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#レッスン日記-1 2020.11.2. Oさん。クラシックにも当然役立つジャズやポピュラーの考え方。クラシックの先を「やっている」ものとしてジャズやポピュラーを考える。

(過去のレッスンメモに文章を加筆しました)

 今日はOさんのピアノレッスンだった。
 Oさんは、「月の光」をただいま練習中。それと同時にテキストを使って「ポピュラージャズの基礎」も少しずつ学んでいっている。
Oさんのようにクラシックをより自由に弾きたい!という方にも僕は、ポピュラーやジャズの基礎を学ぶことをオススメしている。

 現代のポピュラーやジャズの作られ方や構造は、Oさんが好きなクラシックの作曲家・・つまりベートーベンやショパンやドビュッシーやそういう人たちの作った和音の世界をきちんと踏襲している、つまりそれを受け継いだ上でその先を発展させようとがんばっている・・・そんな風に僕は理解している。
 一般的には、クラシックはクラシック、ジャズはジャズ、ポピュラーはポピュラー、とそれぞれの理論や技術は別のものと思われている場合も多いけど、それは全部つながっているもの・・・と思った方がおもしろいと思う。
 おもしろいだけでなく、実際に歴史の順番をたどれば、現代のジャズやポピュラーがクラシックのその先を探求しているのはある意味とても自然なことなのだ。

 ジャズには「ジャズ界」、クラシックには「クラシック界」のようなものはあって、その中では、「これがジャズだ」とか「これがクラシックだ」ということをのたまう人が出てくる。それはある意味仕方のないことだ。
 ただ、ぼくの正直な感想としては、そういう風に言葉で「これが〇〇だ」と発言するような人は、どちらかというと実際の音楽よりも、言葉が得意な人たちで、だからこそ、その「これが〇〇だ」という基準が、どうしても世の中一般の考え方や、特に哲学とかの影響を受けやすいのだと思う。

 人間は知的な動物「でも」あるから、もちろんそれは自然なことでもあるし、ある程度は必要なことだと思うのだけど、実はそういうことがジャンルをすごく狭めているなぁ、、というのもよく思う。

 つまり、なんだかいつごろからか「いままでにない新しいものを(しかも知的にわかりやすい新しいもの)を作ったものだけが素晴らしい」というような変な考え方が幅を利かせてしまう・・ということはどのジャンルでもよく起こりうるのだが、だいたいにおいてそういう考え方にみんながなびいてしまったジャンルは、だいたいにおいて衰退の一歩をたどる・・・というようなことになる気がしている。
 個人的には、そういうのは一言で「まじめすぎて終わった」ということなのでは?と思っている。
 ほんとうは、一見もともとあったものにそっくりだったりしても、「やっぱり素晴らしい」というものももちろんあるわけで、料理とか健康とかそういうジャンルにおいては、必ずそういうリバイバル的なことも含めて進んでいくものだしそれが健康だと思うのだけど、直線的な発展思考みたいなものにとらわれてしまったジャンルはただただ前にあったものを壊す・・・ということしか興味がなくなってしまって、音楽とか体ではなく「ただの知的作業」になっていく・・・という傾向があるのかなぁ、、と思う。
 まぁ、そういうのももしかしたらぼくの若いころだけに特に流行りだった変な哲学のはやりの傾向でいまはそうでもないのかもしれないけれど。

 さて、話はもどって。
 アフリカの音楽文化がジャズやポピュラーには入ってきている。
    しかし、当然クラシックの流れも入ってきている。
 そのことを忘れてしまっている人も案外多い。クラシックと別の、庶民的なもの、、、ということではなく、ジャズやポピュラーもクラシックの続き、を(も)やっている、ということ。

 和音やメロディーの美しさがメインの興味の方はどうしても和音の理屈などもクラシックの時代のリズムにあったものとして考えているので、よく「ジャズのコード理論は、クラシックの理論に比べると<慣習>に基づいていて、理論としては未完成だ」というようなことを言う人が出てくる。
ぼくとしては、正直それは間違っているような気がずっとしている。
 例えて言ったらどういうことなんだろう。
 うまく言えないのだが、それは能のすぐれた踊り手が、「現代の人がディスコで踊っている踊り方は間違っている」というような?とんちんかんさを含んでいるように思う。別に、過去のものの中に、現代では失われた「自然の体の動き」がある・・という話ならまだわかる。ただ、「昔の動きのためにできあがった理論」が現代息づいている「理論」より完成している・・という発想はどうもピンとこない。ありえない・・というか。

 ぼくが考えていることはこうだ。
リズムの捉え方が変わると、和音やメロディーの認知の仕方が変わるので、体系が変わるのは当然のことで、ジャズやポピュラーのコード理論はむしろ現代的に洗練されているし、昔解説できなかったことがたくさん説明できるようになっている、とさえ思う。
 そもそも、「理屈のためにやっているわけではない」音楽の理論を、どっちが優れているとか比べている時点で、ちょっと違うのではないかな?と思ったりする。好みの音楽に好みの説明があるだけなのでは?
 どちらが優れている、、というようなことは、実際に現代のポピュラーやジャズの音楽をやっている人は「やりたい音楽があって、それをやっているうちに理論がわかってくる」という順番でしかやっていないので、あまり考えないのではないかなぁ、と思う。

