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【小説】ドブ川

水深は五センチ、流れは速い。だが足を取られるというほどではない。幅は五メートルくらいだろうか。左右のコンクリートの壁は上に行くほど幅が広くなっている。高さは十メートルあるかもしれない。とても攀じ登れる高さじゃない。両側とも建設中のマンションだかなんだか知らんが高い建物が組まれた足場に囲まれていて、最上部には鉄骨を吊り上げるクレーンなんかがある。
どこかに梯子はないか?俺はただ、ひたすらこのドブ川から出ることだけを考えていた。
汚すぎてドブネズミすらいない。生き物のいる気配はない。ましてや人間などいるわけがない。俺はたったひとりだ。
なぜ、こんな所に落ちたのか、俺にはまったくわからない。気づいたら、この浅いドブ川をジャブジャブ足を濡らしながら歩いていた。
「おーい」
声はバカみたいに響く。声を出したのが恥ずかしいくらいだ。
ここに俺がいることは誰も知らない。靴の中に入る泥と水草はヌルヌルといい気持ちではないが、もう慣れてしまった。そして、このドブの悪臭さえも。
俺は流れに逆らって、上流に向かって歩いていた。思えば下流に向かっていればどこか広い川と合流する出口に出られるかもしれない。しかし、俺は流れに逆らっていた。行く先はもっと狭い暗渠で排水管がそこかしこにある汚い行き止まりだろう。
と、俺は突然恐ろしくなって立ち止まりブルブル震えた。何故なら前方からひとりの老人男性が歩いて来るからだ。髪はボサボサで一年は洗っていないようなごま塩色。服は汚れきったヨレヨレのシャツに下半身はボロボロの灰色の作業用ズボンを穿いていた。靴はどこのブランドかわからない穴の開いたテニスシューズだ。白かったはずのテニスシューズは灰色に見えた。背中には年季の入った赤い登山ザックを背負っていて、その上部には雨傘が突き出ていた。
老人は俺に目を止めると、いきなり怒鳴ってきた。
「何をしている!その若さでこんな所を遡るのか?行き先を知っているのか?」
「いや、わかりません。なぜ、遡っているかもわかりません」
「では、すぐに引き返しなさい。ここはおまえのような者が来る場所じゃない」
「でも、俺も何故ここを歩いているのかわからないんだ。気づいたら遡っていた」
「遡った先には何があると思う。行き止まりだ。おまえは行き止まりに行きたいのか?」
「いや、途中に梯子とかはないんですか?」
「梯子?梯子か?おまえは梯子を登りたいのか?」
「はい、できることならば」
「梯子は登ったら最後。二度と流れに入ることはできんぞ」
「結構じゃないですか。二度とこんなドブ川に入るものですか」
「おまえは梯子を登った所に何があるか知っているのか?」
「さあ、知りません。しかし、ここよりはマシでしょう?」
「そうやってバカ者は梯子を登るのだ。ドブ川の流れる先の出口ではなく、途中の梯子をな!」
「でも俺はこんな臭い所からさっさとおさらばしたいんだ」
「そういう気持ちで梯子を登る奴はこのドブ川を見下ろすだけの人間になる」
「それじゃいけないんですか?」
「ドブ川について知るには、ドブ川の流れ出る場所まで歩いてこそ知ることになるのだ」
「そんなものに興味はないよ」
「じゃあ、何故ここにいるのだ?」
「だから、気づいたら、ここにいたんだ」
「それならば、きちんと最後までドブ川の流れに従って歩くべきだ」
「何故だ?ドブ川に何があると言うんだ?」
「ドブ川には全てがある」
「バカな、俺は梯子を見つけて必ず脱出してみせる。梯子はこの先にあるんだろう?」
「ああ、ある。だが、そこを登ればおまえは終わりだ」
「え?死ぬのか?」
「いいや、死なん。普通の暮らしが待っている」
「そんなら、なおさらいいじゃないか。俺はじいさんみたいになりたくないんだ」
「しかし、おまえはいつも、このドブ川を気にするだろう。あの流れの先に何があるだろうと、気にするのだ」
「なんでこんなドブ川を気にするんだよ?」
「まあ、その状況になればわかる」
「もういいよ。俺は行くぜ。じいさん、梯子は近くにあるか?」
「どこにでもある」
俺はじいさんと別れジャブジャブと流れに逆らって歩いた。そして、念願の梯子を見つけた。
俺はその梯子を一段一段、ゆっくりと登った。一番上まで来るとそこはマンションの建設現場だった。
俺はドブ川を見下ろした。汚い水が俺の知らないどこか遠くへ向かって流れていた。


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