見出し画像

”絵”は表現の為の手段

真面目に絵を練習しはじめようと思って色々考えを言語化したものの、やっぱり腰が重い自分

今はノート術や体力を付ける方法なんかに気が行って図書館で本を借りてきて、試してみたりなんかしてます

きっと自分は絵だけに集中することは無理で、絵に向き合おうとすれば逆に違うものが見えてきて、興味を持つものが増える、それは目をそらしたんじゃなくて、見える世界が広がったとか、解像度が上がったとか、そういう事なんだと解釈してます

今はまだ絵に情熱を抱けてはいないけど、きっと絵を描くことが大好きになれても、絵だけに執着することはないんだろうなって気はします

で、絵の練習に話を戻すわけですが、実は一ヶ月位、ちょいちょい大人の男性を描けるように試行錯誤しながら落書きしてます

比較的マシそうなの、オリキャラ。手持ち無沙汰な時に適当に描き始めたので、メモ帳のすみっこに

イラスト模写が苦手で、それでも一応はやってたはずなのに全然見えていなかったのか、目の描き方を思いっきり間違えて考えてることに気がついてから

目の描き方の間違いに気がついた時の落書き

2次元、3次元問わず目に注目して観察しまくって、漫画はデフォルメだし2次元と三次元での目の描き方は違う物だと思ってたけど、一緒じゃんか!目は球体の一部がはみ出した形ってのは知ってたけど眼球って思った以上に立体的なのか、人間の目の輪郭って結構変わるのか!と発見がすごかった。ほんと今まで何見てたん?

見てるつもりで全然見えていない、それに気づいて自分の無知にうおぉぉとなって、世界が広がった気がするのは楽しい、だからって絵を描く、アウトプットに積極的さや楽しみを見いだせないのは何故なのか、そこに絵が楽しくなるヒントがあるんだろうなと思う

…と話がそれましたが、私は模写をあまりしてない為、今の自分の絵は自分の知っている顔の描き方で、違和感を感じないバランスに描いたものって感じなんですよね
(でも学生時代、ほぼ右向きで、正面顔を描いたことほとんど無いし、首は細かったんだけども、面白いことに練習始めた頃の時点で学生自体の絵と違う、全く練習してないのに不思議)

で、絵が下手で劣等感こじらせた学生時代は少女漫画のうような目の大きな女の子ばかり描いてて、面長で目が小さいイケメンなんて描き方すら想像つかなかった

模写が苦手なので、色んなバランスで描いてみてしっくり来るか試行錯誤なんて効率悪い方法してます、観察だけでは絵がかけたら苦労しないよなぁ…、やっぱり色んな漫画を模写してみて学んだ方が早いよなと思って

クロッキー+2をしてイラスト模写は出来るようになったのですが、手持ちの漫画を模写する気になれず

この漫画好きだけどこの絵が私の描きたい絵かというと…うーんというか

そもそも自分が好きな絵柄と練習したい、描きたい、練習したい絵柄が全然噛み合わない

見るのが好きなのは、描き込みが少ないふわっとした感じの絵柄で、水彩も緻密に塗るというより、”色を置く”という感じの塗りが好き

でも描き込みの少ない絵って、引き算の解なので、学ぶためには情報が足りない、特に自分は観察で学ぶのに情報量が多い方が嬉しい

人間の描き方を学ぶのに、美術解剖学を学んでみたいし、模写をするならリアルめの絵柄にしたい

これから絵の練習するのにどこを目指せばいいんだろうって悩みながら

なんとなく手持ちの数少ない漫画の中で、模写したい作品にあえていれていなかった羽海野チカ先生の「3月のライオン」を読み返してみたら、自分の悩みがばからしくなった

ストーリーとかキャラの魅力や心理描写とか色々すごいのですけど、この作品の黒ベタの使い方が本当にすごい

ただ黒く塗りつぶされただけなのに、凍えるような冷たい水のように、優しく見守る様な夜空に、息苦しい、のしかかかってくるような闇に見えるんだろう?

あの少し切なくて、懐かしくて優しい空気って、どうしたら表現できるんだろう?

