちの話だ。今話しているのは、母親の違う妹のことだ。そういう妹が実は一人いるんだ」
「ほほぅ、そんな妹がいたのか」
「あぁ。お前が知らないのも無理はない。俺だって、その存在を知らされたのは去年のことなんだから。妹の名はエラというんだが、親父はエラが生まれた時に知らされてはいて、母さんには内緒でずっと多少の金を送っていたらしい」
「なるほど。人生、色々あるという見本のような話だな」
「確かにな。俺も初めは、全て死んでしまったと思っていた弟妹が実は一人生き残っていると聞かされても、実感も愛情も感じることはなく、今のお前と同じように『色々あるんだな』くらいに思っていたんだ。だが会ってみたら気持ちが変わった」
「へぇぇ。変わるものかね、気持ち」
「あぁ、変わるな。俺も初めて知った。会ってみたら、顔が親父にちょっと似ているんだよ。初めは妙な気分だったが、こいつは俺の妹だって、じわじわ実感がでてきてね」
「そういう、ものか?」
「そういうもの、らしい。ただ俺がそういう気持ちになったのにはもう一つ事情があってな。それはエラが肺を患っていて、どうやらもう長くはないというのだ。エラの母親はエラを産んだ後、わりと収入のある男と結婚してエラもその母親もそれなりに幸せに暮らしていたらしいんだが、肺に病が見つかってこりゃ駄目そうだとなった時に、親父のところに知らせが来たんだそうだ」
「肺か。可哀想だな」
「そうなんだ。この世に生き残っていたただ一人の血を分けた妹が、たった十八で天に召されようとしているかと思うと、本当に不憫でな。先に死んでいった弟・妹たちの顔も、次々とまぶたに浮かんでくるんだよ」
「そうか。全て神の思し召しとはいえ、辛いところだな」
「そうなんだ… それでだな、俺はちょっと前にエラの家を訪ねて行ったんだが、エラの部屋に入ったら何があったと思う?」
「何があった?」
「お前の絵だよ。本物も一つあったが、模写が五つもあった。俺の妹だから絵の才能があって絵が好きだというのは自然なことだが、なんとお前の大ファンだと言うのだ」
「えっ? 私の?」
「うむ。あれはもう“好き”を通り越して“崇拝”だな。古から続く絵画史の、イタリアやオランダの巨匠たちの数ある傑作を差し置いて、お前の絵こそ最高だと言うのだ」
「それは… ありがたいことではあるが… さすがに恐れ多いな」
「それでな、エラはもう自分が長くは生きられないことを知っている。だからこそ、生きているうちに一目でいいから崇拝するヨハネス・フェルメールにお会いしたいと、こう言うのだ。ヨハネス、一生の頼みだ。エラに、妹に会ってやってくれないか!」
「うぅむ… 会うのは別に構わないが… 私が会ってかえって幻滅したまま天に召されるなんてことはないだろうか?」
「それは大丈夫だ。エラのお前への気持ちは信仰に近い。お前がどんな失敗をやらかしても、全て良いように思うだろうよ。病が伝染るといけないから、手を握ってやってくれとは言わん。ただ会って一言二言話しをしてやるだけでいいんだ。ヨハネス、頼む!」
「…分かった。親友のピーテルの頼みだ。喜んで力になろう。私の絵をそこまで好きな人がいるということも嬉しいし、なにより若い身空で天に召されなければならないということに同情を禁じ得ないからな」
「ありがとう! 妹は絶対に大喜びするだろう!」
「あぁ、私でよければ」
そんな会話の後、デ・ホーホは忙しく帰って行った。ヨハネスはエラのことを可哀想だと思う一方で、自分の絵をそこまで好きでいてくれる存在に初めて出会った喜びをも強く感じていた。自分が会うだけで安らかな気持ちで死を迎え入れることができると言うのなら、ぜひ力になろう… ヨハネスはそう思うのであった。
約束の日が来た。デ・ホーホからはロッテルダムのエラの住む家の住所が書かれた紙片があらかじめ手渡されていた。約束の時間を少し過ぎたところで紙片の住所の建物に着いた。初めて訪ねる家の前でヨハネスは多少の緊張を感じていた。ドアの横の呼び鈴を押すと中で物音が聞こえてすぐにドアが開いた。デ・ホーホであった。「よく来てくれた」と握手しながら中に招き入れられると、エラの母親に紹介された。育ての父親は外せぬ仕事があって外出中とのことだった。建物も部屋も、決して豪華なものではなかったが、こじんまりと品のある調度類が置かれた好感の持てる家であった。エラの部屋は二階だとのことで、デ・ホーホが先導して階段を上った。
