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思い出のユリ マイプレティ

小学生の時に家の玄関のところで一人で遊んでいた時に、となりのお父さんがユリを持ってやってきた。これ、父ちゃんに渡してくれ。と頼まれた。
まだ、蕾のスカシユリ。
このユリが家の仏壇で綺麗に咲いていたのをとても鮮明に覚えています。

18で高卒で僕は東京へ上京して、調理場へ入りました。農業大学校に行ってこいと農協の人も来て説得してくれたし、両親もその道を望んでいたのは知っていましたが僕自身、農業 花作りに魅力を感じなかったのです。
両親の姿を見てとても大変なことは肌に沁みつくほど子供なりに感じて生きてきたので。

それから縁あって、それから2年後の春にユリ農家になりました。21歳の時でした。堀之内町農業協同組合の月刊で発行されていた冊子に新規就農者紹介でその年の秋に紹介してもらえました。
『マイプレティのようなユリを作りたいと思った気持ちを道しるべに頑張りたい』そう書きました。その時はすでにそのユリの生産は終わっていて時代は地元農家育種の時代からオランダから来る輸入球根の時代へと大きく姿を変えようとする時代の入り口でした。

みんなが球根を作って販売していましたし、自分で育てた球根で切り花をしていました。育種をして自分のユリを作り上げようとする人たちも多くいましたし露地栽培による季咲きの作型で早い品種 遅い品種 強い品種 美しい品種 多くのユリが育種されて栽培されていました。金杯 サマーキング 紅の舞 僕自身も球根を育て切り花をする時代の終わりころに花農家になりました。

あれから26年。そのユリが今でも品種保持されて残っているという話を森山英昭さんに聞き、普及センター和田さんから連絡をとってもらい新潟県の聖篭町にある新潟県園芸研究センターで今ちょうど咲いているということで今日行ってきました。

小学生の時に玄関で受け取った時以来。
そのユリは私の家の左となり。私の家の本家のお父さん 鈴木和太郎が育種した世界初のピンクのユリ マイプレティ。

あれから40年弱の月日が流れて再会したマイプレティは
見事に咲き誇っていました。
これが私のユリ作り ルーツのユリです。


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