囀る…感想27 57話感想

(以前ふせったーに上げた記事の再掲です)

長いです。そしてかなり自由に書いています…
矢代さんのトラウマに関する記載があります

57話を読んで、一番ショックだったのはやはり、矢代さんのトラウマが変わらずその中にあること、そしてそれに基づいた、自分に向けられた愛情に対する忌避行動も変わっていなかった…ということでした。

思い返せば56話でショックを受けた「好きだよ…」の言葉とあの表情も、初読で抱いた直感的な印象はあながち的外れでもなかったのかもしれないと。
すなわち幼い頃に刷り込まれ、その後も自分で自分に繰り返し暗示をかけるように言い続けた「酷くされるのが好き」という呪いは未だ矢代さんを縛り、自らの意思に反してそれに基づいた行動をとらせてしまう。あの見ていて苦しくなる、まるで泣いているような笑顔は、ここにきて改めてそれを自覚させられた苦しみの表れだったのではないか……とやはり思うのです。

今回百目鬼が四年前と同じような抱き方をしている…その行為に自分に対する好意の介在を感じた途端、矢代さんは反射的に拒否反応を起こして百目鬼を突き飛ばした、そのときの驚きと怯えに満ちた表情。あれは百目鬼の行為に対する恐れと同時に、そう反応してしまった自分に対するショックもあったように感じました。

百目鬼に酷い(乱暴な)抱き方をされて、本当は四年前のように優しく抱かれたいと思っている自分に気づいた。なのにいざ優しく抱かれると、身体は反応するけれど心は拒否してしまう。それは自分の意思ではどうしようもなく、それこそがトラウマの表れといえます。

矢代さんのトラウマはそれほどに大きかった。その生い立ちを考えれば当然といっていいはずなのに、私はどこかでこれは物語だと甘く見ていました。頭をガツンと殴られたような気持ちでした。

先生は生半可な気持ちでこの作品を描き始められたのではない。本気なのだ。ようやくそれに気がつきました。(今更すぎます……)
この物語は好きな相手に優しく抱かれ、愛の言葉を囁かれれば心が通じ合い傷も癒されハッピーエンド、というわけにはいかないのだ、とあらためて思い知らされました。

頭では分かっていても心がどうしても受容れられない。たとえ身体が受容れたとしても、イコール心も…とは限らない。そのギャップはこれからも矢代さんを苦しめ続けるのかもしれない。

矢代さんという人のプライドのあり方が、自分が心に傷を負っていることを自分に認めさせず、それゆえにその後の行動でより傷が大きくなってしまった、そういう側面もあると思います。でもそうすることによって自分の心を守ってきたともいえる、少なくとも矢代さん自身はそう思っている。その辺はとても難しい。

でもそれは内面の傷が広がっていくのを見ないようにして周りを塗り固めることを繰り返してきたともいえ、実際四年前の矢代さんはもう限界に近い状態にあったのではないかと思うのです。

恋の成就は叶わないと諦めていたにせよ、それまで密かに大事にしてきた影山への想いを、自らぶち壊すようなことをわざとした。影山に久我を引き合わせたのはある意味最大級の自傷行為で、無意識にかもしれないけれど矢代さんはこの時点で「自分を終わりにする」方向に向かっていたのかもしれない。百目鬼は、そういうときに現れた存在……なのだと思う。

話がそれました。

さて、百目鬼です。
百目鬼は今、いったい何をしようとしているのか。 

私個人の勝手な感想ですが、もしかしたら彼は、曝露療法的なことをやろうとしているのかな…と思います。
つまり、トラウマの原因となった状況を敢えて再現し、それを苦痛を感じるものから安心して受容れられるものに変えていこうとする…というような。

今回矢代さんに触れ始めてからずっと、百目鬼は注意深く矢代さんの反応を確かめながら行為を進めているようにみえました。それは、ひとつひとつ「今したことは大丈夫だったか」と案じているようでもあり、言い方は悪いけれど、観察しているようでもありました。まあ、そこは心底惚れている相手に触れているわけですから、完全に冷静になりきれない部分も当然あって、「いくらなんでもキスしすぎやろ…(なぜか謎の関西弁)」なところもありましたが。

