パネストーリーは突然に

同じ色を3つ以上揃えることに、どれだけの人が熱中したのだろう。
何回揃えて、消え行く様を見つめ、いやそれを何万回と見た人間は、最早見つめることもないだろう。
ただ3つ揃えて消すだけならば、人間が足を踏ん張らせて階段を昇るように、ただただそれを支えとして次の行動に向かうだけだ。
我々プレイヤーが目指すのは、死なないことである、
死なない、言い換えれば、生き長らえることである。
人間は基本的には何かを消費しなければ生きることが難しい。
何かを消費した上で、それをエネルギーに代え、それもまた消費して行動することができる。
消費に消費を重ね、代えに代えている。
我々はそういった消費と代替を覚えているだろうか。
覚えているはずもない。
それらは常に付き纏い、人間には取るに足りないことだからだ。
それらを全て覚えてしまっては、人間のキャパシティがオーバーしてしまう。
意識とは常に節約の連続の上に成り立っている。
節約の連続は、無意識の上澄みである。
例えば、物を食べるために箸やフォークなどを使うことも、無意識の上澄みの部分と言えるだろう。
パネポンに話を戻して言えば、どこからパネルを持ってきたかとか、ハード面で言えばカーソルを移動させるための自分の指使いだ。
再び問おう。
「これらを覚えているだろうか」と。
車の免許取得でよく聞く話がある。
「免許取りたては気を付けるけど、慣れてくるとやっぱり気を抜いてるところが出てくるよね〜。」
初めのうちはキャパシティいっぱいに運転していて会話をする余裕もなかった人が、気付けば助手席の人と会話できるようになっている。
何なら車窓から見える夕焼けが綺麗だったりして、良い風景写真が撮れるなぁ、なんて考えてしまう。
節約や省略の結果が慣れである。

突然だが、自分はスマブラの中では初めて買ったDXが1番好きだ。
だから、DXの続編であるタイトルも買った。
でも、何かが違う。
いや、違うのは当たり前なのだ。
じゃぁどう違うのかと言えば、ゲーム画面内のポリゴンの情報量が凄いのだ。
最早細かすぎてポリゴンでもないのかも知れない。
それを人々は「綺麗」「滑らかだ」と言う。
それは事実だ。
しかし事実以上に、自分の目に入ってくるものはとにかく「情報量が多い」ということだけであった。
しかし、あぁこれは情報量が多くて自分のキャパシティか慣れが足りなかったのだ、と理解するには随分と時間がかかった。
情報量が多い、ということに当時の自分は気付けなかったのだ。
何故なら、滑らかだ、と言われるのは、ポリゴンの境や角という情報量が省略された、と思っていたからだ。
しかし、情報量が少なくなっているならば、基本的には人間が捉えて処理する労力はそこまで割かれないはずだ。
だから、普通は疲れないはずだ。
しかし、スマブラX以降のバージョンをプレイすると、とても疲労感があった。
そこでようやく、綺麗だとか滑らかさ、厳密に言えば高精細な画が疲れに繋がっているのではないか、という仮説が立った。
高精細させているものは何かと考えると、数多のピクセルやポリゴンである。
少なくとも現代のデジタル世界においては、どんなに滑らかであっても、基本的には表示するかしないかといった0か1の世界だ。
そういった世界において滑らかに表現したいと思うなら、1つのピクセルをとても小さくするか、ピクセルとピクセルの真ん中にまたピクセルを置く、といった方法があるだろう、知らんけど(本当に知らない)。
しかし、1つのピクセルをとても小さくした場合、1を数えられないほど敷き詰めるということになる。
真ん中にピクセルを置いて埋める場合も同様である。
延々と111111111111111111みたいな状況になっている。
そうすると、1ピクセル当たりの面積が大きければ1という数も相対的に少なくなる。
1と111111111111111111のどちらが見やすいだろうか。
個人的には1のみの方である。
つまり、私にとっては111111111111111111といった世界が難しく、慣れることも出来なかったのだ。

私はとても疲れやすい。
階段を10段上がろうものなら、大きく呼吸をすることは免れない。
そして、私は心臓を手術した経験があり、それによって心雑音が発生している。
もしかしたら私の心臓にとっては、人にとってただ動いた1という世界のものが、111111111111111111の世界に感じられているのかも知れない。
そんなことを思いながら、鼓動によってブレないように容赦なく動く心臓の鼓動を抑えようとして息を止めつつ、趣味の写真に勤しんでいた。

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