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【小説】#17 怪奇探偵 白澤探偵事務所|さよならを言うぬいぐるみ

あらすじ:梅の花が咲くころ、外出から戻った野田は白澤に見覚えのないぬいぐるみを見せられ、所有物かどうかを尋ねられる。見覚えのないぬいぐるみに自分のものではないと答えるが、そのぬいぐるみが自ら動き出し――。
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 梅の花の匂いがして、思わず立ち止まった。
 オーナーに頼まれたお使いを済ませた後、ちらほらと参拝客のいる花園神社を通り抜けて帰るところだった。境内に白と淡い桃色の梅が咲いていて、つい立ち止まってしまった。
 もう梅が咲くような季節だったのかとぼんやり花を見上げる。風に乗って、微かに甘い匂いがする。甘いといっても蜂蜜みたいな甘ったるさではなく、さっぱりとした匂いだ。
 今まで梅の花の匂いなんて意識したことがなかったなと考えながら見上げていると、俺と同じように梅を見上げてはほうと息をついて通り過ぎていく人がいた。たまたま通りすがった人が、俺と同じようなことを考えているとしたら少し面白いなと思う。後でオーナーにも見せようと写真を一枚撮り、事務所に戻ることにした。

「ただいま戻りました」 
「おかえり。お使いありがとう、助かったよ」
 事務所に戻ると、微かに線香のような香りがする。オーナーが依頼人にお届けするお守りやらお札の準備をしているときによくする香りだ。
 毎月取り換える必要があるお守りやお札は、月末に届くように材料の調達や準備をする。月の半ばをすぎるとこの香りを嗅ぐ機会も増えてくるのだ。同時に、オーナーの手仕事が増えるから俺がお使いを頼まれる回数も増える。今日もまた、そういう種類のお使いだった。
「そうだ、野田くんに聞きたいことがあるんだけど」
 戻ってすぐに悪いねと前置きをしてから、オーナーは応接テーブルを指さした。そこには、見慣れないぬいぐるみがちょこんと座っている。
 頭と胴体は青で、手足は銀の布が使われている。頭頂部には手足と同じ素材でアンテナのようなものが生えていて、黒くて丸い目と、ぽっかりと四角い口が縫われている。小さなロボットを模したぬいぐるみであることは見てわかるが、このぬいぐるみがどうかしたのだろうか。
「これは野田くんの持ち物?」
「いや、俺はこういうのは持ってないっすね」
 オーナーはきょとんとした様子で、小さく首を傾げた。俺もつられて首を傾げる。俺の所有物であるかを尋ねたということは、このぬいぐるみはオーナーの持ち物ではないのだろう。鑑定を依頼された品物の返送は全て終わったはずで、三階の倉庫にある怪しげなものは一通り処分をしたばかりだ。
 誰かが訪ねたあとであれば忘れ物かもしれないと思うこともできたが、このところ事務所に来た客人は掛け時計の依頼人と、雑談に寄ってくれた丸井さんくらいで、このぬいぐるみがいつ、どこから現れたものかはっきりしない。
 もう一度ぬいぐるみ自体を見つめてみる。どこも変わったところのない、普通のぬいぐるみである。しいて言えば、少し汚れが強いだろうか。特に足は布が薄くなっていて、綿が透けている。
「……視てみます?」
 オーナーに小声で提案した瞬間、テーブルに座っていたぬいぐるみがぴょこんと立ち上がった。思わずオーナーを見る。オーナーはぬいぐるみをじっと見つめている。もう一度ぬいぐるみを見ると、心なしか頭を持ち上げてこちらを見上げていた。
「……ここはあ、怪奇探偵さん、ですか?」
 か細く、小さな声だ。どこから声が聞こえたのか、部屋の中をぐるりと見渡す。俺とオーナー以外にひとは居らず、音を出しそうなものはない。
「ええ、そうです」
 オーナーは応接テーブルに立ち上がったぬいぐるみへ向けて穏やかに話しかける。ぬいぐるみは自分の頭に生えたアンテナをくるりと回し、オーナーの方を見てこくこくと頷いた。ぬいぐるみが喋ったという事実に唖然とする俺を置いて、二人は当然というように会話をしている。