部屋のドアの前まで来た。エラを訪ねるに当たって、デ・ホーホから言われたことをヨハネスは思い出していた。それは肺の病気の薬の副作用で、エラは髪の毛と眉毛とが全て抜け落ちてしまっているが、どうかそのことを驚かないでやってくれとのことだった。ヨハネスはそれを今一度頭の中で確認した。ただでさえ同情すべき病人にさらなる悲しみを与えるなど愚の骨頂である。デ・ホーホは言ってはいなかったが、余命いくばくもない身なら、きっと容貌もだいぶ衰えていることだろう。ヨハネスはその点も心構えをしっかり決めておいた。自分はにこやかな顔でエラに会うのだ。そう固く決心して開かれ招かれたエラの部屋に入った。
その少女はベッドの上に起き上がり、横座りに座っていた。部屋の壁にはヨハネスが以前描いた風俗画の小品といくつかの模写がかかっていた。
エラは、掛け布団を足元の方に半分に折ったベッドの上で、白い寝衣の上に黄褐色の大きめな上着を肩からかけていた。頭髪の抜けてしまった頭には、鮮やかなブルーと黄色のターバンが巻かれていて、それはちょうど長い髪を背後でまとめて垂らしているかのようだった。確かに眉毛はなくなってしまっていたが、ヨハネスが想像していたほど顔がやつれてはおらず、肺を患う人特有の透けるような白い肌に大きな黒い瞳が、それこそ神でも見るような全幅の信頼と尊敬と崇拝の念を込めた色とともにヨハネスに向けられているのだった。
「あぁ、神様!」
それがエラの第一声だった。その後はもう言葉らしい言葉も出ず、それでも心に決めていた挨拶と感謝の言葉とを言おうとでもしているのか、開かれた口は力なく震えるばかりだったが、みるみる大きな両目が輝きを増したかと思うと、真珠のような大粒の涙が頬を伝わり始めた。デ・ホーホもあらぬ方を向いて肩を震わせていた。ヨハネスはといえば、それまでに経験のない大きく深い感情に強く打たれて密かに驚いていた。それは最大級の感動と言ってもよいものだった。全く予想だにしていなかったことだが、エラの顔と涙とを目の当たりにした時に、エラの思いの全てが一瞬で分かったような感覚を得てヨハネスの両目にも熱い涙があふれてきた。頭の片隅で、自分がこの場面で泣くのは変だと可笑しく思いながらも、涙は止めようもなくあふれ続けるのだった。
やや経って、大人のヨハネスが言葉を発した。
「エラ、今まで私の絵を好きでいてくれて、ありがとう。絵筆を執って、画家になって、こんなに嬉しい気持ちになったのは初めてだよ」
声を震わせながらそう言うと、とうとうエラは布団に顔を伏せて号泣し始めた。さらに数分経ってエラも少しく冷静になり、しゃくり上げながらもこう言うのだった。
「フェルメール先生… 本日は、私のために… わざわざお越しくださいまして、ありがとうございます。先生の絵を初めて見てからずっと、先生の絵は私の生きる意味の全てでした… そして今日… 先生にお会いすることができて、もう何も思い残すことがなくなりました。先生… あたし、こんなに幸せで良いのでしょうか…」
エラは涙で濡れる顔全てを感謝の笑顔で一杯にしているのだった。そしてヨハネスはそのエラの顔に無上の美しさを見たのだった。
エラの母親が盆に乗せた紅茶を持ってきた。母親も目を真っ赤にしているが、彼女もまた大人である。「さぁさぁ、お茶にいたしましょう」と言ってその場のさざ波だった空気を落ち着かせたのだった。
ヨハネスはしばらくエラと様々な話をしたが、長居は病人の身体に障る。一時間ほどでそろそろお暇するということとなった。エラが手に持った紅茶のカップとソーサーとをベッドの横のティーテーブルに置こうとヨハネスに背を向けた時に、ヨハネスが唐突に言った。
「エラ、君を絵に描いてもいいですか…」
