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川を観る

西田哲学の実践として

川を観る

を考えました。つまり、西洋文明の

XX川を見る

でなく、『観る』です。西洋文明的には

(具体的な)川の写真を見る

というような、外見だけを見る。川の研究者なら、もっと詳しい、別の見方になるでしょうが、普通の見方はこれだけです。

しかし、私たちが『観る』ときには、それを超えるモノを観ています。一例を挙げると

行く川の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず
【方丈記から引用】

という時間変化の発想です。流れは、時間や天候でも変化します。大雨の後には大量の流れ、渇す時には干上がったりします。また、海に近いところでは、満潮時の逆流もあります。

また河川敷や堤防、または川底など、川の構造もあります。

さらに川にはいろいろな機能があります。船での運送もあれば、飲み水や農業用水にもなります。

一方、視野を広げると、上流から下流に流れ、最後は海に注ぎます。さらに蒸発した水が雨となって、また川に流れ込む、こうした循環も観るでしょう。

また、時間軸を広げて観ると

川が蛇行していき氾濫し直線になる

などの話から

今の場所以外にも川が流れていた
将来もどこかに行く可能性

なども観ていくでしょう。

こうして広く見ていくと

川に下水を流して終わり

という発想にはならないでしょう。西洋文面では、19世紀のロンドンでも、テムズ川に下水を垂れ流し、悪臭騒動を発生しています。江戸の上水整備と比べて雲泥の差です。

この違いに、上で描いた『観る』と『見る』後があると思います。

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