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人はそれぞれ、自分の星空を持っている

人はそれぞれ、自分の星空を持っている(もちろん、比喩だ)。

臨床心理学者の河合隼雄先生が京大の最終講義で「コンステレーション」という世界の捉え方について話をしていた。それを聞いて、あぁなるほどなと思ったわたし。すごく色々なことが腑に落ちた。

グーグル翻訳で Constellation を調べると「星座」と出てくる。まさにその通りで間違いではないのだけど、ここでいうコンステレーションは微妙に意味合いが異なってくる。

(以下、門外漢の自分が勝手に理解・解釈したことを書くので、河合隼雄先生が言うところの「コンステレーション」とは意味が異なる可能性が高いです。気になる方は、下記の本にその内容が出てくるので、こちらをおすすめします)

夜の空を見ていると、星が無数にまたたいている。その星をつないでいくと、星座ができる。では、星と星の間をつなぐ意味はなんだろうか。

わたしたちは小さい頃から、あれがオリオンだよ、北斗七星だよ。と教えられている。なので、夜空を見上げて星座を認識することができる。けれど、何も教わっていなければ、たぶん星座なんてものは見えてこないだろう。
もし何も教わらずに星座が見えたとしても、それは人それぞれ、見る人によって異なる星座になるはずだ。

それでは、星座とは一体なんなのかといえば、「星と星の間に関係(意味)を持たせたもの」と言える。漠然と無数の星が無秩序に瞬いているところに、関係をつくっていく。すると星座ができる。わたしたちは空を見上げて、それを読む。

これを人におきかえてみる。
誰かと知り合うと、自分の空には星が増える。その星が自分に近ければ一緒に星座を作るし、遠くても銀河を構成する仲間になる。そうして作ってきた自分なりの星図に、ある日、子どもが産まれる。

するとどうだろう。
いままで作ってきた星座の意味が全て変わってくるのだ。

子どもを迎える前、わたしとパートナーは2つの星で作られた「こいぬ座」だった。その間に娘が生まれた。するとわたしたちの星座は「オリオン座」に変わってしまった。オリオンの三ツ星だ!
 
わたしたちが「こいぬ座」だった時、ちかくには「一角獣」や「かに」や「うみへび」がいた。でも、「オリオン座」に変わったいまは「うさぎ」や「うし」が近くにいる。
 
子どもが生まれるということはそれほど大きな変化なのだ。娘が生まれてからの3年で、わたしの星図は大きく様変わりした。暮らしを変えるのに苦労したこともこの捉え方をするとうなずける。そりゃ大変だ。星座が変わってるんだから。

こうして世界を捉えれば、関係性のなかで生きる自分というものをキャッチできるような気がする。

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また、河合隼雄先生は最終講義のなかでこんなこともおっしゃっていた。

いまは、因果関係のなかに「わたし」がはいっていない。と。

人は、本当は自分自身が星座の一部分であるのにも関わらず、さも星座のなかに自分はいないように振舞ってしまうことがある。
 
たとえばつまらない飲み会があったとして、集まったメンツに問題があると思ってしまったとする。あの人が帰ったらいい、とか、あの人が来ればいい。とか思っている自分は、なぜかその宴会のメンバーではないように振舞って考えている。
 
でも、もしかしたら、いまいる飲み会のメンバーの一人である自分が楽しく振舞えば、その星座は急に明るく振舞いだすかもしれない。
 
「因果関係に自分を含めること」。これは意識していたいなと思う。
 
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また、たとえばいま、「変えたい自分がいる」とする。コンステレーションを考えると、そこにも疑問が湧きおこってくる。
 
わたしは、自分のことは変えたいが、果たして星座まで変えたいのだろうかと。
いま自分がいる星座は、過去でも未来でもなく、いまこの瞬間の自分が位置している星座になる。
 
もし自分が変わったら、いまいる星座から違う場所にいってしまうかもしれない。すると、そこではまた新しい星座を作ることになる。
 
それは、自分自身が変わるだけではなく、自分と関係するすべての人に影響を与える行為でもある。仮にそれを、今までの人生で作り上げてきたものを壊す行為であると捉えたら、おおげさに言ってそれは今の自分の死を意味することさえあるかもしれない。
 
考えれば、より良い自分になりたい。というその考え自体が煩悩であるし、自分が変わったからといって、それで自分の理想とする星座になれるのかどうかという保証もない。
 
そうであれば、物足りない自分を自覚しつつも、それなりに付き合っていく方がいいという方法もあるのかもしれない。そんなことを思った。
 
そこで思い出したのが、ある住職にいつか言われた、「どんな自分とも生きる」という言葉だ。
 
明日どんな自分になっているかなんて誰にも分からない。今日の自分と明日の自分がちがう人間になっていたとしても、どんな自分とでも生きる。それが仏教の教えだと。
 
いついかなる時も、それ相応のコンステレーションで生きていく。そんなことでいいような気が、最近している。

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