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【小説】#14 怪奇探偵 白澤探偵事務所|美味しすぎる林檎

あらすじ:久しぶりに白澤探偵事務所を訪ねた丸井の依頼は、妙な噂のある林檎の調査だった。噂が立っては消え、消えてはまた噂になるという林檎の調査のため果樹園に向かう白澤と野田。調査の最中、一人になった野田が見つけた林檎の木は――。

シリーズ1話はこちら https://note.mu/suzume_ho/n/nd6bc9680df73

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 秋というのは案外に雨が多い季節だ、と毎年秋が来るたびに思っている。
 目が覚めて、窓に水滴がついているのに気が付いて窓を開けた。道路は濡れているが、空を見れば晴れ間が出ている。夜の間に雨が降って止んだらしい。開いた窓から風が吹き込んで、体がぶるりと震えた。空気がすっかり冷えてしまっている。あっという間に冬が来るのだろうと思いながら、そっと窓を閉めた。
 パーカーに袖を通しながら、そういえばこの事務所に来てそろそろ一年が経つのだと気が付いた。新宿で迷い、あのよくわからないコインを持つ男に追いかけられたとき、このパーカーを着ていた。もう随分前のような気がするし、思い出せるのだからそんなに遠い日々でもないような気がする。
 今となっては白澤探偵事務所に就職したきっかけというだけの記憶だ。一年も同じ場所で勤められているのは白澤さんが作る環境が良いからだし、自分が誰かの役に立っているとわかって楽しいからだ。働くのは案外嫌いじゃない、と今は思っている。
 今日は何をするんだっけ、と予定を思い出す。そういえば、朝一番に丸井さんが来る予定が入っていたような覚えがある。
 慌てて支度を終え、事務所に降りればちょうど呼び鈴が鳴った。擦りガラスの向こうにあるシルエットを見るに、丸井さんである。出迎えようと玄関へ向かえば、目前で扉がばたりと開いた。
「白澤くん、野田くん! 林檎って好きかい?!」
 丸井さんは、事務所の玄関を開けるなりそう言い放った。
 開口一番に林檎の話で、正直面食らった。丸井さんとは昨年末の忘年パーティで会って以来、時折依頼のために白澤探偵事務所を訪ねてくれる。この間は幽霊ビルの噂を確かめたいから、とビルの調査と顛末をまとめたレポートを書いたからよく覚えている。
「野田くん、林檎好き?」
「嫌いじゃないですけど……特別好きって感じでもないですね」
 応接ソファーに通せば、オーナーが丸井さん用のおやつが乗った盆と、炭酸ジュースを持って現れた。丸井さんが来る日は、ちょっとしたお茶会というか、情報交換を兼ねた雑談をすることが多いらしい。
「私は結構好きですよ、林檎。今回のご依頼は林檎に関係あるものなんですか?」
「そう! ちょっと気になる噂を聞いてさ……」
 丸井さんは炭酸ジュースのペットボトルをオーナーから受け取り、嬉々としてソファーに座り込む。オーナーは丸井さんと向かい合って座り、俺はその隣にかけた。林檎について気になる噂というのは、一体何だろう。
「今回調べて欲しいのは、ここの林檎のことなんだ」
 丸井さんのくたくたのショルダーバッグから、折れ曲がったチラシが一枚出てきた。
 受け取って皺を伸ばしながら内容を読めば、いたって普通のくだもの狩りのチラシで、特に変わった部分は見られない。オーナーも同じように感じたらしく、表面と裏面を流し見て、チラシをテーブルに戻した。
「ここの林檎がね、すごく美味しくて一度食べると忘れられなくなるって噂なんだ」
 今回は怪奇調査の依頼ではなく、お使いの依頼なのだろうか。直接その場所にいけないから代わりに、というのは珍しい依頼でもない。チラシにある住所を見れば、東京からは近いが車を使っての移動が必須になりそうなところにある。丸井さんは季節限定と描かれたおやつを拾い上げながら、話の続きに戻った。
