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友達と共に過ごすことの大切さ

私は小学生の頃はたくさん友達がいました。学校から帰るとすぐに遊びに行きました。親友たちと自転車に乗って、「どこへ行こうか、何をしようか」などと喋ってブラブラしているだけで幸せでした。

それが中学生になり、三年生になると高校受験のための勉強が始まりました。私は友達の勉強の邪魔をしてはいけない、と思い、遊びに行くのを禁じるようになりました。家にいると外へ遊びに行きたい衝動に駆られました。窓から外を見てこの空の下に友達がいる、でも遊べない、と憂鬱になり、外へ行きたい衝動を他に向けるようになりました。私はマンガに夢中になりました。「将来有名なマンガ家になってみんなを驚かせてやろう」。みんなとは友達のことです。私は友達と遊ぶより、将来の夢を夢想する時間が増えました。

高校に行くと、友達とは遊ばずにマンガを読んだり、ビデオで映画を観たりばかりしていました。そのうち精神を病んでしまいました。統合失調症です。

病気になっても将来の夢を持ち続けました。大学にも行きました。本ばかり読みました。私は将来の夢があるから絶望していないつもりでした。将来の夢を諦めて、普通の会社員になって結婚する人などは夢に破れた人だと思っていました。

しかし、本当に絶望していたのは私だと気づきました。
外へ出て、友達と共に過ごしたいと思う衝動を否定することが絶望なのです。友達と会いたい、というのが希望なのです。将来こうなりたい、というのはともに喜んでくれる友達がいてこそ意味があるのです。

ここで哲学者の名前を出します。和辻哲郎という哲学者ですが、彼によれば人間とは本来「じんかん」と読むそうです。これは世の中という意味だそうです。世の中にあってこその人間だということです。彼は、人間は間柄的存在あいだがらてきそんざいだと言っています。
つまり、誰かとの関係がなければ人間とは言えないのです。
私は小学生の頃は友達がいました。人間でした。
中学後半くらいから、人間性が少なくなり、高校二年生の秋に統合失調症を発病しました。
人間失格となったと言えるかもしれません。
しかし、私の周りには高校生のときでも大学生のときでも、その後精神科デイケアに通っていたときでも、三十代で介護職についてからでも、友達はいました。支えてくれる人がいました。しかし、私は将来の夢にばかり向かって、周囲には心を閉ざしていました。
現在、私は小説家を目指しています。しかし、日常的に共に過ごす友達がいません。これはまだ私が人生に絶望している証拠だと思います。心を開いて共に過ごせる友達がいることが人間らしい、幸せな人生だと思います。偉くなるとか、金持ちになるとか、そういうことよりも、共に過ごせる親しい人がいることが大切なのです。

小説家の夢を諦めるつもりはありませんが、友達に会いたいという衝動は大切にしたいと思います。繰り返すようですが、その衝動こそが希望なのです。

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