それは本当に唐突だった。だがヨハネスの中ではエラの部屋に入りエラを一目見た時からずっと思っていたことであった。
「え? あたしを…?」
エラはとっさに振り返った。その顔には大きな驚きの表情が表れていたが、それと同時に信じられぬような幸運が訪れたことによる喜びも確かに含まれているのだった。そうしてその表情と視線とを見た瞬間、ヨハネス・フェルメールの目と頭と心の中で、何かが激しくスパークした。
「はい。ぜひ私にあなたの絵を描かせてください。こんなに美しい人を見ておいて絵に描かない画家は、画家じゃない」
それは決してお世辞の言葉ではなかった。ヨハネスは本気でそう思ったのだ。エラは初めは逡巡した。病身で髪や眉が抜けやせ衰えた自分がフェルメールの絵のモデルになどなるべきではないとか、そもそもモデルになるだけの体力もないとか、そんなことを言い並べて辞退しようとした。だがヨハネスは、今のままのエラは健康に普通に生活する人よりもむしろ“美そのもの”に近いと思っているということを説明した。さらにデ・ホーホが、モデルとしてじっとしている体力が心配なら、紙と木炭とを持ってくるからこの場でスケッチをとってそれをもとにヨハネス自身のアトリエで後で描けばよいと提案したが、それにはヨハネスが静かに首を振り、にっこり笑ってこう言った。
「もう全ては、私のまぶたに焼き付いているよ」
そういう訳でエラもヨハネスが自分の絵を描くことを了承した。描き上がったら真っ先にエラに見せに来ると約束をして、ヨハネスはエラの家を後にした。別れ際のエラの笑顔は真実、天使のようであった。
アトリエに帰るとヨハネスは早速エラの絵を描き始めた。デッサンもなければ下描きもないのである。いくらまぶたに焼き付いているとは言っても、日が経てばそれはどうしても薄れていくだろう。また、エラの健康を考えても、あまり悠長なことは言っていられない。とにかく早く描き上げることが必要だった。ヨハネスは真新しいキャンバスを前に数秒の間、目を閉じて息を整えると、馬のフィルパートで大胆に絵の具を置いていった。描きたいのはただエラの美しい存在であるからそれ以外は可能な限り省略する。そのために背景は黒に近いグリーンのカーテンとすることにした。エラのポーズと表情とをどうするかはすでに決まっていた。ヨハネスが絵を描かせてくれと言った時に振り返ったあの一瞬。あれしかなかった。頭には実際のエラがそうであったように、印象的なブルーと黄色のターバンを描く。透き通るように白いエラの顔と好対照をなしていたあのブルーは廉価な絵の具では絶対に出せないと思っていたヨハネスは、アトリエに帰りつくまでにはウルトラマリンブルーを使うことを心に決めていた。目を閉じればそこにエラはいる。彼女の十八年の人生と、その悲しみと喜びとその他全ての思いとが奇跡のように交差したあの一瞬の表情でエラがそこにいる。そのエラが消えてしまう前にしっかりと抱き留めようとヨハネスは絵筆を走らせた。
絵は約ひと月ほどで描き上げられた。さらにもうひと月ほどイーゼルの上に置いて様々な距離や角度から眺めては手を加えた。やがてキャンバスの上にはあの時あの瞬間のエラがいると思えるまでになった。そして最後に、血の気のあまりなかったエラの唇にうっすらと紅を注し、ポワンティエをそっと乗せた。ついに描き上げたとヨハネスは思った。三日経って、時間がとれた。絵の具が乾くのにはまだしばらくかかるが、ヨハネスは絵が描き上げられたことをデ・ホーホに伝えるためにデ・ホーホの家に出かけて行った。
ドアをノックするとデ・ホーホ本人が出てきた。ヨハネスの顔を見て「あっ…」と小さく声を出した。そして「さぁ、入ってくれ」とヨハネスを屋内に招き入れた。その時のデ・ホーホの様子には明らかに不吉な感じがあった。椅子に座ると部屋の奥から戻ってきたデ・ホーホがテーブルの上に封筒を一つ置いた。ヨハネスが何か言葉を言うより前に、デ・ホーホが「残念だが、エラはもう逝ってしまった…」と言った。ヨハネスは静かに「…そうか」と返した。
