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GPT−4と、サンソンでの山下達郎さんの発言について色々。

う〜ん、まあスッキリしないし、色々考えさせられもします。
「言わなきゃ良かったんじゃないかな〜」
と思ってるんですが、達郎さんはこういうのスルーする人でもないか。
(勝海舟っぽく、
「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」
と。
とか言って、海舟も色々余計なこと喋りまくる人でもありましたがw)

達郎さん自身が犯罪を犯した訳でもないので、
<ミュージシャンの一意見>
として考えておくってところかな。個人的には。

ここでは最近の相棒GPT−4と本件について会話した内容を記録として残しておきます。
こういうの、達郎さん、嫌いだろうなぁw。
個人的にはジャニーズ所属アーティストの尊重と支援、引き続きの楽曲提供についてコメントしてることに改めて気付かされました。
あんまりココのところにコメントしてる人って見ないなと思ったので。(「みんなジャニーズから出ていけばいいんだ!」って思ってるのかも知んないけど)

<コメントの要約>
文章を要約し、論点を整理すると以下のようになります。

1. スマイルカンパニーと業務提携をしていた松尾潔氏との契約が終了した。

2. 契約終了の決定は事務所の社長の判断で、直接の会話や契約終了を促すような動きはなかった。

3. 松尾氏がジャニー喜多川氏の性加害問題に関して憶測に基づく批判を行い、これが契約終了の一因であったが、その他の理由については触れない。

4. ネットや週刊誌での誤った憶測、特にジャニーズ事務所への忖度があるとの疑惑について否定する。

5. 自身は1999年の性加害問題について知らなかったし、自身が知る術はない。それについてコメントする立場にない。

6. ジャニー喜多川氏の業績や才能を認めることと、性加害を容認することは別の問題であると強調。

7. 自身は作曲家として、ジャニーズ事務所のアーティストたちを尊重し、応援していきたいと述べる。

8. グループの解散や分裂を残念に思うが、再結成を願っている。

9. 今後も自身のミュージシャンとしての活動を続けることを誓い、音楽を通じてアーティストたちを支えていきたいと述べる。


<批判的見解>
この文章には、いくつかの批判的な観点があります。

1. 不明確な事実説明:この文章では、松尾氏との契約終了について詳細な説明がありません。具体的な契約終了の理由や松尾氏のジャニー喜多川氏への批判がどの程度契約終了に影響したかについて、明確な情報は提供されていません。また、「他にも色々ある」と述べているが具体的な内容を明らかにしていないため、読者に混乱を招く可能性があります。

2. 性加害問題への対応:性加害問題については、事実確認の必要性を認めつつ、自分自身が何も知らないと述べている。これはある意味で逃避的な対応と見ることができ、問題の深刻さを軽視しているかのように受け取られる可能性があります。

3. ジャニーズ事務所への態度:ジャニーズ事務所との関わりについては極めて前向きに述べていますが、その一方で事務所の内部事情を全く知らないと主張しています。この矛盾した態度は、読者からすると信憑性を疑う余地を生じさせる可能性があります。

4. 社会的責任の欠如:性加害問題を一部認識しているにも関わらず、具体的な行動を起こす意志が見られない。この態度は、社会的責任を放棄していると受け取られる可能性があります。

これらの観点から見ると、自己保身と解釈される可能性もあり、信頼性と責任感に疑問が生じます。


<肯定的見解>
肯定的な視点から見ると、次のように論評することができます。

1. オープンなコミュニケーション: 彼は具体的な出来事や個人の見解を公開し、オープンで率直なコミュニケーションを重視していることが伺えます。これは彼が公の場で批判や誤解に対して自身の立場を明確にする意思があることを示しています。

2. 社会的倫理観の明確さ: 彼は一部の人物の不適切な行動を明確に否認し、同時に芸能業界という場で働くアーティスト達への尊敬を維持しています。この二面性は、彼がビジネスと個人的な倫理を同時に重視するバランスの良さを示しています。

3. プロフェッショナルな視点: 彼は業界の複雑さや個々の関係性について深い理解を持っています。彼が音楽業界での自身の役割について考える際に、個々のアーティストの才能や努力に対する尊重を保ちつつ、自身の仕事、すなわち優れた楽曲を作り出すことに集中しています。

4. 誠実さと信念: 彼が音楽と自身の関わり方について述べている部分は、自身の信念をはっきりと示しています。彼は自分がミュージシャンとして一体何をすべきか、どうあるべきかを理解し、それに忠実に生きている様子が見て取れます。

