『囀る…』についての個人的妄想その6 百目鬼は何者なのか…について

(以前ふせったーに上げた記事の再掲です)

ちょっと、衝撃的な内容かもしれません。
閲覧注意。

さて、前回、百目鬼に当たる人物は聖書には登場しない、と書きました。でもFFさんに頂いたコメントを拝見して、まるで頭を殴られたような衝撃を受け、同時に目の前の霧が晴れたような気持ちになりました。

もしかしたら、これまで書いてきたことをひっくり返すことになってしまうかもしれないけれど。

百目鬼に当たる人物は、聖書の中に存在しました。


「神の子」である矢代さんの内面を変化させ、「神」三角さんから矢代さんを奪い去ろうとする存在とは。

矢代さんの自我を引き出し、「神の子」としてではなく、一人の人として生きることを望むようにさせた存在とは。


どうして気づかなかったんだろう。
言われてみれば、答えは明白だったのに。


その存在とは…


「サタン(悪魔)」



…驚かれましたか?

清廉で、一途に矢代さんを愛しその身を尽くす百目鬼のイメージとは全く正反対な、最も遠いところにあると思われる存在。
これまでの妄想をある意味180度反転してしまうかもしれない仮説(妄想)。

けれどサタンは、荒野でひとり、ボロボロの衣服で修行を続けるイエスに出会い、彼が神の子であると一目で見抜いた。ある意味その魂の清らかさ、美しさを最もよく知り、最も渇望する存在といえるかもしれない。

そしてまた、サタンはいつも最もサタンらしくない姿で人の前に現れると言われています。

(さらに深読みすると、『遠火』でまだ警官になりたての百目鬼が初めて矢代さんを見たとき、顔を赤らめて警帽で目を隠したのは、神の子の放つ光はサタンには眩し過ぎたから…とか…)


もし全く「悪意」を持たず、神の子の魂の美しさや清らかさに心奪われ、ただ純粋にそれを自分のものにしたいと願うサタンが存在しうるとしたら。

そしてもし、神の子が神の跡を継ぐことを望んでいなかったとしたら。
愛されることなく育ち、自らのための欲を持つことも知らず、人に奉仕するばかりの人生に、自覚はないけれど心は悲鳴を上げ続けていたとしたら。

誘惑し、堕落させること…つまり自我を目覚めさせ、人としての幸せを求めるようにさせることは、逆に彼にとって「救い」となるのではないだろうか…と思ったのです。


「救う」と「堕落させる」

一見正反対に思える行為が、見方を変えれば逆転する。

それは前回お話しした「楽園を追放される」とは「楽園から解放される」と同義ではないか…とも通じるように思います。
禁断の木の実を食べるよう唆した蛇とは、実はサタンであったという説もあり、ということは、矢代さんに「真に愛されること(とそれによる幸せ)」を知るという禁断の実を食べさせた百目鬼は、やはりサタンということになるのではないかと思います。


神の子=矢代さんを、「神の子という檻」から救い出して「人として生きる」道を差し示してくれたのはサタン=百目鬼だった。

そしてまた、ふたりが結ばれるためには矢代さんは「神の子」であることをやめて、「人」にならなくてはならなかった。そのために必要な四年間だった。

…この仮説(妄想)に辿り着いてしまったとき、なんて場所に来てしまったんだろう…と慄く思いでしたが、もうそれ以上の考えは浮かばないような気がします。

ただもちろん、矢代さんも百目鬼も無意識にやっていることで、私が勝手にそれを聖書の内容に重ねて妄想しているにすぎないのですけれども。


何が正しくて、何が正しくないのか。
何が「まとも」で、何が「まともでない」のか。
そもそも表面に見えている姿は、その本当の姿なのか。

読んでいるとある瞬間、それまでの自分の思い込みが180度反転させられ、自分がどれだけ先入観とに囚われて物事を見ているかを思い知らされると同時に、その瞬間霧が晴れるように視界がクリアになる。『囀る…』はそういう作品だったことを、あらためて思い出しました。


またこれもFFさんが示してくださったのですが、百目鬼の苗字に含まれる「鬼」という字。これも「悪魔」と繋がるのではないか…と。
本当に、凄い洞察力に感服しました。

(2023/9/18)

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