中江兆民『一年有半』より

”本日午後三時、星亨が東京市議会において伊庭某に刺され即死したと。わたしもまた驚いた。その後二十六日の葬儀を終わるまで、京阪の新聞は、星暗殺事件の詳細をいずれかの欄にのせない日はなかった。いわゆる国をあげて狂ったというところだろうか。何とわが国民の軽薄で動じやすいことか。生前の星は追剥盗賊であり、死後は偉人や優れた人物になりかわる。是非の判断、人物評価のあてにならないことは、この一事にもみてとれる。”(第一「星亨と伊庭想太郎」43頁)

”そもそも官とは何か。本来、人民のために設けられたものではないか。今では官吏のために設けられたようなものだ。勘違いもはなはだしい。人民が出願、請求することがあると、これを却下するにあたっては、まるでこちらの過失を懲らしめるとでもいうように、これを許可するときには、まるで恩恵をほどこすとでもいうようだ。まったく理屈にあわない話ではないか。いったい彼ら官吏は誰のおかげで暮らしていられるというのか。人民から出る税金のおかげではないか。つまり人民に養われているのではないか。およそ官のものは、金銭はもちろん髪の毛一筋さえ、天から落ちてきたのでも、地からわいてでたものではない。みな人民のふところから生みだされたものではないか。いわば人民は官吏なるものの第一の主人である。敬わずにはすむまい。”(第二「官とは何か」126〜127頁)

”わが国民は利害に敏く、理念に暗い。ことのなりゆきに従うことを好んで、考えることを好まない。そもそも考えるということ自体を好まないのだ。そのため、天下のもっとも明白な道理であっても、これをおろそかにして何とも思わない。長年、封建制度にあまんじ、武士ののさばるに任せ、いわゆる切捨て御免の暴挙にあって抗わなかったというのも、原因はまさにその考えないというところにあったわけである。そもそも考えるということ自体を好まない。したがってなすことが浅はかで、十二分に深いところまで徹底するということがない。これから必要なのは、豪傑的偉人ではなく哲学的偉人を得ることである。”(第二「考えることの嫌いな国民」129〜130頁)

”高位の人や重職にある人、また代議士や政党員といった人たちは、自分と身内の利益のほかにも、いくらかは国家とか人民という考えを脳裏に描いている人間であろうと信じていた。しかし今やどうだ。これはまったくの妄想だった。まことに彼らは利口で、われらは愚かであった。なぜなら、国家とはとにかく一大世界である。どれほど多くの個人に食いものにされたところで、衰亡に至るまでにはまだ余りある。それならば、自分の利益のために国家を犠牲にすることには何の遠慮もいらない。人民とは何か。無知な農民が大多数を占める。これでは優者が勝ち劣者が負けるという大原則によって、天は他の利口者の食いものとされてしまうではないか。ああ、今の高位の人や重職をになう人、また代議士や政党員といった連中は、まさに食人鬼である。わが日本帝国は、こうした利口者たちの食いものにされて、いったいこの先何年生きのびることができるというのであろう。”(第三「議員政治家という食人鬼」187〜188頁)