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【小説】#22 怪奇探偵 白澤探偵事務所|隠蔽された記憶【前編】

あらすじ:業務を再開した白澤探偵事務所に、《向こう側》の商人であるエチゴから過去のことを見られる人が見つかったという知らせが入った。早速約束を取り付け、その人に会うことになり――。

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 窓の外から絶え間なく蝉の鳴き声が聞こえる。近くで鳴いているなと思えば鳴き声が止み、気付けばまた鳴き始めている。夏らしいと言えばそうだが、外でのびのびとしている蝉たちは暑くないのだろうかと不思議にも思う。
 梅雨が明けた頃から、白澤探偵事務所では対面の仕事を減らしながらも業務を再開することになった。例年通り、依頼された護符の送付だったり、墓参り代行の依頼を受けたりと徐々に日常に戻っていくのを感じている。
 いつもと同じように、給湯室を兼ねた事務室で封に包まれた護符をエアパッキンで包んでいると、一本の電話が入った。受話器に手を伸ばすが俺より早く白澤さんが取ったらしく、固定電話に通話中を示すランプが点く。
 応接と白澤さんのデスクを兼ねた隣の部屋から、かすかに声が聞こえる。仕事の依頼だろうか、それとも相談事だろうかと考えながらぼんやり手を動かしていると、割合すぐに通話ランプが消えた。短い要件であったらしい。
「野田くん」
 顔を上げると、白澤さんが開いたドアから手招きをしていた。空気の循環のため、事務室と応接室を繋げるドアは開いたままだ。白澤さんに呼ばれているとわかって、急いで隣の部屋へ向かう。
「遠見の人が見つかったそうだよ、エチゴさんから連絡があった」
 エチゴさんというのは、向こう側で商人をしているよろず屋だ。事務所の三階にある倉庫を整頓する際、倉庫にあった怪異物の品々を買い取りや処分をしてくれたのがエチゴさんである。
 よろず屋という言葉通り、エチゴさんは様々な商売をしている。不用品の買取や処分にしてもそうだし、向こう側にある白澤さんの家に本棚を取り付けてくれたりもした。商材として何でも取り扱うからよろず屋、ということであるらしい。
 そのよろず屋に、遠見の人を探してほしい、と依頼をした。
「前にも話したけれど、遠見は過去に起きたことを見せてくれる。もちろん、記憶を見るというものだから実際に起きていないことは見ることができない」
 過去を見る手段はありますか、と白澤さんに尋ねたのは俺だ。
 冬頃、掛け時計を元あった場所に戻すという依頼があった。時計を元の場所に戻してやると、過去の記憶を再生し始めた。その再生の影響か、冬の寒々とした山が燃えるような緑に包まれ、その時に妙な白昼夢を見た。
 夏の昼下がり、一人でぼんやりと過ごしている幼い自分が、見知らぬ大人に会っていた。ただ顔を合わせるのではなく、その人が自分の顔に手を当てた瞬間、頬から額にかけて痛みが走った。
 その痛みが傷跡の位置と同じだと気が付いてから、事故が原因だと言われていた自分の顔にある傷跡はもしかしたら別の理由で付けられたのかもしれない、と考えてしまっている。
 白昼夢で見たものは記憶になく、逆に全く記憶がないからこそもしかしたらという考えが拭えない。かといって記憶にないものは思い出しようがなく、だからこそ過去が見えるものはないかと白澤さんに尋ねたのだった。
 遠見をすれば、過去に起きたことを知ることができる。ただ、あの時の白昼夢がただの幻覚だとすれば見てもらう意味はない。
「野田くんが良ければ、このまま話を進めようと思うけれど」
「……お願いします」
 どちらにせよ、見てもらわなければわからないことだ。
 白澤さんは僅かに微笑み、小さく頷いてくれた。
「わかった。エチゴさんが手配してくれて、場所と日付は決めてくださったから……明後日、一緒に行こうか」
 思いの外すぐ遠見の人に会うことができるらしく、少し驚いた。
 急なことではあるが、幸い忙しいわけではない。一体何がわかるだろうかと期待半分、不安半分がないまぜになったまま、よろしくお願いしますと頭を下げた。

