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夏と和室と、わたしの記憶。

最近、とっても暑いですね。

毎年この時期になると、『青の罪人』のことを思い出します。

こじんまりとした和室にいる、祈と碧志の姿が、自然と浮かんできます。

この小説は、私にとって生まれて初めての長編小説であり、生まれて初めて、「これはいいものが書けた」と満足できる物語になりました。

執筆当時、何かに取り憑かれたようにがむしゃらにパソコンに向かってて、朝から晩まで無我夢中でキーボードを叩いていた記憶。

体力的に平気だったのかな……どうだったんでしょう。睡眠を削ることはしないようにしていたのでそれは大丈夫なのですが、過集中の執筆って、疲労がものすごいんですよね。一日ガーッと書いたら、翌日はへとへとに疲れた脳みそのためにお休みにしたほうがいいんです。でも書きたい欲のほうが上回っているので、結局書いちゃうんですけど。

また、九月一日は祈の誕生日なので、この日になると彼に思いを馳せます。

不思議なんですけど、物語が終わりを迎えても、祈は、私の中でずっと生きてるんですよね。

たまに思い出しては、彼に会いに行きます。

私が彼の部屋にお邪魔して、じっと過ごす祈の様子を窺ったり、私が一方的に悩みや愚痴を彼に向かって吐き出したり。

そんなときの彼の反応は、いつも彼らしくて、器用なようでいて不器用なあの優しさが、「あぁ……」と心に染みるんです。

こんなふうに私のそばにいる(というか私が会いに行く)キャラって、今まで、いませんでした。祈が初めて。

「青の罪人」は、祈と碧志のひと夏を描いた物語であり、私自身にとっても、この物語を紡いだあの夏は、どこか特別で。

きっと、何年経っても「青の罪人」を書いたあの夏の日々を、忘れることはないんだろうな、と思います。


「青の罪人」の後の話も、少しだけ。

「青の罪人」を書いた後、半年空いて、年明けの2022年1月に一作長編を書き上げ、そこから更新はストップしてます。

何もしてなかったわけではないのですが、2022年は小説に時間を割く余裕が……というか、それどころではなくって。

前々から怪しかった体調が、夏頃にがくんと崩れてしまい、毎日朝から晩までベッドの上で過ごしたり、たまーに少しだけ元気を取り戻すと、ベッドの上に座って、ちまちまと読書をしたりと。まあまあ不自由な生活を送っていました。

そして、年が明けて2023年1月、とある素敵なレビューを頂いたことをきっかけに、創作意欲が再燃し、また一本、小説を書きました。長編で、以前書いた小説のスピンオフなのですが、これはまだ公開していません。

原稿自体は、八、九割方出来上がっているのですが、推敲が完了していないので、自分的にまだ出したくないなぁ、と。

……そうこう言ってるうちに、また夏がやってきて。

一年経った今も、全快状態ではなく、療養生活は継続中です。

基本的に家にいて大人しく過ごしているのですが、療養生活の何が辛いかって、身体の不調ももちろんですが、何より「終わりが見えないこと」なんじゃないかなと。

いつ良くなるのか分からない、いつまでこの生活が続くのか分からない、ほんの少し先の、一ヶ月後の未来さえ、今の私には予想がつかなくて。(命に関わるものではないのでご安心ください)

以前は、というか最近までそれがめちゃくちゃしんどくて。未来への不安というのが、自分の心を暗く覆っていく。どこまで続くのか分からない、真っ暗なトンネルをひとりで歩いているような。

――一生このままだったら?

