見出し画像

(できるだけバカバカしく)踊ることにしました





毎日、夜な夜な踊りを踊っている人のエッセイを読んだ。
(文學界9月号のエッセイだったと思うけど結局見つけられなかった)


全然、ダンスとか踊りとか習ったことのない人が、適当に音楽を流して、腕やら足やらをバタバタさせるだけの、素人丸出しの踊りだ。

きっと、本人が踊りだと主張しているだけで、側から見たら狂った人間が手足をバタバタさせているようにしか見えないだろう。

その人は(いやマジで原文探したんだけど見つけられなかったんだよな…)とにかく毎日踊ることにして、踊ってみたらばなかなか精神も前向きになったような気がして、それが習慣になったという。自宅で。出張先のホテルで。とにかく適当にお気に入りの音楽を流して、それに合わせて即興で踊るのだという。がむしゃらに、一生懸命踊る。

すると、ちょっと心が晴れたような気持ちになると。



このエッセイを読んで僕は2つのことを思い知った。


ひとつは、どんなに馬鹿馬鹿しいエッセイでも、人に大きな影響を与える可能性を残しているということ。そしてもうひとつは、踊りというのは、プロじゃなくても、踊ってもいいのだということだ。


それから僕も踊るようになった。


同棲している彼女が正面に座っていようが、夜寝る前だろうが、台所だろうが、風呂場だろうが、踊りたければ、踊る。

「人は踊りたい時に踊っていい」というのは僕にとって青天の霹靂であり、本当に新しい世界だった。僕自身、踊りなんか習ったことはないし、知識も経験も何もない。それでも、(エッセイの人のように)音楽に合わせて好きに、自由に手足をバタバタさせることはできる。
これが、実に面白い。
大袈裟にいえば、魂を解放している感じがする。

精神と肉体的アウトプットが究極までダイレクトに接続されていて、ピュンピュン!って感じがするのだ。


それは、辛いから日記を書くとか、ムカつくから叫ぶとか、それよりもさらに野生的な、それでいて実に人間的なアウトプットだ。


今日は彼女が体調悪くて、「ごめんもう寝るね」みたいな感じで自室に入っていったから、音楽もかけられないし、バタバタ音を立てたら悪いなと思ったので略式で済ませた。もうほんと、3秒くらい。
阿波踊りみたいな感じで、両足をパタパタしながら、両腕を空中にやって、両手の平をひらひらと「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか」って具合に。高速で。それで3秒でスッと止めたのね。

そしたらなんだか面白くなってきちゃって、一人でプークスクスって笑ってたのね。彼女は体調悪くて可哀想なんだけど、その一方で、なんとか略式で踊りを済ませようとしている俺ってなんだろうね、みたいな感じで笑いが込み上げてきた。


映画「PERFECT DAYS」

こないだ観た役所広司主演の映画「PERFECT DAYS」で、公園のホームレスが謎の踊りを踊るシーンがあったんだけど、ああやって即興で場からインスピレーションを受けて踊るのってすごいよなーって思って、田中泯とか丁度あんな感じだよなーって思ってたら、よく見たら田中泯だったよ(笑)
えっ?あれすごいちょい役だけど田中泯だよね?って思ってわざわざパンフレット見たらマジで田中泯だった。


2022年の美術手帖のインタビューでも言ってたけど、田中泯の踊りってすごくプリミティブで、日本舞踊のように型があるわけでもないし、音楽に合わせて踊るんでもない。もっと極めて原始的で、その場限りのインスタレーション的な行為なんだよな。

その場と一期一会のセッションみたいな。短歌みたいなもんなんだろうか。今で言うとツイート(ポスト)って感じなのかな。



まぁ、とにかく最近は踊ってるよ。
ちょっとでも興味がある人は絶対踊ったほうがいいと思う。すごく救われる感じがする。バカバカしくて、ちょっぴり恥ずかしくて情けなくて、それゆえに子供の頃の自分が表面に浮かび上がってきて、救われるんだ。

僕は今日も、踊っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?