 約束の日になった。新宿から白澤さんの運転する車に揺られて二時間ほど走り、田畑の目立つ郊外に出る。もう少し車を走らせたら北関東に出るあたりまで来て、あと何キロで他県という表示が目立ちはじめた。
 青々と伸びる稲が風に揺れている。日差しは強く、夏の気配が濃い。雲に隠れている太陽を薄眼で見上げながら、窓の外を眺めている。
 エチゴさんに指定された場所は近県で、てっきりまた『向こう側』へ行くんだと思っていたので拍子抜けしてしまった。向こう側だけでなく、こちら側にも遠見の人は極少数いるらしい。
 時刻は朝の十時を過ぎ、太陽の位置は随分高い。外を歩く人は少なく、時折対向車とすれ違うくらいだ。夏休みを満喫している自転車の集団が遠くに見える。どこへ行くのだろうかと考えているうちに見えなくなった。
「いい天気だね」
「いやあ、でもちょっと暑すぎますよ……」
 田畑の間に、ぽつりぽつりと民家がある。家はそれぞれ大きく、蔵に農機具があったり、家の傍にある畑に青々とした夏野菜が実っていたりと、最近はあまり見る機会のなかった景色に、懐かしさからか家々の様子に興味が惹かれた。地元の景色に似ているというか、田舎の景色は全部こういう感じという気もする。
 目的地に近づきました、とカーナビがアナウンスをする。同時にナビゲーションが終了し、白澤さんはゆっくりとハンドルを切った。
 庭に車を停める。母屋と蔵が並び、漆喰の壁が白く眩しい。庭は広くよく手入れされていて、小さな池には金魚が泳いでいるのが見えた。
 玄関に犬がいて小さく尻尾を振っている。車から降りると、犬がうぉんと吠えた。同時に、玄関の戸ががらりと戸が開いて、大柄の男性が出てくる。自分と目線が変わらない人と会うのは珍しい。
「白澤さんですね。お待ちしていました、エチゴさんから話は伺っています」
「お世話になります」
 頭のてっぺんから響くような、清々しい声をした人だ。歓迎して柔らかい表情を作ってくれているのはわかるが、瞼が厚く、目がほとんど糸のようになっている。白澤さんが家の中に案内されたのに続いて、俺も家に上がった。

 遠見の人の家は、田舎にある父の家に何となく似ていた。玄関が広く、上がりかまちが高い。どの部屋も広く、ざらざらとした土壁を見ていると懐かしく感じる。
 通された客間は民芸風の調度品がいくつか飾られていた。木目の美しい座卓に、ふかふかの座布団が並べて置かれている。正座のほうが良いのか一瞬悩んだが、楽にしてくださいという声かけにそっと足を崩した。
「この度はお世話になります。白澤探偵事務所の白澤です」
「……助手の野田です。よろしくお願いします」
「遠見は名乗らないのが決まりでして、不便とは思いますがそのまま遠見とお呼びください」
 遠見の人には、白澤さんが事前にある程度説明をしてくれていたようだった。過去を再生する時計の影響で白昼夢を見たこと、白昼夢で自分の傷跡と同じ部分に痛みが走ったことをかいつまんで話すと、遠見さんは大きく二度頷いた。
「野田さんは事故にあったことを覚えていますか?」
「いえ、全く覚えていなくて……」
 事故の記憶はない。両親は詳しく話してはくれなかった。逆に、見たことがある、知っている、と思ったのは夢で見た景色の方だ。ただ、誰かに顔を触れられたような記憶もない。
 遠見さんは糸のように目を細め、なるほどと頷いて穏やかに微笑む。
「早速、遠見にかかりますか?」
「あ、ちょっと確認したいんですけど……白澤さんに同席してもらうことって、できますか?」
「一緒に記憶を見てもらうということであれば、可能ですが」
 遠見さんは悠然に頷き、白澤さんは目を丸くして俺を見た。
「……私が同席するということは、野田くんの過去を私も見るということだけど」
 プライバシー的にどうだろうか、と白澤さんは言葉を濁す。
 確かに、自分の記憶は、自分だけのものだ。けれどこの件に関して言えば、俺すら知らない記憶で、自分ですらわからないものを一人で見て何がわかるだろうと疑問に思っている。こういう時にこそ、人の力を借りたい。
「俺だけじゃ、何か見落とすかもしれないんで……白澤さんがよかったら、一緒に見てほしいです」
 どうせ見るなら、という気持ちももちろんある。俺だけでわからないことでも、白澤さんがいるなら何とかなるのではないか、と思ってしまっている。
「……わかった。では、そのようにお願いします」
「かしこまりました。では、こちらへ」
 遠見さんが立ち上がる。違う部屋に移動するらしい。先に立った彼に続いて、俺と白澤さんも立ち上がった。