「その噂っていうのがねえ、どうも変わってるんだよ。口コミで話題になったらSNSで話題になったり、テレビが来たりするでしょ? それがね、全然そういうのがないんだ。ちょっと広がったと思ったらすぐに萎んで、また噂が広まるのを繰り返してる」
 オーナーが口元に手を当て、小さく考え込む仕草をした。妙だ、と思ったのかもしれない。俺からすれば、飽きられたんじゃないかとか、口コミを信じて行ったものの期待外れだったんじゃないかとか、そういうことを考えてしまう。
「その林檎にハマった人たちが頻繁に通うようになるとか、ここの近くに引っ越すとかあるらしくてさ。そこまで行くと、誰にも教えたくないって黙っちゃうから噂が鎮まるみたいなんだよね」
「……なんか、ハマるにしては劇的ですね……」
「一家ごと移住とかね、あったらしいんだよ! すごくない? 噂だから本当かどうかは知らないけど」
 林檎が美味しいだけで移住までするものだろうか。しかも誰にも教えたくないと黙ってしまうあたり、独占したいというか、強迫的な部分を感じて少し不気味だ。
「いつごろから出始めた噂か、丸井さんの方ではご存知ですか?」
 いつの間にか、オーナーはタブレット端末で果樹園の場所やそこで取れる林檎の品種を調べ始めている。丸井さんはお菓子をもぐもぐと飲み込み、指先をなめながらしばらく考え込んだ。そっと席を立ち、お手拭きを取ってテーブルに置いておく。
「……噂を聞いたのは七年くらい前だったかな? 今年久しぶりにその林檎の噂を聞いて、あの林檎まだあったんだーと思ったら急に気になってね。林檎自体に人間を寄せる何かがあるのか、それとも果樹園がそういう土地にあるのか、別の何かがあるのか……これは白澤くんにお願いした方が早いなあって!」
 丸井さんはへらりと笑って、お手拭きで両手をしっかり拭いてからしわくちゃの鞄をひっくり返す。分厚いコンビニATMの封筒が転がり出てきて、びくりと体が固まった。現金がごろりと出てくるというのは、少し心臓に悪い。
 オーナーは封筒を受け取り、中身を慣れた手つきで数えていく。この金額の着手金がさっと出てくるのとか、それを数える早さだとかには未だに慣れる気がしない。
「確認できました。では、いつも通りレポートが完成次第ご連絡しますね」
「うん! あとこれは依頼じゃないんだけど、最近面白いことはあった?」
「そうですねえ……」
 依頼の話が終わると、オーナーと丸井さんの雑談が始まる。雑談を兼ねた情報交換であるらしいのだが、怪異の話から飛んでどこそこのとんかつが美味いという話をしている時もあるし、とんかつの話をしていたと思ったらあの辺の路地裏よく境界がねじ曲がっているよねなんて話になっていたりもする。
 二人の会話を聞きながら、一度食べたら忘れられないという林檎がどんなものなのか少し考えてみる。
 丸井さんの言うように、林檎自体に人を寄せる何かがあるのだろうか。土地がそういう性質を持つ、というのはいまいち理解できていない。土地が人を呼ぶのだろうか。それは怪異なのか、元からの性質なのかも曖昧だ。元よりそれを調査するための依頼なのだから、今は何もわからないのは当然のことだけれど。
 とりあえず、調査とはいえ林檎を口にするはやめようと決めていた。林檎が美味しいからというだけで果樹園の近くに移住したひとがいたというのなら、同じ轍を踏まないようにしたほうがいいだろう。何より、ここから別の場所に行くなんて今は考えられない。調べる手段は、オーナーに聞くべきだろうとぼんやり考えていた。

 もうすぐ昼になるから、と事務所を後にした丸井さんを見送ってすぐに果樹園へ行くために車をレンタルする手配をした。本来であれば情報収集をしてから手配をするものだけれど、情報らしい情報が見つからなかったのだ。丸井さんが言っていた以上の情報が見つからない以上、これ以上は直接行った方が早いとオーナーが言っていた。 
 オーナーが見つけられない情報なら、俺が見つけられるはずもない。果樹園の名前で検索をして無害なりんご狩りのブログ記事が引っかかったくらいだ。