ふとしたときにそんな考えが頭を過り、恐怖が、いつもそばにありました。

それと同時に、会社に行ったり、休日に遊びに出かける、世の中の人たちがひどく眩しくて。

仕事を通して、誰かのためになるようなことをやったり。外にお出かけして、楽しいことや新しいことに出会えたり。

そんな当たり前の日常が、今の私にはほど遠いから。

ひとり、ひっそりと心を閉じて、孤独と共に過ごしていました。


……ただ、最近、大きなきっかけがあって。

私の中で、とある人と出会ったんです。

その人は、私にとってすごく憧れで、眩しくて……心のどこかで羨ましさを噛み締めつつも、いつかこんな人になりたいなぁと思わせられるような、雲の上のお方でした。

そして、偶然にも、その方の生き方に触れるきっかけがあり、その方が置かれている状況が、大変に苦しいことを知りました。

それは、あまりにも過酷で……多分、私だったら一生立ち直れないし、自分の運命を呪っただろうと思います。

けれど、その方はびっくりするほどに明るくて。

――きっと、今の私なんかより、何十倍も何百倍も、過酷なはずなのに。

その、あまりにも前向きな姿勢に、涙があふれて止まりませんでした。

病気の私には、未来が見えなかった。いつも絶望ばかりして、下を向いていた。

自分は世界一不幸な人間だと信じて疑わなかった。

でもあの人は、どんなときでも光を忘れずに、前を向いている。

今の私より、よっぽど輝いて見える。

――この違いは何だろう?

自分の身に降りかかるつらさや過酷さと、心の幸福度は一致しないんだと気付かされ

私も、前を向きたい。そう、思わせられました。

療養生活は確かに大変だし、つらいし、一日でも早く元気になりたいと心の底から願ってる。

でも、だからといって、今の私に、なにひとつ幸福がないのかといったら、それもまた違くて。

――今日も、生きていること。

一日を、穏やかに過ごせること。

日の光を浴びて、温かさやまぶしさを感じられること。

空を吹く風を感じ、植物の匂いを噛みしめられること。

ご飯が食べられること。美味しいと感じられること。

ままならない私の生活を、支えてくれる人がいること。

そんな当たり前の日常が、愛おしいと、なにより幸せなんだよと、

その人が、教えてくれました。

できないことがたくさんあっても、いろんなことがままならなくても、どんなに体が苦しくても――幸せに、過ごしていい。幸せを、感じていい。幸せに、なっていい。

心の中ではいつも、幸せに生きていい。

そんな生き方を、教えられました。


今の私には、書き上げた原稿を推敲する元気はなくて。

今の私には、参加したかったコンテストのために、新しく作品を生み出すことはできなくて。


だけど、

少し、元気があれば、大好きな読書ができるし

話題のアニメを追いかけることもできる。

SNSを開けば、目の保養になるような素敵なイラストがたくさんあがってて

そのたびに

「性癖ど真ん中の作品をありがとう! ブラボー!!!」

と、絵師さんに拝みたくなるし

大好きな作家さんの新作発売が予告されたときには

「ぎゃああああ!!! 楽しみすぎる!!!」

と、心の中でパリピのごとく踊り狂い

布団の中で好きなアニソンを聴いては

「あぁ、いい曲だなぁ……!」

と、胸がじんと感動で染み渡る。


こんなふうに
 
心を揺さぶる幸せや興奮の感情は

病気でも、病気じゃなくても変わらない。不変なんだと、改めて気付かされ

闘病中でも、体が不自由でも、心の一番深いところで、幸せや感謝の気持ちが、穏やかにずっと流れている。

そんな感覚に、最近は変わってきました。


以前は、絶対そんなふうには思えなかったのに。

嘘偽りのない、他人の美しい生き様に触れると、こうも心動かされるのですね。



……とはいっても、またすぐに落ち込んだり、不安になったり、苦しくなったり、不幸モードに入ってしまうこともあると思います。

それはしゃーない。人間だから。

でも、また、思い出せばいいよね。

自分の周りには、いつだって、幸せがあふれているということを。

平和な日々を慈しみ、当たり前の日常を心から愛して

前を向く。

体が病気でも、心はたくさん幸せになっていい。

――今日も、自分が生きていること。

――それはきっと、何よりの奇跡だから。


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