中村哲『アフガニスタンの診療所から』より

”名誉、財産はもちろん、いこじな主義主張を人が持ちはじめると、それを守るためにどこか不自然ないつわりが生まれ、ろくなことはないものである。”
                    (「支援の輪の静かな拡大」178頁)

”我われは貧しい国へ「協力」に出かけたはずであった。しかし我われはほんとうにゆたかだろうか。ほんとうに進んでいるのだろうか。ほんとうに平和だろうか。胸を張って「こうすれば幸せになります」といえるものを持っているのだろうか。(‥)生半可な国際化や近代化よりも、そしてカネを転がして食ってゆくよりも、鎖国でもして自らの労働で得た米と魚で食ってゆくほうがまだましである。自然を収奪し、第三世界を収奪し、汗水たらしてまじめに働く者がバカを見るような世の中が、長続きするはずがない…とのべたとて、必ずしも妄言ではなかろう。”
                       (「そして日本は…」196頁)

”十八世紀以来、多くの近代的思想はまぎれもなくひとつの大義・希望として我われに夢をあたえつづけてきた。それがロシアの共産主義であろうと、アメリカの自由主義であろうと、日本の戦時中の八紘一宇であろうと、そのために人々は命さえおしげもなくささげた。
しかし、ひとつの主義の「普遍性」が信仰にまで高められ、その普遍性の拡大が民族や国家集団の使命と信ぜられるにおよんで、他者との共存を許容する謙譲の美徳は傲慢さにおきかえられた。力にものをいわせてまでその世界の正当性を主張し、「おくれて貧しい」弱者を圧服することを正義とするようになった。帝国主義はその表裏にあった。
そのすきまで国家の権威をカサにハイエナのように利をむさぼり、国の尊厳を侮辱した卑劣漢は問わない。問題は、我われが当然として疑わない近代社会の進歩性の幻惑そのものにある。”          (「そして日本は…」202〜203頁)

”今や世界で、皆がおそれながらも口に出しにくい事実は、我われが何かの終局に向かって確実に驀進しているということである。我われの未来を考えるのは幾分恐ろしい。我われはいっぽうで地球環境や人口問題を問い、他方で経済の活性化を語る。だが明白なことは、自然破壊なしに経済成長なく、奴隷なしに貴族はなく、貧困なしに繁栄もないということである。”  (「そして日本は…」204〜205頁)

”我われの敵は自分の中にある。我われが当然とする近代的生活そのものの中にある。ソ連が消滅し、米国の繁栄にかげりの見えはじめた今、我われをおびやかすものがなんであるのか、何を守り、何を守らなくてよいのか、静かに見透かす努力をする時かもしれない。”             (「そして日本は…」206頁)

”強調したかったのは、人が人である限り、失ってはならぬものを守る限り、破局を恐れて「不安の運動」に惑わされる必要はないということである。人が守らねばならぬものは、そう多くはない。そして、人間の希望は観念の中で捏造できるものではない。”                  (「文庫版あとがき」216頁)