ロラン・バルト『明るい部屋』より

”それは、ストゥディウム(studium)という語である。この語は、少なくともただちに《勉学》を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。(…)ストゥディウム(一般的関心)
ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum)と呼ぶことにしたい。(…)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことでありーしかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。(…)私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。”(10「ストゥディウム」と「プンクトゥム」38〜39頁)

”ストゥディウムというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き嫌い(I like/I don't)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。(…)それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。”(11「ストゥディウム」40頁)

”仮面とは、完全に純粋な状態にある意味のことである(意味は古代の演劇においてもそうだった)。だからこそ、偉大な肖像写真家は偉大な神話学者ということになるのだ。”(15「意味すること」50頁)

”報道写真の映像には、プンクトゥムはない。衝撃力はあるー字義どおりの意味は精神的ショックを与えることができるーが、しかし乱れはない。単一な写真は、《叫ぶ》ことはできても、傷を負わせることはできない。そうした報道写真は(いっぺんに)受け入れられ、それで終わりである。私はつぎつぎにページをめくり、二度と思い出すことはない。そこでは、ある細部(どこか片隅にあるもの)が、私の読み取りを中断しにやって来ることは決してない。私は(世界に関心を寄せるのと同じように)そうした写真に関心をもつが、それを愛することはないのだ。”(17「単一な「写真」」55頁)

”私は自分の快楽が不完全な媒介であるということ、快楽主義的な企図に還元された主観性は普遍的なものを認識しえないということを、認めざるをえなかった。”(24「前言取り消し」72頁)