『囀る…』についての個人的妄想その3 極○という名の宗教

(以前ふせったーに上げた記事の再掲です)

私が矢代さんにイエス・キリストを重ねてしまう理由は、貧しく汚い場所で生まれた者がこの世で最も清らかな神の子と運命づけられたこと、自分が望むと望まざるとにかかわらず、人の為にその身を捧げることの多い生き方、の他にもうひとつあります。

『囀る…』の物語中、極道の世界で同性愛者は異端として激しく排斥される。
一方イエスが生きたとされる時代、キリスト教もまた異端として迫害されていました。

けれどイエスは神の子として、神自身によってその後継者に選ばれこの世に生まれた。
異端者が神の後継者となるなどというのは本来ありえないことで、そのことも、極道の世界では忌み嫌われるとされる同性愛者の矢代さんが三角さんにより後継者と目され、周囲の反発を買うことと重なって見えます。

三角さんに拾われた後、矢代さんは性懲りもなく組の男を食いまくり、虜にする。中には矢代さんに本気になってしまう男さえ出てくる。

これをイエスが説くキリスト教に傾倒し宗旨替えした一部のユダヤ教徒(当時の伝統的多数派)に例えるのは不謹慎かもしれませんが、「筋金入りのホモ嫌い」である平田のその男へ向ける激しい嫌悪と怒りは、熱心で狂信的な信者が裏切り者に向けるそれと似ているようにも思えます。

誰よりも極道らしくあり、周りにもそう認められることが自らのアイデンティティの基盤となっている平田にとって、極道はこうあるべきという自分の価値観は絶対的に正しく、確固たるものでなくてはならない。それが揺らぐことは自分という存在の土台が崩れることに等しく、心の何処かでそれを怖れてもいる。だからそれを揺るがす異端者も裏切り者も、激しく拒絶せずにはいられないのだ。

…そんな風に考えていると、『囀る…』中のヤ○ザの集会が、まるでカルト宗教の集会のように見えてきます。
神あるいは教祖(組長)の絶対性、厳しい戒律、お布施(上納金)の額により決まる教団内(組内)での立ち位置、入信は容易だが脱けるのは難しいなど…。
ある意味本当に宗教に似ているところがあるのかも…(超個人的見解です)。


そして、三角さんに「神」を感じたシーンをもうひとつ。

平田と矢代さんについて、その関係性に思い浮かぶのは、旧約聖書の「カインとアベル」の物語。

有名な物語で、繰り返し小説や映画の題材とされていますけれども。

アダムとイブの二人の息子、カインとアベル。真面目に農耕に励み農作物を神に捧げる兄のカイン。しかし神は、自由気ままに生きる(ようにカインには見える)弟のアベルが捧げた子羊を選ぶ。
これを妬んだカインはアベルを野原に誘い出して殺してしまい、それを知った神は怒り、カインを荒野に追放する…。

カインである平田は、神である三角さんに認めてもらうため、日々農耕(シノギ)に励み、自身が最高と思う農産物(上納金)を神に納める。けれども神は、金を稼ぐのは上手いが極道としての覚悟を少しも見せず、ヘラヘラと男をたらし込む淫乱ネコの弟に目をかけるのだ…。
激しい嫉妬と怒りに、カイン(平田)はアベル(矢代さん)を殺そうとする。

このとき三角さんが見せた厳しく容赦のない怒りは、「父」というより「神」のそれのようだと感じたのでした。

「俺の知らねぇところで勝手に死ね」

(聖書では神はアベルを殺したカインを荒野に追放はするけれど、罪人であるカインが人に殺されないよう守るのですが…)

…つづく

(2023/9/8)

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