「お願いが、あります。ぼくはもう、ぬいぐるみをおしまいに、したいです」

 ぬいぐるみのロボットは、オーナーの手の中にすっぽりと収まっている。そのまま耳元に寄せ、オーナーはこのぬいぐるみがどうして白澤探偵事務所に来たのかという事情を聴いてくれている。俺は二人が話し終わるのをじっと待っていた。
 オーナーが耳元に当てていたぬいぐるみをテーブルに降ろす。ロボットはテーブルの上にぴょこんと立ち上がり、再び俺たちのほうを見上げた。ぬいぐるみの顔は変わらず、表情から感情を窺うことはできない。
「野田くん、事情がわかったよ」
「……依頼ってことでいいんすかね?」
「そうだね。少し特殊な依頼だけど、いつもの依頼とさほど変わらない」
 オーナーは応接ソファーに腰を下ろし、ぐるりと首を回した。ずっと同じ姿勢でぬいぐるみの話を聞いていたから、肩が凝ったのかもしれない。後でちょっと揉んであげよう、と気に留めておいて、依頼についての話を聞くことにした。
 曰く、このぬいぐるみは自分の意志のある無機物――前回の掛け時計と同じようなものであるらしい。人に大切にされたもの、愛されたものというのは自我を持ちやすいらしく、特に人間がきっかけになりやすいのだという。もちろん全てがそうではないけれど、とオーナーは念を押すように言った。
「依頼としては、活動の停止だね。今は自我を得て活動している状態だから、それを停止して活動終了状態にする。生命が宿った器ではないから終了するのと同時に意識は消えてしまうけれど……」
 ぬいぐるみはオーナーの言うことに対して、うんうんと頭全体を振って頷いている。そうです、それであっています、とばかりの同意の様子が少し可笑しいが、活動終了とか、意志が消えてしまうとかいう言葉に少し引っかかりを覚えた。
「それは……ええと、死ぬってことです?」
「死とは違うかな。うまく伝わるかわからないけど、電源をつけたまま放っておかれたおもちゃ、という状態が近いと思う。おもちゃ自身がもう疲れてしまったから、私に電源を切って欲しい、という感じなんだ」
 なるほど、それでぬいぐるみをおしまいにしたい、とぬいぐるみ自身が言ったのか。一度眠りたいみたいな感じだろうか。正しく理解できているかはわからないけれど、何を目的にした依頼かは理解できた。
「元々の持ち主とは随分昔に別れてしまったようだ。最初のうちは自分で動くこともできなくて、落とし物として届けられたり、間違えて持ち帰られたりしながら色々な場所を転々として……」
「楽しかったです、よ」
 ぬいぐるみが俺を見上げてぽつりと呟いた。黒い円で象られた目を見る。瞬きもしないし、喋っているのに口も動かない。体全体を震わすように喋るから、アンテナがふらふらと揺れている。
「自分で歩けるように、なってからは、いろんなところにいきました。ときどき、こどもに拾われたりして……でも、あの子はどこにもいなかったんですよ、ねえ」
 ぽつり、ぽつりと零れる言葉に、どこか寂し気な空気が混じる。あの子、というのは元の持ち主だろうか。愛情を受けた、大切にされたものが自我を得るのだとしたら、持ち主から離れたこのぬいぐるみはどれだけひとりで居たのだろう。いつかまた出会えると思っていたのだろうか。
「あの子が、いないのに……どうして、ぼくだけ、ここにいるんだろうと困っていたら、新宿の怪奇探偵のところにいけと、話を聞いて」
 オーナーはこくりと頷き、穏やかに微笑む。俺には、その表情が力になる、助けになる、というのを伝えようとしているのだとわかる。ぬいぐるみにとってはどうだろうか。こちらを見上げたりしている以上、目が見えているとは思うのだが、伝わっているだろうか。
「怪奇探偵さんは、ぼくがぬいぐるみであることを、終わりにできますか?」
「ええ、できますよ」
「ぜひ、おねがいします! これであの子に会いにいける!」