 また、僕が勉強した範囲では、クラシックのいわゆる和声法や対位法で現代のジャズやポピュラーを解説することはほぼ不可能(な感じがする・・できるなら教えてほしいけど・・)なのに比べて、ジャズやポピュラーのコード理論でクラシックの音楽を説明することは割といろいろな角度から可能なので、なぜ、「未完成な理論」と言われるのがちょっと正直わからないなぁ、といつも思ってしまう。

 ぼくはジャズやポピュラーの和音に関する視点やそれにマッチする体の使い方は、おおいにクラシックの演奏の役に立つと思っていて、それはもちろん僕の「好み」であるポピュラーやジャズからの(ぼくの場合は特にレゲエなどのラテン音楽からの視点が強い)視点なのだけど、やっぱり新しい時代の人たちがみんなで作り上げたものにはそれなりの便利さや現代の人の体や感じ方にあった「合理性」もあると思っている。

 知的な作業はいつも経験の後追いをするのは当たり前のことで、過去のものがいつも「完成されている」と言われるわけだ。現代の流布しているコード理論がいかに完成されているかわかるのは未来のことになるのはある意味自然なのかもしれない。

 ピアノの和音に関していえば、ベートーベンのころの音楽から現代にいたるまで、和音は徐々に複雑化し変化し続けてきている。現代のポピュラーやジャズに使われているいわゆる「コード」をきちんと把握できれば(きちんと・・・というのは、ややこしく、ということではなく 笑 自分の体に入って使えるようになれば、、ということです)それを使って、クラシックの音楽もより身近に理解できる、という風に僕は考えているわけです。
そんなに違うものでもない・・とも言えるし。。
 実際に生徒さんもそれですごく弾きやすくなったり、音自体がやさしくなったり、いろんな変化があります。

 もちろん、楽譜を読む技術、そこに込められている作曲家の意図を読み取る、という能力もクラシック演奏にはすごく大切。それに関してもやはり、ポピュラーの知識は役に立つ。
  大きく分けて、低音部、中音部、そしてメロディーという音域ごとの構成はオーケストラでもバンドでも同じ。自分たちが日頃よく耳にしているようなポピュラーな音楽の構成をしることもまた、そのままクラシックを理解することにも役に立つ。

前置きが長くなったけれど、今回のレッスンに関するメモ。

 前回は、月の光の「声部」についてお話をした。

 ピアノは、オーケストラやバンドがやるようなことを、つまり複数の人が楽器を使って一緒に演奏するようなことを、一人でやってしまえる、という特徴がある。そこにはもちろん一長一短がある。それを短所とも長所ともとらえることができる。しかしどちらにとったとしてもとにかくそういう特徴があるのだ。
 「友達がいたら、こんなに鍵盤全部弾く必要ないのかも・・」とたまに冗談で言います。別にそれは孤独が悪いといっているわけではなくて(笑)むしろ一人でもたくさんいるような音が奏でられる夢のような楽器・・・それがピアノの誕生だったのだと思う。
 ベース+和音+メロディーという3パートをイメージして、月の光を弾き直してきてもらう、というのが前回の宿題だった。

 ぼくが驚いたのは、Oさんがそれを意識して練習してきてくれたことで、変わったのは「パートが聞こえやすくなった」より以上のおおきな変化があったことだ。
 音質がとても変わっていた。これはひとことで説明ができることではないので、また日を改めて書けるときがあれば・・と思う。

 そこの部分はとてもよくなった。
 しかし同時に、やはりこれも当然のことなのだが、今回は部分に(ミクロな分析に)気持ちが集中していたので、Oさんの弾く時の姿勢に微妙に偏りがみられた。
 部分に集中する作業は「分析」的で、頭も使う。
 そういう作業をすると、どうしても姿勢が前かがみになりやすいし、鍵盤を見つめる目もフルに使ってしまうことが多い。

 ピアノを練習していくときに一番大切なのは、このような
「頭で考える部分と、体の使い方のバランスをうまくとっていくこと」だと思う。それは僕自身が日々気をつけていることだ。

 今日はOさんにそのような、「ピアノの練習をすすめていく上でのバランスの取り方」と、練習の進め方についてお話をさせていただいた。
 部分を練習することと、全体を眺めることの行き来。頭を使うことと、体を意識すること、の行き来。

 そして最後に、いま次の曲として挑戦中のショパンのワルツの六番。これのコード分析と、EとC#mのキーのスケールの練習を課題として出した。

次回は、ポピュラーの方のテキストの「アメリカの音楽の歴史における、ベースの役割」を概観としてざーっと説明する予定。

2020.11.2

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