仮にエヴァが青春だとするならば、俺の青春は始まることなく今日終わった
仮にエヴァが青春だとするならば、俺の青春は始まることなく今日終わった
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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を見てきた。仮にエヴァが青春だとするならば、俺の青春は始まることなく今日終わったと言えるだろう。
俺が初めてエヴァを見たのは、テレビだった。アニメ版を見たわけではない。「エヴァが流行している」というニュースで見たのだ。当時の記憶は曖昧だが、なんかでっかいエヴァが何かを握っている場面だったと思う。
小さい頃からアニメや漫画が好きだった俺は、エヴァに興味を持った。しかし、当時は今ほどネットワークが発達しておらず、田舎の地方局では見る手段がなかった(厳密には遅れて再放送はしていたのだが、深夜帯の放送でありCMもほとんど流されなかったため、再放送していることに気が付かなかった)。漫画版なら手に入っただろうと思うかもしれないが、当時はエヴァの漫画版があるということすら知る方法がなかったのだ。
アニメは全国区でないが、ニュース番組は全国区のものが放送されるというのが地方局の常である。これにより、エヴァというのは「遠く別世界の流行」という認識であった。
さて、いくら人の少ない田舎でも、そういったアニメカルチャーに詳しいやつが一人くらい入るだろうと思うかもしれないが、地元の人の少なさはかなりのもので、そういう人物は居なかったし、雑誌といえば漫画雑誌だった。
漫画雑誌を読むときも、アニメ化のニュースがあったとしても、所詮見ることができない絵に描いた餅であり、ある意味では無関係よりも酷だったかもしれない。
そんなこんなで何年も経過するわけだが、その間も俺は「エヴァの存在しない世界」の人間だった。懐かしのアニメ名場面集やアニソンランキング番組などでエヴァのOPや最終回のありがとうなどが流れることはあったが、言い換えればその程度しかエヴァを知らなかったということである。
エヴァが社会現象になったというニュースが流れるようになっても、俺は「エヴァの存在しない世界」の人間だった。漫画やアニメなどでエヴァのパロディが頻繁に出てくることで、「そのネタ元がエヴァであるという事実」のみを知り、元ネタの原液を摂取することは叶わなかった。
エヴァのパロディはそれこそ大量にあるが、俺がよく触れたものは銀魂のマダオとケロロ軍曹だった。とくに、ケロロ軍曹のアニメは様々なパロディが取り入れられており、「エヴァのことは知らないがエヴァのパロディだということだけはわかる」という状態が更に強くなっていった。
とはいえ、パロディだけでエヴァの情報を摂取していたわけではなかった。当時定期購読していたゲーム雑誌では、エヴァ関係のゲームが出るたびにその情報が公開されていた。その結果、アニメ本編は見たことはないがキャラクター名と外見だけはなんとなく知っているという解像度を得ることになった。
こうして、「なんだかよくわからんが流行っているらしい」という解像度のままだいぶ時間が過ぎたころ、いよいよ田舎にもインターネットがやってきた。
インターネット上ではそれこそ場所を問わずエヴァの話が(考察やパロディなど幅広く)行われており、それが目的ではなかったとしてもエヴァ関連の言葉を見聞きするような状態だった。
エントリープラグ、ATフィールド、ゼーレ、その他様々な用語は、いつの間にか意味を知っていた。アニメ本編を一切見ていないにも関わらずに。ここらへんでようやく、俺も「エヴァの存在する世界」へと片足を突っ込んだのだろうと思う。
こうして、無知と比較すれば多少はエヴァを知るような状態になったあたりで、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序が公開されることになる。多少気になったが、見ることはなかった。
多少の知とは、時として無知よりもやっかいなものである。エヴァの片鱗にふれることで、エヴァへの興味が難解さを上回ったのだ。「とにかくエヴァは難解でありいきなり劇場版を見ても理解は困難を極める」という空気に圧倒されていた。
その後も、エヴァの劇場版が公開されたり延期になったりするたびに、社会現象と謳うニュースが連日放送されたが、難解な物語をいきなり途中から見てもわかるはずはないという近寄りがたさがあった。
こうして、世間の同世代ではエヴァが青春であると言わんばかりの空気が満ちていたが、しかし、俺の青春にエヴァは無かった。それでも、仮にエヴァが青春だとするならば、俺の青春は始まっていなかったとも言えるだろう。
止まるどころか始まってもいなかった俺のエヴァ青春は、一月ほど前にようやく動き出す準備を始めることになった。やはり、地上波というのは率いが低い。ともすればやりすぎだとも言われる丁寧なあらすじ解説も、難解だというイメージが強い映画ならば重要な助けとなる。
しかし、やはりエヴァの難解さは難解だった。おそらく、TV版から長くずっと見ているひとにとっては、映画はTV版より遥かにわかりやすかったのかもしれない。人によっては「映画程度で難解だとか分からんとか言っている半端者はエヴァをナメている」とも思ったかもしれないだろう。それは長い時間をエヴァと向き合ってきたからこそ得られる熟練者の思考であり、それこそ昨日今日どころか金曜21時から地上波で1本映画を見終わっただけの文字通り初見の思考とは遥かに違うものだろう。
ともあれ、最後の映画を見る準備はある程度整った。整ったのだが、すぐに見にいこうとは思わなかった。やはり、難解さというハードルは高い。
では、なぜ見に行ったのかといえば、結末が気になったからだ(あとはサツマゲリオンをおっぱじめた咎を背負ってだ)。多くの人が注目する大きな1つの結末を知りたい。その知欲が、難解さというハードルを超えた。
確かに、俺はエヴァの殆どを理解していない。しかし、だからといって、結末を知ってはいけないということはないはずだ。無論、全てを見てこそ得られる経験があるからもったいないという声もあるだろう。だが、映画公開が終わる前に今から全てを見ることは物理的に可能だろうかと考えると、答えは明白だ。見たい映画を見に行きたいと思ったときに見に行かなくて、いつ見に行くというのだろうか。
そして、今日、俺はシン・エヴァンゲリオン劇場版:||を見てきた。ろくすっぽエヴァを知らない俺の、エヴァと呼ばれる青春を初めて、そして終わらせるために。
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