 ロボットは両手を挙げて、テーブルの上をくるりと一周回った。喜んでいる、らしい。
「私は支度をしてくる。野田くんは、この子を洗ってあげてくれるかな」
「あ、はい」
 オーナーにぬいぐるみを手渡される。ぬいぐるみは、俺の手の中にくったりと収まっている。基本的にはあまり自分から動かず、じっとしているものらしい。手のひらをじっと見つめていたら、ロボットが小さく頭をもたげて俺を見上げた。
「……よろしく、お願いします」
 手のひらに収まったぬいぐるみに向かって小さく呟くと、アンテナがくるりと回る。了承の返事と見て、そのまま二階の洗面台へ向かった。

 洗面台にお湯を貯めながら、じっと手元のぬいぐるみを観察している。よく見れば、青い布の一部は似た色の別の素材が使われていたり、手足を繋いだあとがあったりと誰かの手で繕われたらしい跡がある。人の手を渡って転々としてきたというのがわかって、つい扱う手が慎重になってしまう。
「触られて痛いとか、熱いとか……そういうのはあります?」
「いいえ、ぼくは、ぬいぐるみなので。こどもに投げられたって、平気ですから」
 ロボットは体を揺らしてくすくす笑う。確かに、子供が相手なら多少ごしごしと洗われるくらいは大したことがないかもしれない。さすがに大人の力で扱ったら布が裂けてしまいそうだから、俺が扱うときは注意しておいたほうがいいだろう。
 片手にぬいぐるみを持ち、もう片方の手に持ったケータイでぬいぐるみの洗い方を調べる。お湯で汚れを取り、衣料用洗剤で洗い、よく濯いでからタオルでしっかり水気を取って、と手順を確認している間、ロボットはじっと洗面台に貯まっていく水面を見つめている。揺れる水面を見て何を考えているのかは、わからない。
「じゃあ、洗いますけど……何か違和感があるとか、しんどいとかあったら教えてください。すぐに手を止めるんで」
「わかりました。ふふふ、お洗濯されるのはもう何度目だっけ……人生って、いろいろあるなって思いますよ。ぬいぐるみの人生だから、ぬい生かな?」
 くすくす笑うたびにアンテナがくるくる回る。お湯につけますよ、と声をかけてぬいぐるみを湯の中に沈める。基本は押し洗い、とさっき調べたときに見かけた。お湯の中で揉むようにしていくと、徐々にお湯の色が濁っていく。最後に人の手で洗われたのはいつなのだろう。ぬいぐるみを洗うなんてはじめてで、これが普通なのかどうかもわからないまま何度か湯を取り換えながら汚れを落としていく。
「君はむかし、ぼくみたいなお友達はいた?」
「……あんまり覚えてないっす」
 お湯の中でぎゅうぎゅうと洗われている最中だというのに、ぬいぐるみの声は思ったよりはっきり耳に届いた。そもそもこれは声なのだろうか。音だと思い込んでいるだけで、直接思念が脳に届いているのかもしれない。
 実際のところ、自分はぬいぐるみを大切にしているような子供ではなかったと思う。妹はへちゃむくれの犬だかうさぎみたいなぬいぐるみを大事にしていたような覚えがあるが、あのぬいぐるみをいつから見かけなくなったのかも思い出せない。何をしていて遊んでいたかも曖昧だ。爪の先ほどのアマガエルを捕まえて、たらいに集めたら怒られたのは覚えている。
「そうかあ。うん、そうだよね。忘れても、いいんだけど、大事にしてあげるとね……いいことがあるよ、きっと、たぶん……」
 声は段々ふにゃふにゃと弱くなり、掠れるように消えた。そのあとのぬいぐるみは一言も喋らず、俺もぬいぐるみを洗うのに忙しくなって黙り込んだ。
 手だけを動かしながら、ぼんやり考える。元の持ち主の手を離れて、いろんなひとの手を渡ってきたことを楽しいと言っていた。それを終わりにすればあの子に会えるのだとも。本当に会えるのだろうか。ぬいぐるみを終わりにすることでしか会えないのだろうか。何となくもやもやとした感情を抱えながら、洗濯機の脱水から帰ってきたぬいぐるみをふとん乾燥機に横たえた。

