『囀る…』についての個人的妄想その5 打破する者

(以前ふせったーに上げた記事の再掲です)

8巻、矢代さんの妄想の中に出てくる林檎も、聖書のエピソードを彷彿とさせます。

楽園に住むアダムとイブに神が唯一食べることを禁じた善悪を知る木の実。
狡猾な蛇に唆されその実を食べた二人は永遠に楽園を追放される…。その禁断の実は林檎とされることが多い。

「どこかでわかっていた 知らなければ 失くすこともなかった」

ただし矢代さんの場合、知ってしまったのは「善悪」ではなく「真に愛されること(とそれによる幸せ)」でしょうか…。


さて前回、『囀る…』にイエス・キリストの物語を重ねるなら百目鬼はいったい誰にあたるのか…というお話をしましたが、実は最初考えていた答えは、

「百目鬼にあたる人物は聖書には登場しない」

でした。考えるにつれ、つい誰かを当てはめてしまいたくなってしまいましたが、やはり初心に返ることにします。(色々予想してくださった方、すみません…)


もし百目鬼の役割に名前をつけるとしたら、それは「打破する者」。

矢代さんのイエス・キリストとしての人生は、じつは映画館前で撃たれたときにいったん幕を閉じた、それを象徴するのが「ピエタ」像を思わせるあの構図であり、そして本人は意図せず矢代さんのイエスとしての人生を終わらせたのが百目鬼…というのが私の妄想です(あくまで妄想です)。

もし仮に百目鬼が現れなければ、矢代さんはそれまでと同じように「そこにしか道が残されてないだけ」…と、自分の望みに反して三角さんの後を継ぐことになっただろう。
イエスが悩み苦しみながらも神の子としての一生を全うしたように。

でも百目鬼が現れ、百目鬼に心惹かれることで矢代さんの中に変化が生まれる。
「自分」の欲がなく、人に捧げるばかりの人生から、初めて「自分」が心から欲しいと思うものを見つけた…まだ自覚はないけれど。

三角さん(神)はそのことを敏感に察知し、最初から百目鬼を警戒していた。矢代さんの内面を変化させ、自分から矢代さんを奪い去る存在として百目鬼に脅威を感じたのだと思う(その危機察知能力、流石です)。

ひどい虐待を受けて育った、その生い立ちのせいか、自覚があるにせよ無いにせよ、他人のために尽くし最終的に三角さんの後を継ぐ(三角さんに人生を捧げる)という、どこにも「自分の欲」というものが無い矢代さんの運命を打破して否応なく檻の中から矢代さんを引きずり出し、その自我を引き出したのが百目鬼なのだ。
言うならば「救世主の救世主」とでも言いましょうか…。

「神の子」には人として生き、自らの幸せを追求することは許されない。その存在は常に他人の幸せのためにあり、ある意味生贄そのものだと思う。実際、イエス・キリストは生涯、人々のために全てを捧げ、最終的には命さえも捧げることでその絶対的な犠牲は昇華され、名実ともに神となった。そこに一人の人として生きるという選択肢はなかった。

イエス・キリストの前には現れなかった、自分を「神の子」という檻の中から救い出し、人として生きる道を見せてくれた人。矢代さんにとって百目鬼はそういう存在なのだと思う(この考えでいくと、聖書に登場する人物の中にいるはずがないですよね…)。

…とすると、あの林檎。食することで楽園から追放されるという禁断の木の実を口にした矢代さんは「真に愛されること(とそれによる幸せ)」を知ることで、楽園という名の「神の子」という檻から追放…いや解放された、といえるのかもしれない。


もう少し、つづきます…

(2023/9/14)

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