 ブログにはたまたまその果樹園を訪れたらしい人々が無邪気に林檎狩りを楽しんだ様子が残っている。そこには忘れられなくなるほど美味いなんて言葉はないし、赤くてつやつやした林檎を持つ小さな手のひらくらいしか映っていない。
「どういう林檎なんでしょうね、食べたら忘れられないって……」
「丸井さんも言っていたけど、人間を寄せる土地もある。何となくそこに行きたい……って思うより、何か理由があったほうが自然に感じるでしょう」
 なるほど、林檎は理由でしかなくて土地がそういう性質ということだろうか。林檎が美味しかったからあそこにまた行こう、という感じであれば不自然に感じない気がする。まさか土地に呼ばれていると思ってそこに行く人はいないだろう。
「そういう土地って、行けばわかるものなんですか?」
「私が調べれば。もし林檎の方に理由があるとしたら、野田くんの目で視てもらった方が早いかもしれないけど」
 普通の林檎とは違うってことだろうから、というオーナーの言葉に何となく頷く。何が視えて何が視えないのか自分ではよくわからないが、オーナーが言うのならそうなのだろう。
「もし見つけたらひとつ取っておいてくれるかな? あ、食べないようにね」
「絶対食べないです、怖いっすよ普通に……」
 そうだねえ、とオーナーは小さく笑う。意味合いが正しく伝わっているとは思わないが、食べる気は一切ないということはわかってもらえたようでよかったのかもしれない。
「私は一応、もう少し調べに行ってくる」
 オーナーは上着を羽織って外出の支度をしている。こういうときは、大体夜まで帰ってこないことが多い。人脈が広いひとだから、恐らくこういう事案に詳しい人に話を聴いたり、情報を求めたりするのだろう。
 わかりましたと返事をして見送り、元々あった仕事に手を付ける。ふと、視界の端に果樹園のチラシが目に留まった。何度見てもただの林檎にしか見えなかった。
 
 翌朝早く、事務所から果樹園に向かった。果樹園は、事務所から二時間ほど車を走らせた場所にあった。一台も車の止まっていない駐車場に車を止め、降りる。
 空が高い。薄い雲が伸びる山は僅かに色づきつつあって、紅葉シーズンであればもう少し人がいるのかもしれない。りんご狩りできます、と書いてある看板は色が剥げ、どこか寂れた印象がある。
 受付を済ませ、りんご狩りのコツなんかの話を聞く。果樹園の人にも特に変わった様子もなく、違和感を感じるというわけでもない。持ち帰り用の小さなバスケットを持たされ、赤い林檎の実る果樹園へ案内された。
「私はちょっと果樹園の人に聞きたいことがあるから、先にいっててくれるかな」
「わかりました。今のうちに視てみます」
「うん、よろしく。後からいくね」
 受付へ戻っていくオーナーを見送り、俺はぐるりと周囲を見渡して目を瞑った。
 何か、違うもの。この場にそぐわないもの。そういうものがこの場にあるのなら、何か視えるかもしれない。真っすぐ前を視る。何も感じない。右へ顔を向ける。ここも、何もない。後ろは受付だから何もないとして、と左を向いた瞬間、ちかりと何かが瞬いたような感覚があった。
 目を開ける。光が瞬いた方向には、背が低い林檎の木が一本生えていた。枝全体に真っ赤な林檎が鈴なりで、他の木に比べて実の数が多いように見える。実も真っ赤で、林檎らしい林檎のかたちをしている。
 この林檎の何が視えたのだろう。そっと近づいてみれば、枝の先が林檎の重さで垂れている。木の下に入ると、林檎に囲まれたような気がしてしまう。赤い実がいっぱいで、少し威圧感すら感じる。
 見つけたら実をひとつ取っておいてほしい、とオーナーに言われていたことを思い出し、林檎に手を伸ばす。実っている林檎を取るのは案外簡単で、実を下から持ち上げてやるようにすると簡単に枝から外れた。