アトリエに帰るとヨハネスは作業机の上に封筒を置いて重い身体を椅子の上に投げ出した。そうしてデ・ホーホが語った話を思い出していた。ヨハネスが会いに行ってからひと月ほど経つと、エラの容体は急に悪化したのだそうだ。やがて起き上がることもできなくなり、さらに三週間ほど経つとペンを持つことも叶わなくなった。その時、エラは彼女の母親に口述筆記を頼んだ。それがまさに、いま目の前にあるヨハネスに向けた手紙である。デ・ホーホは手紙の内容を知らないが、母親の話として、さかんに感謝の言葉を言っていたとのことだった。そうしてほんの三日前に、エラはついに帰らぬ人となった。たった十八年と数カ月の命ではあったが、その顔は、真に満足した幸せそうなものだったとのことである。
ヨハネスはしばらくの間、自分の足元の床を見ていた。色々な思いが彼の意識の上に去来した。だが、すべてはもう、どうしようもないことであった。
長い間そうしていたが、ヨハネスは目を上げてイーゼルの上のエラの絵を見た。そうしてキャンバスの上のエラに促されるような気がして、封筒を手に取りペンティングナイフで封を開け、その手紙を読み始めた。
親愛なる ヨハネス・フェルメール 先生
この手紙を先生がお読みになっている頃、私はもう神様の御許に旅立っていることと思います。本当は、いま先生が描いていらっしゃる絵を拝見するまでは留まっていたかったのですが、私の体がそれを許してくれそうにありません。せっかちな私の体をどうかお許しください。
父も母も兄も、まだこれからという歳なのに可哀想だと言ってくれますが、実は私自身は全くそうは思っていないのです。人の一生の価値は、その長さで決まるとは思えません。私がまだ元気な頃、数多くの年長者と接してきましたが、彼らの多くはいつも自分の人生の不満ばかり言っていました。あの人たちは、きっと自らの人生の意味を見つけ出せていないのです。それと比べて私の人生はどうでしょう。十二歳の時にフェルメール先生の絵を見て以来、私の人生がどれほど光り輝いたかを説明するためには、きっと聖書の中の言葉と同じだけの言葉を使っても足りないと思います。そういう絵と出会えるだけでも幸せなのに、その作者が私と同時代を生きていて同じ空気を吸っているということが、私の幸福をさらに十倍にしました。そして、あぁ、あの日。あの日。忘れもしない七月のあの日。私の幸せは絶頂を迎えました。目の前にフェルメール先生がいらっしゃる。あの時私は、病気のせいではなくて、嬉し過ぎるショックのために心臓が止まってしまうかもしれないとさえ思いました。あんな幸せな時を持てる人が、この世に何人いるでしょう。今思い出すと、取り乱してお見苦しい姿をさらしてしまった自分が恥ずかしい限りなのですが、あんな幸運に恵まれれば、それは涙だって出ます。鼻水だって出ます。
先生、決して強がりではなく、エラは本当に幸せでした。心からお礼を申し上げます。そして先生は、これからもどうぞお心のまま、描きたいと思うものをお描きくださいますように。それから、兄にはどうか、人生の最後にすばらしい兄を持てたことが嬉しかったとお伝えください。
最後に、一つだけ心残りを申し上げるなら、エラは、先生と先生の絵と、ずっと一緒にいとうございました。あらいやだ、私はなんと強欲なのでしょう。
さあ、お別れの時です。フェルメール先生、どうぞお体をお大事に。ご活躍を神様の御許からお祈りしております。
フェルメール先生の忠実な一ファン
エラ・ファン・ハウテン
ヨハネスは手紙を作業机にそっと置いて目を閉じた。そうして様々な物思いにふけっていると、唐突にパトロンのライフェンが言った言葉を思い出した。
「君も自画像を描いても良いころじゃないか」
あの時、ヨハネスは自画像を描く意味を持っていなかった。その必要を全く感じていなかった。そもそも自画像とは誰のために描くものなのだろう。一般にはもちろん鑑賞者のためだ。また我の強い画家なら自分のために描くということもあるだろう。あるいはライフェンのような強力なパトロンのリクエストに答えるために描くことも考えられる。だがもし、さらにそれ以外の誰かのために描くということも有り得るならば… そこまで考えが至った時に、今度はデ・ホーホが話してくれたクラースの描いた『自画像のある静物画』のことを思い出した。そうしてヨハネスはすっくと立ち上がりパレットにホワイトを出してエラの前に立ったのである。
