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【小説】#10.5 怪奇探偵 白澤探偵事務所|悪夢を見せる蟲|閑話

「野田くん、起きて」
 柔らかい声音で起こされ、のろのろと頭を上げる。時計を見れば、最後に見た時間から十五分ほど進んでいた。少し首が痛いのは無理な姿勢で寝ていたせいだろう。目を瞑ったら眠ってしまうよな、と当然のことに内心笑う。
「はい、体温計。熱計ってみて」
 手渡された体温計を使い、熱を測る。電子音と沈黙。テーブルの上に乗せられたドラッグストアのビニール袋の中には冷却ジェルシートやら氷枕やらお粥のパウチやらが入っている。ここから一番近いドラッグストアまでは歩いてどれくらいだっただろうか。
「平熱は何度?」
「……最後に計ったときは三十六度五分とかだった気がします」
 いつ計ったのかも定かではない数字だ。再び電子音が鳴って計測終了を知らせる。取り出して体温計のディスプレイに表示された体温を見れば、平熱より一度ほど高い。
「微熱だね、病院いく?」
「寝てれば大丈夫だと思います、たぶん」
「わかった、じゃあ解熱剤飲んで休もう」
 ビニール袋の中から解熱剤と水のペットボトルが出てきた。ペットボトルの蓋を開けている間に、ぱきんと錠剤のシートを折る音がする。大人二錠、と言う白澤さんの声を聞きながら、薬を飲んだ。
「あとは部屋で休んでて。私はリビングにいるから、何かあったらケータイでも、直接呼ぶでもしてくれていいから」
 過保護すぎるのではないか、とつい笑ってしまった。実家にいた頃だって病気のときにここまで手厚くされることはなかった。弟妹がいたからというのもあるが、そもそも体調を崩すこと自体が稀だったと思う。
「こういうの、久しぶりです」
「具合悪いのが? ……今までどうしてたの?」
 少しの間は、聞くべきかどうか迷っての間だろう。また気を遣わせてしまった。
「ちょっと具合悪いくらいなら動けるんで……それに、全然風邪とかひかなかったんですけど……何年ぶりかもわかんないです、こういうの」
 一人暮らしのときは、自分の生活を守るために働いていた。長続きしない職場の収入はあまり当てにならず、次の職がすぐに見つかるかもわからない。この生活を続けるためには、働いていないといけないと気を張っていたのだろうと今は思う。
「体温計とかも持ってなくて……熱があるのわかったら具合悪いって思っちゃうじゃないですか、だから計らないまま気のせいにしてました」
「……具合悪いときは休んでいいからね、私はそうしてくれると嬉しい」
「気を付けます、次から」
 お喋りをしているうちに、頭が重たくなってきた。眠気が強すぎるのかもしれない。
 白澤さんに改めて御礼を言ってから部屋に戻った。布団に包まり、ケータイのディスプレイに浮かぶ時間を見ている。もうすぐ十一時になろうとしていた。
 リビングからは白澤さんの足音と、かすかにコーヒーの匂いがする。ひとりではない、と思うだけで気持ちは随分ましになる。気が緩んだから体調を崩したのかもしれないと思うと、どれだけ今の生活に助けられているのかとつい苦笑が漏れた。
 明日、元気になっているために目を瞑る。痛みはない。ベッドメリーのオルゴールも聞こえない。明日のことを考えるのが楽しいというのは、贅沢なことだ。