 客間を出て、廊下の突き当りにある奥まった部屋へ案内される。障子が全て締め切られているからか、外の凶悪なほどの日差しはなく、部屋全体は薄暗い。
 さきほどの客間と違うところは、少し変わった香りがするところだろうか。僅かに鼻がツンとするような尖った匂いだけれど、不思議と不快ではない。白澤さんが魔除けに使う煙草の香りと少し似ている気がする。
「儀式の前に、簡単にですが説明をしますね」
 座布団に座ると、遠見さんが目の前で小さな鈴を取り出した。銀色の小ぶりな鈴だ。朱色の紐で括られていて、どこか年季の入った色合いをしている。
「野田さんの記憶の中から、傷がついた前後の時間をお見せします。見るだけですから、動いたり、何かに触れたりすることはできません。声を発することはできますが、基本的には声を出さないようにお願いします」
 なるほど、本当にただ傍観者としてそこに居るというだけらしい。うっかり声を出さないように気を付けようと心に決め、一度頷いた。
「では、目を瞑ってください。三度鈴の音がなると意識が遠くなりますが、そのままじっとしていると徐々に記憶にたどり着きます。こちらに戻すときも、同じように鈴が三度鳴りますから……」
 話し終わるとすぐ、小さな鈴が一度鳴った。慌てて目を瞑る。次いで二度目の鈴が鳴り、何となく香りが強くなってきた気がする。すう、と深く息を吸う。突然、香辛料の匂いだと気が付いた。胡椒とか、ナツメグとか、そういう類のものだ。魔除けに使えるんだっけ、と考えている間に三度目の鈴が聞こえた。
 目を瞑っているのに、ぼんやりと視界が滲んだ。匂いが遠くなり、ゆっくりと自分の首が前に倒れていくのがわかる。意識を保とうとしても、どうにも体が言うことを聞かない。これに抵抗してはいけないことはわかっていたから、そのまま身体をゆだねることにした。

 蝉の声が聞こえる。
 頭上から降り注ぐような蝉時雨に顔を上げれば、目の前を埋め尽くすような鮮やかな緑が眩しくて何度か瞬きをした。見上げる空の色は青が濃く、入道雲がもくもくと空を覆って悠々と流れていく。
 あの時に見た夢の景色だと気が付いて、はっと息を呑んだ。目の前に古ぼけた社があり、賽銭箱の前に子どもが座りこんでいる。じっと足元を見つめているその姿が幼い頃の自分であることがわかって、やはりあの白昼夢は自分の記憶だったのだと確信を得た。
 周りを見渡してみる。父の実家の近くには田んぼが広がっていて、田んぼの中にぽつんと鎮守の森があった。どういうものを祀っていた神社なのかは覚えていないが、近場に遊ぶ場所もなく、そこによく行っていたような記憶がある。
 兄も一緒にいたはずなのだが、いつの間にかいなくなっていた。兄は俺の面倒を見るように言われていたが、それを嫌がっていたような覚えがある。一人で遊びたい盛りに、俺が付いて回るのは面倒だったのだろう。
 じゃり、と足音がした。顔を向ける。帽子をかぶった男性がひとり、こちらへ歩いてくる。白い靴を見て、あっと声を上げた。あれだ。あの人が俺の顔に触れた瞬間に痛みが走ったのだ。
 見知った人間だろうか。それとも、全く知らないひとなのだろうか。
 徐々に近づいてきて、はっきりと全身が見えた。つばの広い、夏用の帽子をかぶっている。さらりとした素材のシャツにゆったりとしたシルエットのパンツと、白い革靴を履いていた。帽子の下から一本に結んだ長い黒髪が伸びている。
 以前の白昼夢の中では、男の顔ははっきり見えなかった。帽子の下にある男の顔を見る。釣り目で鼻が高い。唇が薄く、面長に見える。この時会った記憶もなければ、知り合いや親戚にも思い当たらない顔だ。
 男が、幼い頃の俺に声をかけている。記憶であるから、それを止めることはできない。
 ――ぼく、どうしたの。
 ――まいご。
 ――一人で居て、泣かなかったんだ。えらいね。
 男の手が伸びる。触れられている幼い自分は、きょとんと目を丸くしていた。顔の右側を大きな手が包んだ瞬間、あっ、と小さく声が上がった。
 ぴし、と氷が割れるような音がする。同時に、頬から額へ、頬から顎へ、傷が走るのが見えた。不思議と傷はすぐに塞がり、痕を残した。遅れて、幼い自分が自分の顔を手で押さえて俯く。
 間違いではなかった。やはりこの傷は事故が原因ではなく、誰かに意図的につけられたものだったのだ。何の目的で、誰が、一体どうしてこんなことをしたのか、それは全く分からない。
 男は右手を離す。幼い自分は顔を手でおさえたまま、俯いてしまった。男は来た道をゆっくりと戻っていく。
 砂利を踏む音に交じって、鈴の音が聞こえた。遠見さんの鈴の音に似ている気がする。意識が戻る前触れだろう。
 遠ざかっていく男の背中を見ながら、思わず自分の右頬に触れていた。ざらりとした傷跡の感触は、今もずっとある。幼い頃の自分は、一向に起き上がる気配がない。どうやって家に帰ったのだろう、今ここに立っているからどうにかして家には戻ったのだろうが、何もわからない。二度目の鈴の音がする頃には、男は見えなくなっていた。
 ようやく、俯いていた幼い自分が顔を上げた。今、自分の顔にあるのと同じ額から顎まで続く傷跡がある。
 事故が原因ではなかった。この傷跡は、あの男につけられたものだと、はっきりわかった。三度目の鈴の音が聞こえるのと同時に、意識が遠のいていった。