 ぷつりと林檎が枝から離れ、手に残る。瞬間、手首に巻いた石が小さく震えた気がした。百乃さんに貰った石に、オーナーがお守りの効果をつけてくれたものだ。何かを知らせるような震えを疑問に思うより先にぐらりと視界が揺れた。意識が遠のく感覚があって咄嗟に膝をつく。林檎が手から落ちる。転がっていくのが見えるのに、拾うことができない。
 車酔いにしては随分遅い。急に上を向いたから、太陽が眩しかったのだろうか。目の前が白くなり、瞬きをするたびにくらくらと歪んでいる。眩暈ってもしかしてこういう具合なのだろうか。あれって何が原因なんだっけ、と関係ないことを考えているうちにようやく視界が落ち着いてきた。
 そっと立ち上がり、膝についた草を掃う。ぐるりと首を回し、両手を握ったり開いたりを繰り返す。もう視界は揺れない。
 何だったのだろう、と目線を上げれば、ついさっきまで真っ赤だった林檎がすべて青くなっていた。
 思わず、呆然と木を見上げてしまう。眩暈がして膝をついている間に林檎の色が変わるものだろうか。そもそも熟していたものが若返るなんてことがあるのだろうか。実を取る前にオーナーを待つべきだったのかもしれない。
「何か見つかった?」
 背後から声をかけられ、思わずびくりと肩が跳ねた。振り返れば、バスケットを抱えたオーナーが立っている。
「あの、視てみたらこの木がちょっと……他の木と違うみたいで。実を一つ取ったら眩暈がして、眩暈が収まったら林檎の色が変わってて……」
 ついさっき落とした林檎も青に変わっている。拾ってオーナーに差し出せば、俺が渡したそれと木に生るそれを交互に視て、目を細めている。
「オーナーの方は、何かわかりました?」
「うん、せっかくだからひとつ食べてみようかなって」
 何を言っているのだろう、この人は。食べないようにと昨日話したことを忘れているのだろうか。好奇心にしても、どうなるかわからないまま食べるなんて普段のオーナーからすればあまり考えられないことだ。
「君は?」
 いつのまにか、オーナーの手にある林檎はナイフできれいに切られている。ナイフもないし、林檎の皮もどこにも落ちていない。何より、目の前にいるオーナーはさっきから一切俺の名前を呼んでいないと気が付いて一気に血の気が引いた。
 見た目はオーナーと変わらない。今日事務所を出てきたときの恰好をしている。柔らかく微笑みながら差し出された一切れの林檎に小さく首を振った。
「……俺は、あんまり食べる気しないんで……いらないです」
「ふふ、うさぎにすればよかったかな」
 遠慮しなくていいよ、という声音はいつもと同じなのに、明らかに違うものなのだというのがわかりはじめていた。目を瞑る。視てみれば何かわかるかもしれないと思ったのだ。目の前が、眩しい。何かがいる。ここにいてはいけないものの光は、目に刺さるようなそんな光を放っている。
「大丈夫、怖くないから」
「いらないっす」
「平気だよ」
 目を開ける。目前にオーナーにかたちを似せただけの何かが居て、俺の口に林檎を当ててくる。青い匂いがする。振り払おうとするのに、何故かうまく体が動かない。目前にいるそれを睨んでも、薄く微笑んでいるだけだ。このままではまずいというのはわかっていても、打開する術がない。
 どうしたものか、と思考を巡らせる。とりあえず食べなければこの場はしばらく凌げるだろうが、食べないという以外の解決手段がない。オーナーが気が付いてくれればと思うのだが、いつになるかはわからない。
 ちり、と手首についた石がまた震えた。疼くというのが近いかもしれない。目の前にいる何かがふと顔を上げた瞬間、林檎を取り落とした。ぽとりと地面に落ちるのと同時に、また視界が歪む。目の前にいる何かが去って行く足音が聞こえる。姿を確認したいのに視界の殆どが霞んでしまっていて、はっきりものが見えない。
「野田くん!」
 遠くから、オーナーの声が聞こえた。顔を上げる。霞みが少し薄くなる。目を擦ってどうにか立ち上がった。立ち上がってから、徐々に周りがくっきりと見えるようになってきた。近寄ってくるのが本当にオーナーだろうかと少し思ったけれど、それは会えばわかることだ。
「野田くん、平気?」