久しぶりにヨハネスのアトリエを訪ねてきたライフェンがヨハネスの新作を見ている。それは頭にブルーと黄色のターバンを巻いた色白の美しい女の胸像だった。驚いたような目元と口元がいかにも何かもの言いたげであり、ライフェンは一目でその絵を気に入ってしまった。
「ヨハネス、これは傑作じゃないか! 何なんだ、この吸い込まれるような視線は… モデルは誰なんだい?」
「いえ、トローニーですよ」
「そうか。モデルはいないのか… それにしても、この命が充溢する感覚はどうしたことか。本当に生きているようじゃないか」
「ありがとうございます、ライフェンさん」
「そして… これ。これは…」
ライフェンがそう言って指さしたのは、描かれた女の耳にある大きな耳飾りであった。
「それは… 模造真珠の耳飾りです」
「だろうな。本物の真珠にしては大きすぎる。だがこの耳飾りの効果が抜群だね。ともすれば過度に顔に引き寄せられる意識がこの耳飾りがあることで適度にバランスを保っているよ」
「そう言っていただけると幸いです。描き込む必要から、どうしても少し大きくなりました」
「うむ」
その絵はライフェンが購入することになった。エラの家に寄贈しようかとも考えたが、彼女はずっと一緒にいることを望んだのだ。その希望を叶えられる可能性が最も高い所有者は、ライフェンをおいて他にないとヨハネスは判断した。その代わりに、彼はデ・ホーホが良い絵をたくさん描いて持っているから、ぜひコレクションに加えると良いと強くライフェンにすすめた。ライフェンはその場で十点ほどのデ・ホーホの作品を購入しようと約束してくれたのである。
ハーグ王立美術学院の学生、テオ・ホイヘンスは自室のPCでウェブ上の『真珠の耳飾りの少女』を見ていた。実物はマウリッツハイス美術館に行けば見られるが、常に大勢の鑑賞者でごった返していて集中して見るどころではない。また細かい部分の検証にはウェブ上で見られる高精細の画像の方が圧倒的に有効だ。この作品にはいくつもの謎があると言われている。その最大のものは、この絵のモデルが誰かということである。数年前に行われた詳細な科学調査で様々な発見はあったが、モデルの女が誰かという最大の謎を解くことはついにできなかった。テオは二年前からこの『真珠の耳飾りの少女』に取りつかれていてずっと見ては考え、考えては見てきた。そして半年ほど前にピーテル・クラースの『自画像のある静物画』を知ってインスピレーションを得た。クラースはメルフェールやデ・ホーホよりも一世代古いオランダの画家で、デ・ホーホと同じハールレムで活動し聖ルカ組合のメンバーでもあった。若きメルフェールやデ・ホーホがクラースの絵を見たことがないとは考えにくい。さらには『真珠の耳飾りの少女』のつけている「真珠」が不自然に大きいことと、どうやら最後に描き加えられたらしいことなどを考え合わせると、この絵のモデルの女が誰であったのかを固有名詞で言い当てることはできなくても、この絵がどのような経緯で描かれるに至り、どういう人物がモデルとなったのかを推理することはできるのである。もちろん全ては弱い状況証拠と夢に見るほど『真珠の耳飾りの少女』を見てきてどうしてもそう考えるしかないと思うに至ったテオの直感による推理に過ぎない。そしてテオの考えを裏付ける新たな証拠が今後発見される可能性は無いに等しいだろう。そこでテオは自分の考えを“小説”として発表することにした。幸いその手の“小説”の投稿サイトには事欠かない時代である。
テオは自分の考える限りの全てを書き込んだ後に、深呼吸を一つしてから静かに「公開」ボタンをクリックした。
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