 目が覚める。ゆっくりと瞬きをすると、鈴を懐にしまう遠見さんが見えた。
 周囲を見渡す。鼻がツンとするような尖った匂いがする。障子が開いていて、縁側の窓の向こうに夏の厳しい日差しが見えて思わず目を細めた。
 ぼんやりしている間に俺たちの前に小さなテーブルが置かれ、華やかな香りのするお茶が並べられた。遠見さんが飲むように言うので、ひとつ貰う。口に含ませると、思ったより喉が渇いていたことにようやく気が付いた。
 さっき自分の目で見たことがあまりにショックで、何を言っていいかわからない。傷は事故が原因ではなかった。両親はずっと、それを俺に黙っていたのだろうか。嘘を吐いていたのだろうか。白澤さんもどこか考え込んでいる様子で、場が沈黙に包まれる。
「あの記憶は、どうやら隠蔽されていたようです」
「隠蔽……ですか?」
 遠見さんは僅かに表情を強張らせる。記憶の隠蔽というのは、遠見の人から見てあまり喜ばしいものではないということはすぐにわかった。
「記憶の隠蔽というのは、本来の記憶を別の記憶にすり替えて隠しておくことを言います。今回のことであれば、人に傷をつけられたという事象を別の事象にすり替えられたと考えられます……それが、事故だったのではないかと」
「……野田くんには事故による傷があった、と人々の記憶をすり替えたということだね……ご両親にも影響はあっただろう」
 記憶を隠しただけでなく、別の記憶にすり替えたということらしい。
 俺だけではなく、俺に関わる人の記憶も同じように別の記憶を与えられたのだとしたら、両親は嘘をついていたわけではなかったことになる。
 誰もが傷がすでにあったように認識していると聞くと、一体なぜそこまでして俺に傷を残したのかのほうが気になる。なぜ、どうして、ということばかりが頭を巡り、何かを考えるのが難しい。
「遠見の儀式を受けた方は誰しも大なり小なりショックを受けるものですから、落ち着くまでこの部屋でお休みになってください。私は居間におりますから、お帰りの際にお声がけいただければ……」
 横になるときは押し入れから布団を出してくださって構いませんので、と言い添えて、遠見さんは部屋を出て行く。
 白澤さんと二人、客間に残された。よく見れば、部屋にはお茶のお代わりが入ったピッチャーと茶菓子が備えられている。小さな冷蔵庫があるあたり、あの中にはお茶以外のものも準備されているのだろう。休憩をしてから帰る人は珍しくないのだろうな、とすぐにわかった。
 部屋に漂っていた香りは随分薄くなり、外からは蝉の鳴き声も聞こえてきた。お茶に口をつける。冷たいお茶が喉の奥に落ちていく感覚に、ぶるりと体が震えた。
「野田くん、私はあれを知っているかもしれない」
 突然、ぽつりと白澤さんが呟いた。あれ、というのはあの男のことだろうか。知っているというのは何を、どの程度知っているというのだろう。どれから聞けばいいかわからないまま、じっと白澤さんを見つめる。
 外の蝉が急に鳴き止み、軒先の風鈴が小さく鳴る。俺はただ、白澤さんが話してくれるのを待つことしかできなかった。