Teletari Odottari (インドネシアと日本をつなぐ即興ダンスワークショップ)を終えて。映像作品をぜひ見て欲しいです。同時性について。
即興の音楽やダンスのワークショップについていいたいことは実はやまほどあって、それは一緒に志?をともにしているミュージシャンやダンサーとはいっしょにワークショップをする中で、もしくは打ち上げでお酒をのみながら、何度となく話をしているようなことなのだけれど、世の中ではまだまだ一般的でないなぁ、ということばかりだったりする。
だからいつかはまとめてものを書きたいなぁ、と思っていた。
でも、いつかは、、というのはだいたいいつになっても実現しないもので、業を煮やして、はじから思ったことでもいいからなんでも書いていこう、と思ってこのマガジンをはじめた。
さて、今回はとにもかくにもできあがった映像作品を見て欲しい。そう思っています。
このマガジンでも書いていきたいし、伝えたいし、伝えなければならない、、と思っているようなことがなるべく伝わるように・・・と思って、今回のワークショップの映像作りにも参加しました(参加したといっても、映像を作ってくださったのは、草本さんという映像作家さんで、ぼくはミーティングでやいのやいの言ってたのと、最終的に音楽の編集を少ししただけなのですが・・)
ワークショップではぼくはずっと、インドネシアと日本の障害のある人同士のダンスとともに、即興で音楽を演奏していました。
ですので、今回、ワークショップが終わってつけたような音楽はいっさいなくて、すべての音はワークショップ中になっていた音です。最後の編集はその音量などを少し調整しただけ。
インドネシアと日本の障害のある人同士のダンス「に」即興で音楽を「つけていました」と書いてしまいそうなところなのですが、つけていたのではないのです。いっしょに遊んだのです。そこが味噌なのです・・。
そして、遊ぶこと、純粋に遊ぶこと、ただただ遊ぶこと、それがいかに大事か、そしてそこにしかいかにほんとうの技術なんて生まれないか、、そういうことを今回も思い知ったし、それを超えるアートなんてどこにもない、と僕は真剣に思っているのですが、果たせるかな、今回の映像作品ができあがった際に行われた、インドネシアのシンポジウムで集まった学者の人たち(ある人はダンスの専門家、ある人は心理学者・・)のメインの話題?は
「で、障害のある人にアートはできるのか」
「アートになるためには、コンセプトが必要なのではないか」
というようなことであったようでした。
僕は、一度だけそのシンポジウムで話をできる時間があったので、話しました。その内容を自分でも忘れないうちにここに書いておこうと思います。
そしてぜひ、映像をみてください。
映像は以下のリンクで見ることができます。
<映像作品>こちらの動画は、このnoteの記事としてもあげています。
https://youtu.be/raAe9Rvqm04
<シンポジウム>(映像作品含む・途中で僕がしゃべっている場面も出てきます。シンポジウム中はズームだったので、自分の顔なども写っていたのですが、YouTubeであがっている映像を見ると、僕が話している間ずっとインドネシア側の中継の場所で人がたったままずっと待ってくれてるのがうつってて恐縮しました 笑。最後にインドネシアのダンスの先生と障害のある方たちのダンスのショーも見ることができます)
https://youtu.be/LB5jEM6Jy9A
(以下、全文書き起こし・・自分のしゃべったことを全部書き起こししたのははじめてでした・・)
「日本とインドネシアのみなさんこんにちは。いや、こんばんは、ですね。映像を見る前にみなさんがいろいろお話してくださったことを聞いて、全部訳してもらっていたわけではないのですが、ぜひ伝えたいなと思うことがひとつありました。
ぼくはプロフェッショナルの演奏家、プレーヤーとして活動していて、ジャカルタにもLampというシティポップのバンドで行ったりしたんですけど、同時にもう20年くらい子供それからお年寄りそれから障害のある方との音楽のインプロビゼーションのワークショップをずっとしています。日本でもそうなんですが、ぼくがいつも伝えたいと思っているのは、それを教育ですとか啓蒙のためにやっているのではなくて、何より自分が夢中になっている、ミュージシャンとして自分が学ぶことがそこにたくさんある、ということなんです。で、同じような活動をしている友達のミュージシャンの中には、ダンサーやミュージシャンの大学にもう必修科目として障害のある方とのワークショップを経験する科目を入れるべきだという人もいて、ぼくはそれに非常に賛成の意見です。
それについてちょっとだけ話をしたいんですけど、たとえばクラシックのピアノの演奏家ですら、同じ曲を10公演したとしても毎回違うそのときの奇跡のようなことが起こることを目標にしていると思うんですね。なんですがどうしても私たちは、その批評する側にたったときにはその曲自体の形とかストーリーを批評することで終わることが多いと思います。で、佐久間さんが映像と音のずれについてあのさきほどコメントされたみたいなんですけども、実はこのようなワークショップで一番大事なことと自分が思っているのがまぁ「同時性」っていいますか、同時になにかがおきる、どちらかが主導しているのでなく、同時になにかが起きるっていう、まぁ奇跡的な瞬間がたくさんあるということで・・と、思っています。
で、今回、ぼくも、おそらく佐久間さんも、ズームのずれがあってもその同時性の、同時になにか起きる奇跡みたいなことが可能なんだということをすごく感じて嬉しかったのですが、それはあのただずれていていいということではないので、今回の映像を、えーまたその、今日見た段階でずれていた方は、YouTubeなどで、かなりその正確に音とダンスと合っている状態でなんども見ていただけると、意外といろんなことが起こっていることに気づいていただけるんじゃないかと思います。
模倣という話も出てきたと思うんですけど、映像をよく見ていただくと、実は佐久間さんや私(演奏)やハッサン(インドネシア側のダンスの先生)の方がまねしているときもありますし、たとえばこちら三人の方がなにかストーリーのとらわれてしまっているようなところも見つかるかもしれません。
長くなってすみません。」
全文書き起こししてみると、しゃべり言葉のときに、自分がいかにいらない「その」とか「あの」とかが多いかわかっておもしろかった。
また、ワークショップについてはいろいろ書きたいです。
2021.10.24