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トーベヤンソンの生涯から読み解く、ムーミン物語のルーツ

トーベヤンソンの


こんにちは!


今回は、ムーミンを生みだした

トーベ・ヤンソンのおはなしです。

トーベヤンソン 

https://www.moomin.co.jp/history


物語を描いた彼女が体験したことを知ることで

ムーミンの世界が

さらに魅力的なものになるはず。


そして、キャラクターたちを

もっと愛しく想えるかもしれません^^*


トーベヤンソンの生涯を紐解きながら、

ムーミン誕生の旅に出かけませんか?


※この記事のすべての内容は

一個人である私の見解であり、

公式のキャラクター・実在の人物とは

一切関係ありません。


ご了承のうえ、おたのしみください^^*


ムーミン影絵


トーベ・マリカ・ヤンソンは

フィンランドのヘルシンキに生まれた、

スウェーデン語系フィンランド人です。


画家、小説家、ファンタジー作家、

児童文学作家という多彩な顔をもっていました。


彫刻家の父と、

おおらかでしっかり者の

画家である母の間に生まれ、


「まるで呼吸するように」

自然に絵を覚えていったそうです。

トーベ幼少期

https://www.moomin.co.jp/tove


祖父は牧師で、

トーベは「聖書」とは知らずに

人生にとって大切なことを

そっと教えてもらっていました。


どっしりとした母に支えられて

芸術に没頭する父の姿はまるで

ムーミンパパのようだったとも。


かるた ムーミンパパ


彼女は言語少数派として、

自分とおなじ言葉を話す人が

まわりにいない環境で育ちました。


そのことも芸術家としての人生に

影響を与えたんじゃないかと言われています。


戦争

父は31歳のときに志願兵となり、

母は3歳のトーベをつれて

生まれ故郷スウェーデンに戻りました。


彼女がはじめて戦争を体験したのは

4歳のときでした・・・


成長し、画家になったトーベは

威張り散らす権力者や

古くさい社会のシステムに疑問をもっていて、


自由な発想や

自由な行動を許さない時代への反抗として、

署名にムーミントロールを描いていました。


15歳になり、ある雑誌で

政治の風刺画を描きはじめました。


つらい現実を笑い飛ばすため、

「風刺画」にもムーミンを登場させました。


ムーミントロールは

トーベの分身だったんです。


その頃のムーミンは

今のように丸くなくて、ひょろりとした

ちょっと不気味な印象のキャラクターでした。

不気味なムーミン

≪第1作目の表紙もこんな感じで、少し不気味≫


トーベは、10代から20代にかけて

ストックホルムの工芸専門学校や

ヘルシンキの芸術大学、

パリの美術学校へ通っていました。


彼女が2度目の戦争を体験したのは、

20歳のとき。


そして、第2次世界大戦が終戦を迎え

トーベが31歳になったとき、

50ページほどの

『小さなトロールと大きな洪水』が

駅の小さな売店に並びました。

≪ほの暗い表紙が、戦争を彷彿とさせます≫



翌年の32歳には

「ムーミン谷の彗星」の原型を世に出しました。

≪当時の表紙の絵は、もっと彗星が迫りくるような

迫力のものでした≫


けれどこの物語は内容が暗かったため

当時、人気は出ませんでした。


しかしこの物語への

トーベの思い入れはとても強く、

生涯で2度も執筆し直したそうです。



34歳のときに

「たのしいムーミン一家」を刊行。



40歳になり、イブニング・ニュース紙で

「コミックス」の連載をはじめました。


その年に出版されたのが

「ムーミン谷の夏まつり」


42歳のときには、書き直した

「ムーミン谷の彗星」と

「たのしいムーミン一家」が刊行されました。


世界中で有名になったトーベは

そこに自分の知らない世界を感じ、

この先どうなってしまうのかという不安が

纏わりつくようになったと言います。


そんな折

43歳になった彼女が出逢ったのが、


生涯のパートナーとなる

グラフィックアーティストの

トゥーリッキ。


「トゥーティッキ(おしゃまさん)」
のモデルともなった人です。

トゥーティッキ

https://www.moomin.co.jp/


人生のパートナーであるトゥーリッキはトーベに、

そのつらい想いをそのまま物語にしてみたら?

と言いました。


そうして生まれたのが

「ムーミン谷の冬」でした。


物語が世界に広まると、

ムーミンは単なる児童文学でも漫画でもなく、

文学、美術、哲学にも

影響を与えることになりました。



その翌年の44歳のとき、

父親がこの世を去ります。


父の死は、トーベにとって

とても重たい現実だったそうです。



さらに、自分は画家であると

強く思っていたトーベは、


急かされるコミックスの連載によって、

絵を描くはずの自分の時間を奪われる辛さから、

ムーミンを描くこと辞めたいと

思うようになっていきました。


45歳になり、

ついにトーベに限界が訪れました。


けれど、世界中で人気を博していた連載を

やめるわけにはいかず、


母シグネの

「コミックスは、ラルスが書くように」

という言葉通り


トーベの意思を継ぎ、

6歳離れた弟のラルスが

制作を引き継ぐことに。


連載をラルスに預けたトーベは、

トゥーリッキと2人きりで

孤島クルーヴハルに移り住み、

自由な時を過ごしました。


そしてトーベが48歳のときに

「ムーミン谷の仲間たち」を、


51歳のときには

「ムーミンパパ海へいく」を刊行しました。


そしてトーベが

「ムーミン谷の十一月」の原稿を描きあげたとき、

愛する母シグネが他界・・・


トーベはとてもショックを受け、

しばらくその名を、

口にすることができなかったそうです。


この『ムーミン谷の十一月』はまるで、

母との別れを予感していたかのような

ストーリーになっています。


そしてこの9作目で、

「トーベ・ヤンソンのムーミン」は

幕を下ろすことになるのです。


その後、58歳のときに

アニメの放映がはじまり

ムーミンアニメ



78歳のときにはナーンタリで

「ムーミンワールド」がオープン。

ムーミンワールド


86歳になったとき

弟のラルスがこの世を去り、

追いかけるようにトーべも

その年に亡くなりました。


その8年後、

生涯のパートナーのトゥーリッキも

その生涯を終えます。


家族やパートナーに支えられて、

自分の世界を守り続けたトーベ。

トーベとムーミンたち


苦悩の生涯から描かれ続けたその世界は

現代の激動の時代にこそ、読んだ人に


〝そのときに必要な言葉″を

贈ってくれるのではないかと私は思います^^* 


私はトーべの生涯を知った時、

もう一度原作を読み直してみました。


すると、トーべの想いやメッセージが

たくさん詰め込まれていることに気づきました。


本当に、こんなに素敵な作品も

なかなか出てくることはないと思うほどに…。

かるた 義務とは

かるた たまには休も

かるた 名声よさらば


名言もたくさんあり、

ハッとさせられたり、勇気をたくさんもらっています。


次の記事からは

トーべの生涯を知り、原作に興味を抱いてくれた方へ

ひと作品ごとに、私なりの考察と魅力を

紹介していく予定です😊


よかったら、読んでいただけたら嬉しいです!


最後までおつき合いくださり、

ありがとうございました^^*

記事を気に入っていただけたら サポートして貰えると嬉しいです^^* 執筆者として生きる活力になります✨