興味と関心とアート

武蔵野美術大学日本画のオノチカさんとタルーラさんの作品が届いてもう一か月以上になる。twitterで感想を書きたいけれど、2年以上も何回も作品を見ていて、何回かお話もしているのにうかつなことは書きたくない。オノチカさんのイタリアを旅して写真をとってその写真から絵画を展開した、というのは、たとえば白日会の常任委員の作品論評だったりすると、たとえば有田巧先生なら「これは写真をみて描いていますね。みればわかりますね」という指摘があるだろう。写実作品では、写真は活用するとしても、一度は実見したシーンやモチーフを描くことが求められている気がする。
現代アートでは、写真そのものもあたりまえだがターゲットの作品だし、写真を題材に展開する作品もあたりまえだ。オノチカさんには、実見して自分で切り取った写真をさらに自分の中で展開して絵画化する、という展開があるのだろう。
タルーラさんは、この春の2人展で、新しいストリート系の絵画展開をした。色調にもイエローが明確に入った。新展開で大きくなってほしい。以前、自分にそっくりな妹を人物画として描くことには抵抗があるようなお話をした。別の学生さんである百瀬ゆれさんの作品をみて考えたのだが、タルーラさんには、自分に似た妹を絵画に投影するときに、タルーラさんが持っている内心のワールドを展開したら、見るものにささるのではないかな、と思った。客観なのに主観的、主観的だがモチーフは実は自分に似た自分でないもの、というのはエゴン・シーレにもあったんじゃないのかと思う。ナルシストのシーレは、自分を多面的に、繰り返し描いたように思う。タルーラさんには、今度だけ、と思いながら、何度か、自分に似た自分でない、けれど自分の内心が投影される人物画を描いてみてほしい。多くのあたりまえの画学生が、セザンヌ的であろう、とか、シーレ的であろう、けれど自分の個性で描きたい、と思っているのではないかと推測する。タルーラさんは、きっと自覚はないのだろうけれど、近代の画家が内心で相克したマインドを持っていて、現代においてそれを絵画的に投影できる人なんではないか、と思う。

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