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踊ることって何だろうー世界舞踏史序説

大学の今年のゼミは踊ることについて哲学的、比較文学的に考えることにしているのだけれど、授業の草稿、ラフスケッチ的なものを、少し。

ちょっと自分語り。踊ること、ファッション、魅せること。そんなこととは三十半ばまで無縁に過ごしてきた。ファッションは中高生のころ憧れた。でも、パリコレのような服をどうやってコーディネートに生かしていいのかまるで謎だった。中高生の頃はとにかく貧乏で、お昼ご飯も食べられなかった。服なぞ贅沢品は買えなかったのである。大学に入りバイトしてからは、裏原なぞを緊張しながら巡り歩いて、高い洋服を買い始めた。ポールスミスやゴルチエなんかをマルイで買ったり、ビームズ、ネペンテンス(だったかな?)の服を着てみたり。そして大学4年の頃、憧れのパリの古着屋をまわって、ゴルチエの本店に行ってカルチャーショックを受ける。絶対敵わないじゃん、似合いすぎこいつら。。。

そこから外見で魅せることは諦めた。踊ることはまるで知らなかった。それは軟派なミーハーのものだと思っていた。僕は中身勝負、知性勝負、そこで負けないように、と。

というわけで、フランスの大学で彼らの専売特許であり、奴等の自信の源であるフランス文学、フランス哲学を勉強し、博士号をとり、そんじょそこらのフランス人とフランス語で議論したって負けないぞ、くらいにはなり、名のあるフランスの出版社から博論を出版させてもらい、35歳くらいで何となくの「中身」を作ることができたと思っていた(無論、そんな思考方法自体が、「中身がない」ことに気づくのにあと数年ほど要するのだけれど)。

博士論文の準備中に友人に誘われてタンゴを始めた。タンゴを踊ることは単なる趣味だった。研究を効率よく遂行するための単なる気晴らし。まさかプロになるとは思ってもみなかった。踊ること、それはファッション同様、皮相な外見にとらわれることで、本質的ではない、と思っていた。単なる外見なに関すること、つまり、中身のないカッコつけ、若者の底の浅い趣味、くだらない自己愛の表出、気取りと自己満足。

しかしタンゴにハマるにつれ、自分の身体から、深い快楽と原始の叫びのようなものを感じるようになっていった。当時はそれが何なのかまるでわからなかった。幸いにして、博士論文を終えた後、僕はどっぷりとタンゴにはまっていた。

世界舞踏史などというものはその時まるで知らなかったが、ものの本を何冊か読んでみて謎は解けた。ダンスとは、舞踏とは何か?それは太古からある芸術、他者の身体と混交することによるトランス状態。あらゆる文化の古層に位置する、世界との交わり方の型。これは皮相なものなどでは決してない。むしろ、最も深いものなのではないか。最も人間らしく、最も動物らしく、最も感動的な何かなのではないか。

ダンスとは、この古層への旅である。歴史を何万年も遡り、太古のコミュニケーションを想い出すこと。世界舞踏史の面白さの一つはそこにある。

踊ることは、単なる趣味のひとつで、人間存在にとって枝葉末節、まるで大事なものだとは思っていなかった。

だが、タンゴを本気で踊り出して自分の身体が、僕にメッセージを発してきた。これは、ヤバい。自分の存在の本質に触れる何かだ、と思った、音楽とともに、感情とともに、相手と踊ること。自分だけでなく、相手のことを考えながら、音楽に身を任せ、音の中に溶けること。うまく踊れた時の快感と満足感、孤独感も連帯感の不思議なバランスは、僕にとって思考に値する何かだった。人生を賭けて解き明かすべき秘密がそこにあるような気がした。

踊ること。それは人間にとってかくもナチュラルで、かくも嬉しく悲しいことである。有史以来、いやマイナーで儚い哺乳類の一種であった時から、ヒトは踊ってきた。


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