 まだ視界が落ち着かない。けれどそれより先に確かめたいことがあって、オーナーの方へ足を踏み出した。落ちたはずの林檎は、どこにもなくなっている。瞬きの合間、さっき見た光は目の前にない。
「立ち眩みみたいなのがあって……今は、大丈夫です」
「そう、よかった。あと、林檎の件は事情がわかったよ」
 目前の林檎の木を見上げる。林檎の実は赤に戻っている。さっき見た青い実のことと、オーナーに姿を似せた何かのことがわかるだろうか。
「この林檎、向こう側の品種なんだ」
 境界の向こう側にある品種、ということだろうか。向こう側に関しての情報は詳しくなく、果物があるんだということも今初めて知った。しかし、何でそんなものが境界を越えてここに生えているのだろう。
「果樹園のオーナーさんがあまりみない苗木を見つけて、ちょっと育ててみようか……ってここに植えられたそうでね。誰か、向こう側のものを流通させているひとがいるのかもしれないから、向こう側に報告してきたところ」
「……すごく美味しいんですか、その品種って?」
「いや、普通の林檎だよ。こっち側の人が向こう側のものを食べると、境界の狭間というか……曖昧な場所が見えてしまうことがあって。人間の脳で処理できる情報じゃないから、美味しいって情報にすり替わっているんじゃないかな……」
 そんなものを食べさせられそうになっていたのか、と思うとぞっと背筋に冷たいものが走る。知らずに目の前に立つ林檎の木を見上げていた。
「果樹園のオーナーさんに事情は話したし、向こう側から担当の人が来て植え替えになると思う。これでお仕事はおしまいだから、あとはりんご狩りしてもいいよ」
「あの、その前に確認したいことがあるんすけど……」
 林檎の行く末が決まったことを聞いて、ついさっきあったことを話した。林檎を捥いだら眩暈がしたこと。眩暈が落ち着いて立ち上がったら林檎の色が変わっていて、オーナーの姿をした何かに林檎を食わされそうになったこと。
「オーナーが来たらまた眩暈がして、元に戻ってたんです」
「……食べて欲しかったんだろうね、どうしても」
 オーナーはじっと林檎の木を見上げている。食べさせようとしてきたあのオーナーに似た何かは林檎の木の意思だったのだろうか。今思い出しても、拒否しているのに唇に押し付けられた林檎の感触は恐ろしいものがあった。
「林檎の木からすれば、おいしくできた実なのにあんまり人が来てくれないって残念に思っていたのかもしれない。果樹園は広いし、他にも林檎の木はあるからね……」
「あんなに強引に勧められたら怖いですよ……」
「今までこの林檎を食べた人たちが褒めてくれていたのを聞いていたんだろうな……食べさせたい人が信頼している人の姿を借りるくらい、そんなに難しいことではないから」
 信頼している人の姿を借りてまで食べることを勧めてくるなんて、そこまでして食べられたいと思う感情を持っていたのだろうか。拒絶するのも聞かずに黙って口に押し付けるだけでは怖いだけだから辞めた方がいいと伝えようか迷ったけれど、植え替えがあると言っていたし向こう側に行けば適切に処理されるだろう。こちら側の人を呼び寄せるより、きっとその方がいい。
「……野田くん、眩暈はまだある?」
「いえ、それは大丈夫ですけど……ちょっと怖かったです」
「早めに帰ろうか?」
 俺を気遣うオーナーの言葉に、内心ほっとしている。眩暈や、林檎の色が変わっていることなんかより、オーナーが俺の話を聞いてくれないことのほうがずっと怖かったと思う。
「……せっかくなんでりんご狩ってからにします」
「野田くんがそれでいいならいいけど……」
 オーナーと揃って木に背を向ける。地面に落としていたバスケットを拾い、その場から離れた。普通の林檎でいいのだ。別に、美味いとか、ここでない場所に行くものが欲しいのではない。
 ふと、視界の端に青いりんごが過る。見間違いかもしれない。どうしても持ち帰られたいのかもしれない。それが見えなかったふりをして、赤い林檎に手を伸ばした。