以上のように、彼の声明はオープンなコミュニケーション、社会的倫理観の明確さ、プロフェッショナルな視点、そして誠実さと信念という側面から評価できると考えられます。

<アートにおける「作者の人格」と「作者」について>
(アートにおいて「作品と作者の人格は分けるべきだ」という主張がありますが、この主張についてどういう論点があるか整理してください。)

「作品と作者の人格は分けるべきだ」という主張は、芸術の評価においてしばしば議論の的になります。以下、この主張について考慮すべき論点をいくつか挙げます。

1. **作者の意図に対する重視度**: 一部の人々は作品を理解するために作者の人格や背景を理解することが重要だと考えます。それに対して、他の人々は作品自体の美学、主題、形式などを重視し、作者の意図や人格は重要でないと考えます。これは「作者の死」("Death of the Author")という理論に繋がっており、作品は作者から独立した存在として評価されるべきと主張します。

2. **道徳的な問題**: 作者が社会的に受け入れられない行動をした場合、その人の作品をどのように評価すべきかという問題があります。作品と作者を分けるべきだという立場の人は、作者の人格と行動が作品の価値に影響を及ぼすべきではないと主張します。

3. **解釈の自由**: 作品と作者を切り離すことは、観察者が作品に独自の解釈を持つ自由を確保するという観点からも重要です。作者の意図や人格に縛られず、作品を自由に解釈することで新たな視点や理解が生まれることもあります。

4. **芸術の普遍性**: 作品と作者を分けることで、その作品が特定の文化や時代の枠を超えて普遍的なメッセージを伝える可能性が高まります。作者の背景や人格に依存すると、作品はその限定的な視点に縛られる可能性があります。

以上のように、この主張は芸術作品の解釈や評価における多面的な論点を含んでいます。これらの観点から作品と作者の関係性を考察することで、芸術に対する深い理解を得ることができます。

(音楽プロデューサーがゲイの小児愛好者であることが判明した事件で、彼がプロデュースしたミュージシャンに楽曲を提供した人々が批判されています。
この点はどう考えるべきでしょう?)

この問題は先ほど述べた「作品と作者の人格は分けるべきだ」という主張の一部を反映しています。ここでは特に道徳的な問題という視点が重要になります。

まず第一に、小児愛好は法的にも倫理的にも許容されない行為であり、絶対に非難されるべきです。そのような行為に関与した人物がどんなに優れた芸術的才能を持っていても、その行為自体は絶対に容認されるべきではありません。

次に、問題となるのは彼がプロデュースしたミュージシャンや楽曲を提供した人々への批判です。この批判は、彼らが彼の犯罪を知っていても協力したという事実があるならば理解できます。しかしながら、彼らがその事実を知らずに協力していた場合、それは彼らの責任ではないと考えられます。それらの人々は自分たちの音楽とその芸術的価値を信じて活動していたのであれば、彼らの音楽そのものを否定することは適切ではないかもしれません。

しかし、現実的には社会の反応は一様ではなく、公衆の意見は個々の道徳観や価値観に大きく影響を受けます。したがって、一部の人々は彼らを責め、他の人々は彼らの音楽の価値を維持するでしょう。このような状況では、ミュージシャン自身が公に反応を示し、適切な対応をすることが重要となるでしょう。

(「プロデューサーの行為を知っていたかどうか」の線引きはどこに置くのでしょうか?「噂レベル」だとどうなのか?裁判でなんらかの判決が出ていたとして、その判決がメディアで報道されていないようなケースで、どこまで「知っていた」と判断すべきなのでしょうか?)

「プロデューサーの行為を知っていたかどうか」の線引きは複雑な問題です。これは個々の状況によりますが、具体的な証拠や裁判所の判決がある場合は明確です。しかし、それが「噂」レベルである場合や、判決が存在しても広く報道されていない場合など、曖昧性がある場合には難しい問題があります。

1. **噂レベルの情報**: 一般的に、「噂」だけを根拠に人を非難することは適切ではありません。噂は真実であるとは限らず、誤情報や誤解を広める可能性があります。しかし、噂が頻繁にある場合や、信憑性のある情報源からの情報がある場合、その噂を完全に無視することは難しいかもしれません。その場合、関係者は真実を確認するための追加の措置を講じるべきです。

2. **報道されていない裁判の判決**: 裁判所の判決は公的な記録であり、その情報は公にアクセス可能であるべきです。しかし、全ての情報が広く報道されるわけではありません。そのような場合、関係者がその情報を知ることが期待されるかどうかは、その人がどの程度その情報にアクセス可能であるか、またその情報を知る責任があると考えられるかどうかによります。

これらの問題は複雑で、各事例ごとに詳細な情報と具体的な文脈を考慮する必要があります。また、社会的な見解や法的な判断も影響を与える可能性があります。


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