K・v・ウォルフレン『日本/権力構造の謎』下より

”日本の権力関係を理解する鍵は、権力関係が超越概念の制約を受けないことだ。国民一般は、生活の中にある政治的な諸側面に筋のとおった判断を下すだけの知的手段を持たない。弱者、すなわちイデオロギーに支えられてはいるが力の弱い政治的な団体にしても個人にしても、時おりわずかばかりの感情的な圧力を果敢にかける以外、現状に影響を与えるだけの手段を何も持っていない。要するに、日本の政治慣行は、強者から弱者に与えられることが保証されている形だけの”恩恵”に装われてはいるものの、「力は正義なり」が実施されているということである。”(9章「リアリティの管理」35頁)

”日本の権力はいろいろな段階で、独特な文化というイデオロギーに装われている。日本人に一生つきまとう教化の主要な目的は、服従を続けさせることにある。そして、この政治的な現実に支えられる文化が、いろいろなやり方で服従の念をさらに強める。世界をあるがままに受け入れるという考え方が、流行歌やたくさんのよく知られた物語、数々のテレビ連続ドラマでもてはやされる。社会的に称賛される。受身的な態度は、教育制度や会社などの要求にーたとえ要求が不条理なものであったとしてもー盲従する姿勢を強めてしまう。人為的に引き起こされたものであろうとなかろうと、不幸を前にしてはあきらめるのが円熟のしるしとみなされる。騙されたと騒ぎ立てる者は、”未熟”ということになる。この態度があるから、自然発生的あるいは組織的な不正な金もうけも多くなる。日本人は日常生活でいろいろなヒントを通じて、自分の属するより大きな社会に個人としての自己を”没する”よう積極的に誘導されるのである。”(10章「文化にかこつけた権力」76頁)

”過激な日本主義の英雄的な伝統が、今も社会を不安定にする可能性を残している。欲求不満と緊張の両方が日本に溢れている。これらが今後の経済問題と、国が正しい目標を失っているという喪失感の高まりに結びついて、感情的で理不尽な日本主義運動に火がつくことにもなりかねない。そのための組織はすでに各種の右翼団体の間に存在する。そして、自分たちは反日的な世界の犠牲にされたという被害者意識と共に、”日本本来に価値観に戻る”必要感が増大するにつれ、これらの運動は広範な共感を当てにできるだろう。”(11章「宗教としての<システム>」106〜107頁)

”戦後の統制は、ほとんどの分野で、はるかに洗練されている。今や戦時にさかのぼる統制の起源が忘れられてしまったばかりか、全般に統制だということさえ分からないようになった。記者クラブを通じて情報を選択して流すのは、あからさまな政府の直接検閲よりははるかに体裁がよいし、ニュースと一般大衆の意識を当局の意向どおりに標準化する手段として、より効果があるだろう。(…)
戦後のマスコミ媒体の大部分の統制は、電通を主要調整機関とする、民間組織によっておこなわれてきた。”(15章「不死鳥の国」248〜249頁)

”どうすればよいのだろう?(…)手始めに東大を廃校にする(…)弁護士を養成する(…)法律家の数を人為的に制限するのを止めさせる(…)組織に属することが重要だと強調しすぎるを止める(…)国民一人一人の政治意識と政治に対する責任感の涵養に務めなければならないだろう。”(16章「世界にあって世界に属さず」317頁)