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徒然エッセイ⑫バーンアウトシンドロームズを推す

コロナが流行る前、毎年一度か二度東京へ一泊旅行をして、ロックのライブに行ったり、演劇を観たり、寄席を聴いたりするのが楽しみだった。そのロックのライブというのが、私の推しであるバーンアウトシンドロームズというロックバンドのライブだった。彼らのライブには三回行った。三回というのは少ないと言われるかもしれないが、私の人生ではロックコンサートに行ったのは、この三回が百パーセントだ。
このバンドを知ったのは、iPhoneのiTunesでいろいろな音楽を漁っていたときのことだった。『檸檬れもん』というアルバムを聴いた。その歌い出しから私は耳が釘付けになった。
このバンドの特徴は彼ら自身、「文学ロック」を謳っているところだ。日本語の歌詞を大切にしている。当たり前かもしれないが、歌は歌詞と曲でできている。「文学ロック」である以上、歌詞が文学的でなければならない。「文学少女」という曲を聴いてもわかるのだが、彼らは詞に文学作品の文章を引用したりする。
『孔雀』というアルバムには「斜陽」という曲が入っている。もちろん太宰治から来ている。詞の中に「太宰」という名も出てくる。この「斜陽」をライブで聴いたとき、彼らは「太宰」という言葉を「太宰治」とフルネームに変えていた。これはたぶん、「だざい」だけでは文学ファンでないファンにはわかりづらいのではないかという配慮だったと思うのだが、私はそれを残念に思う。文学とロック両方が好きな人間を魅了して欲しい。
ロックの文学的可能性は相当深いと思う。文学の最高の栄誉ある賞であるノーベル文学賞にボブディランが選ばれたことは、ロック(あるいはフォーク)のような歌も文学として認識されるということだ。ボブディランは英語で歌っているから、ノーベル賞に近かったのだと思う。ではバーンアウトシンドロームズは日本語で歌う、それは言語の壁を越えるか?越えないと思う。しかし、日本語を捨てて英語で歌う日本人のロックバンドもいるが、私は日本人なら日本語で歌って欲しいと思う。日本語には日本語で育った人間にしかわからないニュアンスの言葉があるからだ。日本語の可能性はまだまだ大きい。文学ロックを日本語でやるというのは、その可能性を実現していくことだ。
このバンドのメンバー三人は現在三十歳くらいだが、三十歳というと、ロックバンドとしては一般的にピークであると考えられると思うが、私はこのバーンアウトシンドロームズに関してはピークではないと思う。まだまだ、これから十年二十年三十年と伸びしろがあると思う。なぜなら、文学ロックだからだ。若い熱情を叫ぶタイプとは違うからだ。
しかし、最近このバンドは生活のためか自己宣伝のためだと思うが、アニメソングばかりを作ってるような気がする。いや、アニメソングじゃなく文学ロックでしょ?
音楽に芥川賞はない。大衆に売れることがミュージシャンとしての成功だとされている。私は一ファンとして彼らに大衆におもねることなく文学ロックの道を突き進んで行って欲しいと思う。これは売れなくてもいいという意味ではない。文学ロックが成功すれば必ず売れると思う。彼らには日本語のロックの世界を切り拓いて行って欲しい。


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