 乾燥機に入れることしばらく、日が沈んだ頃にようやく水気がなくなった。もしかしたら中に入っている綿なんかはまだ湿っているかもしれないが、さほど問題ではないだろう。何より、布団乾燥機の中でごろごろしていたロボットからもう大丈夫と声をかけられたのだから、依頼人の準備ができたのなら次の工程に進むのが一番良い。
「オーナー、お洗濯できました」
「ありがとう。では、準備はいいですか?」
「はい! こんなに、よくしてくれて。ありがとうございました」
 ぼくはきっと忘れないです、という声音は弾んでいる。オーナーはぬいぐるみを持ち、応接テーブルの上に広げた紙の上に座らせる。それはお守りや札を作るときに使う特殊な紙で、今日はそれに見慣れない模様が描かれていた。テーブルの上には、他にも銀色の大ぶりな鋏も乗っている。これは事務所でも初めて見たもので、思わずじっと見つめてしまう。一体何に使う鋏なのだろう。
「野田くんはここを視ていてくれるかな。光がちゃんと昇るかどうか、私ではわからないから」
「了解す」
 オーナーはぬいぐるみの頭の上あたりをくるくると指さしている。視るのは俺の仕事だと目を瞑れば、確かにオーナーが指した部分にふんわりとた丸い光が灯っている。どこかあたたかく、さみしいような光に感じた。
「それじゃ、いきますね」
「本当に、ありがとう。じゃあね、さよなら」
 柔らかな会話が終わり、しゃきん、と鋏が何かを切る音がした。瞬間、丸い光がふわりと浮かびあがり、上昇しながら膨らんでいく。風船のような、シャボン玉のような感じだ。光は天井のあたりでぱちんと弾けて消える。弾ける瞬間、ぱっと周囲が明るくなったように感じた。
 目を開ける。紙の上に座っていたはずのぬいぐるみはぺしゃりと倒れ、天井を見上げたまま微動だにしない。ちらとオーナーを見れば、銀の鋏をしまうところだった。
「光はちゃんと昇っていったかい?」
「あ、はい。天井のあたりで膨れて、弾けるみたいに消えて……」
 オーナーはほっとした様子で息を吐いた。どうやら、オーナーは光がちゃんと昇ることが気がかりだったらしい。光が昇っていくことに何の意味があるのかわからないまま、オーナーが応接テーブルに用意したものを片付けていくのを眺めている。
「ただ自我を終わらせてやるだけだと、意識が消失するだけなんだ。元の持ち主と同じ場所に着くように少し細工をしたんだけれど、うまくいってよかった」
「……できるもんなんですね、そういうの」
「寂しがっていたからね。未練はないほうがいい」
 オーナーは動かなくなったぬいぐるみを拾い上げる。もうこのぬいぐるみは自分で動くこともないし、喋りもしない。ついさっきまでそこに居たのに、と思うと僅かな寂しさがあった。同時に、あの子に会えるのだろうかということが気になった。
「……会えるんですかね?」
「さあ、それは私もわからないけど……会えるといいね」
 オーナーはぬいぐるみを持って二階へ消える。気が付けば終業時間を過ぎていたようだった。
 タイムカードを切らなくては、と思いながらもぼんやりと光が消えたあたりを見上げてしまう。会えるだろうか。それとももう会えたのだろうか。確かめることができないから知りようがないことではあるけれど、あの子の腕に抱かれるあのぬいぐるみはきっと喜んでいると思う。
 点けっぱなしのパソコンを落とそうとシャットダウンを選択すると、ファイルの保存がされていないから終了ができないとメッセージが出てきた。うっかりファイルを閉じ忘れていたらしい。ファイル名をつけるためにシャットダウンを中断し、キーボードを叩く。
 かちゃかちゃとキーボードを叩く音だけが事務所に響いている。ひとりだ、と思うと少し背中が冷たいような感覚に陥るのはなぜなのだろう。二階にオーナーが居るとわかっていても、ここには俺しかいないからだろうか。居るとわかっていても、姿が見えないと何となく物寂しいような気がする。
 ぬいぐるみをおしまいにしたいといった気持ちが少しわかったような気がして、シャットダウン画面の途中で席を立ち、事務所の明かりを落とす。早足に階段を登り、明かりの漏れる二階へ引き上げた。