身近なジャッジにひそむ権威。微妙な権利とか、微細な差別とか。自由であることについて。やりたいことはひとりでやれ。
(写真は記事の内容とまったく関係のない、京都の街角で見つけた、草間彌生風?いけず石。いけず石とは、京都の街角に点在している、車にぶつけられないため?に家の先においてある石のこと。なかなかよいなぁ。)
ここのところ考えていること。
「なにをおもしろいとするか」
「観客にとってなにをわかりやすいこと、とするか」
を選ぶ際のジャッジには、常に
「権威、と、権威がないもの」
「既知のもの、と、未知のもの」
とのひっぱり合いが常にあるんだなぁ
とあらためて考えている。
大抵は、だまっていれば権威の方、既知のものの方にものごとはおさまって終わる。
説明もなしに。
日頃ぼくはどちらかと説明が多くなくて、むしろなにかものやことを見せられて、ね、いいでしょ?という方が好きではあるのだけれど、こういうケースのときだけは、なにか説明が欲しいな、と思ってしまう。
うまく言えないのだが、つまり、ちょっともっともすぎることをさらって言われたときに、え?ほんとにそうですかね?と思ってしまう。
まぁ、それは特に、大きな組織やメディアと仕事するときには、なんども経験してきたことだから別におどろきはしないのだけれど、でも、あらためて、もっと身近に、なにかを選択するときには常にそういうことは存在している。ということをあらためて感じている。
「これはよくありません」
ほんとだろうか?
そして、そういうことって「まだ」言語にのぼらない「権威がなく未知のほう」が
静かに、あたりまえのように、
無視されて、終わる。
ほんとうにそれはよくあることだ。
そこには実はいつも、微妙な権利、とか、差別とかそういう問題があることが多いが、それには気付かない人が多い。
(もちろん、それがメインの目的ではないのだけれど、含んでいることは事実だ)
表現にはいつもそんなところがあると思う。
普通の暮らしをしてる中に、「あたりまえ」となっていることってたくさんあるからだ。だから、「そういう世の中」は誰のせいでもないし、気付かないことは別に仕方がないことなんだな、と思う。
そんなことをつらつら考えていたら、
そういうことをあらためて覚悟した上で、
少なくとも自分自身は、そんなことは気にせず
自由でいよう。
と、かえってすがすがしい気持ちも湧いてきた。
少なくとも自分自身は、
そういう時に
「権威でなくても、おもしろいもの」
「未知であっても、おもしろいもの」
を選ぶ側でいたい。
そして、それは、
「ただ、そちらの方がおもしろいから」
「ただ、そちらの方になにかを感じるから」
とちゃんと口に出して言える、自由な立場で居続けよう。
それは誰のためでもなく、まずは自分の自由のために。だ。
さて、相手はどうそれをちゃんと説明するだろうか?
それも、「楽しみにはする」。だが、期待するのはやめよう。
僕自身としては、そのときそのときの選択で、もし、なにもあとに残らないとしても、誰にも支持されなくても、そんなことはどうでもいいではないか。
と、つねに思っている。そう思う人間でありたい。
むしろ、大事なのは、そのときの選択をあやまらないこと、だ。
自分自身の心では、という意味だけど。
しかし、そうういう覚悟をあらためて感じると、
やりたいことはひとりでやれ
という言葉を思い出す。
昔から、この言葉がとても好きだ。おもしろいことをやるにはそのくらいの気持ちが必要だ、と思い出す。
2021.10.16