漫画って凄いよね、同じ”絵”でも漫画はストーリーありきだから、表現したいこと、伝えたい事がより明確だから、キャラの表情やコマの見せかた、セリフやモノローグなどすべてひっくるめて、話や表現の為にあるものなんだよな

一枚絵だって、何かを表現する為の描くもので、絵の技術ってのは結局”自分の表現したいものを最大限に伝えるためのツール”で、表現したいものが出来た時、そのイメージをより誰かに伝わるように、自分の思うまま具現化出来ように技術を磨くんだよなって

描きたい絵柄なんて今決めなくても、いろいろ描いてれば、そのうちしっくりくるものが見つかるだろうし、その時表現したいもので使い分けられるように、いろんな絵柄に挑戦しても損はないんだよな

絵の技術よりも、空気や物語をちゃんと誰かに伝わってもらえるような絵を描きたい

そういう表現したいなにかを見つけられたら、絵を描くのが大好きになれるんだろうな

私は絵の練習は描くものの理解だと思ってて、暗記だと絵が上達しづらいのではと思ってるんだけど、多分”暗記”の一番の恐ろしさは上達の遅さより、上達した先にあるように思う

暗記だと、絵の表面的な所だけを読み取って、学ぶことしか出来ないから、意図を読み取ることが出来ない、それだと自分の絵にも意図を織り込むことが上手く出来ずに、表現力が大きく劣る事になるように思う

AIの根本的な問題を「意図がない」「意図がぐちゃぐちゃだから」という意見を聞いて、すごく納得した事があるんだけど、

”理解”しようとすれば、作者の心情や意図を読み取ろうとする事ができるから、理解って
本当に大事だ

ちょっと話が変わるんだけど、絵を練習しはじめて、スポーツアニメを見るのが楽しくなったって前の記事で描いたんだけど

スポーツもいいけど、私は手や脚をめいいっぱい伸ばしたり、動きがあるポーズや、マフラーやバンダナ、長いコートやジャケットが風でなびいたり、動きで翻ったりするのが好きで

そういう大きな動きを描こうとする時、例えばスポーツのシュート等の瞬間とか、描きたい絵の瞬間だけを描こうとしても、いい絵にならないんだろうなと思う

スポーツとか大きな動きの絵って、動いてる途中の一瞬を切り取ってるだけで、身体は直前の動きと、直後の動きの影響を受けている
スポーツやアクションなど大きな力を出す動きは体のひねりや遠心力等を利用して複数の力が働いている、前後や一連の流れを知って、動きや働いてる力を理解して描かないと、動きが表現できないんじゃないかなって、ポーズマニアックスでサッカーのシュート前のポーズがあったので、簡単に描いてみて身体の動きや重心などを推測してみたりしました

ポーズマニアックスのシュート前ポーズをクロッキー気味に模写

このポーズ、軸足のつま先が地面についていないので、予備動作の前というか、この段階では勢いはまだなく、この直後につま先が地面に踏み込んでから、シュートの動きになるというという瞬間なんだと思う

周りの線がこれからの動きの軌道を推測したもの、推測なのであってるかは怪しい

特に重心、走ってる途中の身体が浮いてる状態なので、足の位置よりズレててもおかしくない気がする、シュート時はかかとは浮いたまま身体と同じく重心も円を描いて移動すると思うんだけど

この重心、今体力つけようと読んでる体操や筋トレの本を見ると「親指の内側に重心がくるよう意識して」とか描いてあったりするので、重心ってかなり狭い”点”のようなものなんだろうと思う

シュート前のポーズって横から見ると軸足だけが大きく前にでていて、身体はむしろ少し後ろに下がってて、これだけ見ると、後ろに重心があって、バランスを取るもそちらに向けて働いて、たたらを踏むような動きになるように思えるけど、そうならないのは身体のひねりがあるからかなとか

手はシュートを打つ前は手のひらは握らず力が入ってない状態で、やじろべえみたいにバランスを保ってる感じで、シュート後のポーズと見比べると手は握りしめて、腕も大きく動いて肘も曲がるんですよね

スポーツやアクション物って身体の動きの意味を考えると結構楽しい

模写だクロッキーだ、と頑張ってる人から見たら変なことしてると思われるんだろうけど、本当はこういう事が一番大事なんじゃないかな

絵の表面的でない部分にある”なにか”を読み取れるように、絵以外のものも沢山見ていかないとなと思った次第なわけです

とはいえ、表現したい物が見つかってから練習しようとするといつになるかわからないから、今はインプットして、世界を広げたりしながら、落書きして、練習して、技術を上げていくしかないかなぁと思ってます

絵の技術の為だけにはそこまで時間をかけられないので、技術の向上は効率よく行きたいなとは思ってます、まぁ早々都合良くは行かないだろうけど、本当絵って凄いな、深いなぁ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?