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仏を観る三方法

仏を観る場合に、以下の三つの状態があります。

1.仏が私達に見せる応身
2.私達が修行の成果としてみる報身
3.本来の仏である法身

私達が、お釈迦様や観音様の仏像を拝む時、仏の力で私達が見える形で、見せていただく姿が『応身』です。仏教伝来の昔から、仏像が崇拝の対象として、大切に扱われていました。大衆に説法するときにも、仏像などで具体的な姿を見せることは、効果的でした。『応神』は、仏が衆生を助けるための手段として、衆生の状況に『応じて』現す姿です。

さて、次の『報身』は、修行の『報い』として、見える姿です。お経の中には、色々な仏の姿について、書いてある部分があります。例えば、仏様の手のひらには、指と指の間に膜が張っています。これは衆生を救うときに、こぼれ落ちないように、指と指の間の膜で掬う想いを示します。こうした、仏の姿や、仏の住む世界である浄土を、自力で想像する修行は、現在のような印刷やIT技術が進んでいない、平安時代、鎌倉時代では、多く行われていました。このような修行をしていなくても、私達は今見えているモノに、自分の知識などを補ってみていることもあります。

最後の『法身』は、仏の本質です。これは、『見る』のは無理です。衆生に『応身』を見せようとする力、これを総て持っている仏の本質です。更に、私達が自力で見いだす『報身』は、実は仏の力を借りて、造りだしています。こうした、総ての力がある『法身』は、見ると言うより、体感する方が当たっています。私達の智力で、法身を感じる法は、色々な応身を見せる力、そしてそれまでに感じた報身が、総て収まる力を持った仏、このような感じが一つの道です。

外部で見えるモノ、自分の力で造り出すモノ、これらが上手く収まるように、全体的に動く力、これが仏の力だと思います。

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