だから矢代さんが突き飛ばしたとき、一瞬驚きはしたけれどすぐに想定内というか「ああ…やっぱり駄目か。今はここまでか…」という表情になったのかな……と思います。

優しく触れられるのはOK。でも四年前の抱き方を思い出させる、イコール好意を向けられるのはまだNG。はい、了解です。
……という感じでしょうか。


百目鬼はいつそうしようと決めたのか。

再会してのち、百目鬼はずっと、矢代さんは昔と変わらず節操なく誰とでも寝ているのだと思っていた。自分はそういう相手の一人にはなりたくなかった、あるいは矢代さんに拒否されないように自分の本心を見せずに抱く自信がなかったからか、矢代さんとセックスするつもりはなかったけれど、矢代さんが井波(もしかしたらそれ以外も?)と寝るのを目の当たりにするのは耐えられなかったので、一方的な「性欲処理」を施した。にも関わらず矢代さんはそれだけでは飽き足りず見境なく城戸にまで手を出そうとするのを見て仕方なく心を殺して乱暴に抱いた。四年前と違って吐き気を催さなかった矢代さんに、百目鬼は複雑な思いだっただろうと思います。

けれどもその後、矢代さんの身体が自分にのみ反応することを知り驚愕する。そして自分が矢代さんについて根本的な思い違いをしていたことに気がつき、自分が何をするべきか、自分が矢代さんにしてあげられることは何か、必死で考えたのだろうと思います。そして「そうすること」を決意し、矢代さんの部屋へ向かった。
それができるのは、自分だけだから。


ただ仮にそうだとして、正直いって、この方法が正解かどうかは分からない。一歩間違えれば、さらに矢代さんの傷を深くしかねない危険性も孕んでいると思います。でも、矢代さんの根本的な問題解決には、これしかないのかな…という気もします。


四年前のセックスを思い出し、一瞬吐きそうになる矢代さんですが、「想定内」の百目鬼は動じない。「吐きたければ吐けばいい」は一見、四年前の「吐いてもやめません」と同じように見えるけれど、実はまったく異なる意味をもつと思うのです。

「吐いてもやめません」は、どこか独りよがりの気持ちの押し付けのように聞こえるけれど、現在の百目鬼は「吐きたければ吐けばいい」と言いつつ、吐かせるつもりなど毛頭ない。たぶんですが。

そう思う理由は、おそらく今回は矢代さんの身体の負担を考え?あるいは愛情を伴う行為のみでも受容れられるか確認するため?挿入せずに行為を終わらせるつもりだったのが、自分を突き飛ばした矢代さんがこのままだと精神的に不安定になることを察して、方針転換して(行為目的だと思わせるために)挿入することにした…ように感じたからです。

別れ際の「また来ます」「セックスしに?」のやりとりの後のあの静かな眼差しは、なんと言っていたのだろう。

「あなたに会いに…です」

かな……なんて……。


百目鬼が帰ったあと、矢代さんは自分は(自分だけが)変わらないと自嘲し、自らを家畜と呼んだ。インパクトの強過ぎるこの言葉の意味するところは、個人的には「野性」や「自由」の対義ではないかと思っています。

これはイメージですが、飼い慣らされた家畜は、たとえ自分の周りに張り巡らされた柵が取り去られたとしても、見えない柵の存在に縛られ、あるいは未知の場所への恐れから、外界へ踏み出すことができない。それと同じように、過去のトラウマに縛られ、自分の意思で自由に人を好きになることも人の好意を受容れることもできない自分、自分の意思に反して刷り込まれた閉塞的な行動原理に基づいて行動してしまう自分を家畜に例えたのかな……と感じました。

ここでまた、53話の扉絵が頭に浮かびます。
両腕を後ろ手に縛られ跪く矢代さんと、その前に立ち頬に手を差し伸べる百目鬼。

矢代さんの腕を縛っているのはトラウマと矢代さん自身の心なのかもしれない。
その心の解放を、百目鬼は助けることができるのだろうか……。

でも、本人は変わらないと言っているけれど、確実に変化しているところもちゃんとある、と思うのです。
過去に受けた虐待を嫌だったと、酷くされるのは嫌だと思えるようになったこと、優しくされたいと願えるようになったこと、好きな人からの優しい行為に感じられるようになったこと。

まだ気持ちはついていかない部分もあるけれど、行為の終わりにギュッと両手足で百目鬼にしがみついた姿は矢代さんの潜在的な正直な心の表れで、いつかきっとそれが表に出ても大丈夫になる日がくると、私は信じています。



〈おまけ…気になったシーン・好きなシーン〉

百目鬼がいわゆる◯合わせをするシーン…
なんだかかしこまって正座して姿勢良く、何かのお作法みたいで…慣れてなさそうだな、動画見てエア練習したのかな…とか思ってしまいました


バックから「やっぱり顔が見たいです…」(私の妄想の中の百目鬼の心の声)と体位を変えるときに矢代さんの左腕を掴み、そっ…と自分の肩にかけさせるところ。「俺に委ねて…」と言ってるみたいで、なんかすごく好き。

(2024/4/5)

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