書きぼやきvol.1 -人間の感覚とスマホ,ドクの道-

『情報を簡単に手に入れられる』
『スマホとギガさえあれば有識者の知識や楽しさを得られる』

そんな時代になったのは、紛うことなき事実だ。
スマホやPCを用いてブラウザを開けば何でも検索できるし、大抵のことは検索に対しての答えが返ってくる。
何ならHEYだのOKだの話しかけても、大体のことは返ってくる。
動画サイトを開けば本当に色んな人が、楽しいことから不安を煽ることまで、知識や知恵や考察などを動画化してくれ、我々はそれらを享受できるし共有もできる。
余談だが、色々と享受すべきと言っておきながら、やはりギガを使うという言葉を未だに受け入れられずにいる。
手持ちに累積させるものか、手持ちが減衰するものか、という視点の違いなだけではあるのだが、やはり納得はできない。
理屈と感想は別である。

話を戻すと、情報が簡単に手に入る時代に対して「本当にそれで良いのか?」という議論や研究も大いにされている。
私個人の意見としては「悪いは悪いが、知らない事柄を知れるという恩恵は享受すべき」「今の時代は特に情報依存度が高すぎて人一人が修正できるものではないので、諦めよう」と思っている。

多くの人が知らないと自覚していることは、たくさんあるはずだ。
たくさんあるはずだが、検索すればすぐに情報を目に入れられる時代である。
すぐに情報が手に入る時代だからこそ、知らないというのは周りと違うという恥になりやすい。
知らないというのは、特に現代の人間にとっては屈辱的なものに思えるかも知れない。
近年『自己肯定感』という言葉を頻繁に目にするのは、屈辱が原因だと思っている。
屈辱や自己肯定感という穴は埋めたくなるし、埋められて満足できるのならば幸せだし、寧ろそれが当然の流れだと思うので、「享受した方が良い」という考えになった。
私自身が享受するかどうかは別の話である。

最近はスマホなどに対して危機感を覚えている人が多いのか、『デジタルデトックス』なるものも出てきている。
その名の通り、電子機器依存という毒を体から出そうという狙いだ。
そうすれば脳を休憩させられる、五感が冴えるなどの効果があるらしい。
とは言うものの、これを現代で完遂するには、かなりの覚悟や労力を要するはずだ。
誰かと連絡を頻繁に取る人ならその旨を伝えなければならないし、普段料理をネットで調べて作る人は期間中分のレシピはメモに控える労力が発生するだろう。
そして1番つらいのは、映画や動画などデジタルに趣味が集中している場合だろう。
それは、もしデジタルデトックスを行ったとしても、ストレスは溜まる一方である。
ストレスが溜まれば分かりやすく体調を崩すし、人間関係も壊れかねない。
本気でやるのならば、まず環境構築から始めないといけない、という意味で覚悟は必要だと思うのだ。
我々はもう電子機器に囲まれているし、逃れられない運命である。

私もデジタルに飲まれる時代を危惧する1人である。
とは言いつつ、Twitterのヘビーユーザーであったり、ゲームの生配信をしたり、動画サイトを漁るデジタルまみれの人間でもある。
危惧はしているけどヘビーユーザーであるのは、先程述べた通り「悪いは悪いが、知らない事柄を知れるという恩恵は享受すべき」という点が1番大きい。

本当に極端な未来を想像するならば、人間が感覚を失う時代も有り得るのではないか。
本当かどうかは知る由もないが、刺身は魚から捌かれているという事実を知らず、刺身のまま海を泳いでいると言う人がいるという話を聞いたことがある。
これだけ聞くと「ただの所謂”一般常識が無い人”では?」となるかも知れないが、それ以上に「魚を捌いたときの手の感覚を知らない人」が生まれていることに他ならないのだ。
何もこれは魚に限った話ではなく、あらゆる物事に言える。
葉っぱの感触、土の匂い、トンボの羽を掴んでトンボがワタワタしている振動などを知らないのは、それもまた自己の欠如なのだ。
トンボの羽を掴んでトンボがワタワタしている振動の記憶が、人生においてどれだけ必要なのか分からないが、私は現にこうやって例えに出している。
それは十分『役に立っている』のではないか。

しかし、スマホで調べているだけでは『ワタワタしている振動』など到底分かるはずもないのだ。
それは図鑑などでも同じでは?と思われるかもしれないが、確かに『ワタワタしている振動』は分かりようもない。
しかし、本の匂いがある、本のザラザラかツルツルか分からないが感触がある、インクの発色が良いだとか、そんなワクワクさせるものがある。
つまり、情報収集のため、連絡を取るための”たかだか”スマホに、人間の感覚が集約されている。
情報を収集しているつもりが、逆の関係になってしまう。
人間は怠惰の生物だ。
苦労をしないために進化する生物だ。
そんな生物である人間を動かすには、楽が必要だ。
これはラクではない。ガクであり、たのしい、だ。

先述で『デジタルデトックス』という言葉を出したが、これはデジタルが毒であるという前提で語られるものである。
世にはこういった慣用句がある。
『毒薬変じて薬となる』
これは毒も使いようによっては薬となる、という意味である。
とは言っても、今の状況は薬だと思っているものを使い過ぎて毒となっている『薬も過ぎれば毒となる』というオーバードーズ状態だ。
厳密に言えば、根拠が無くとも毒と捉えるような人が出てきてしまっている以上は、本物の毒だろうが偽物の毒だろうが毒になってしまっているので、結局前提は変わらない。
『毒を以て毒を制す』といった言葉もある。
しかし、これをデジタル云々でやろうとすると、間違いなくいたちごっこにするだろう。
なるのではなく、勝手にどんどんそうなっていくのだ。
それはもう見飽きた光景である。

もしデジタル依存に対抗する薬があるとするならば、草に隠れて楽しむという薬ではなく、草から出てきて開放感に溢れるような楽でもなく、楽は楽でもガクと読み、自分の中の子供の部分に構ってあげるような学ではないだろうか。
若ければ若いほど学には興味が湧かず、年を取ってからようやく「勉強しておけば良かった」と思う人は少なくないと感じる。
自分もその1人である。
しかし、勉強しておけば良かったと言う人ほど、結局は勉強しない。
偏見なのは重々承知しているが、何せ自分もまたその1人である。
結局勉強や自分の中の好奇心を愛する子供にすることができていないのである。

子育ては孤独、とよく言われると思う。
自分には子供がいないので実体験として語ることはできないので、言葉だけを鵜呑みにしていくと、自分の中の子供の部分に構ってあげるような学もまた孤独ではないだろうか。
厳密に言えば、行為は孤独ではなくてもできるのだが、最終的なところは孤独であると思う。
行為においては寧ろ一人ではなく、友人などと学んだ方が圧倒的に効率は良いだろう。
物事について語り合えば、いわば反復練習になる。
最終的なところが孤独であるのは、知識を蓄えておく部分が自分、知識を使うか使わないかといった部分も自分、何が正しくて何が悪いのか分からないのだがそれでも答えを出さなければならないのは自分だ。
要するに、全て自分に依存する。
学とは少し逸れているかも知れないが、勉強を何のためにするかと言えば、人のためにも使うだろう。
しかし、最終的には自分のためである。

良いことも、悪いことも、そんな善悪などの境界など関係なく、そもそも物事を知っていなければ、1番良いと思われる結論を出すことはできない。
それに至るまでは孤独な戦いであり、あらゆるものの中で1番を争う蠱毒である。
薬を飲めば知識がつくような、ドラえもんの秘密道具のような楽な道は現実には無い。
今の我々人間が歩んでいきたいのは、ドクの道なのかも知れない。

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