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【ターニングポイント⑦】2002年のお話

DAY5に書いていたように
過去に「アマチュア劇団」に私は所属していました。

そこではアンサンブルでメイド役や酔っ払い役。
(その公演では恩師<広瀬真弓>氏のアンダースタディも経験しました)
アイルランドの学生、新人公演では女性テロリスト、KGB新米捜査官など
あまり普通では経験できないような役をたくさん経験させていただきました。

自分では体験できない人生を、役柄を通して生きる喜び。
それはこの期間で得た、とても貴重な財産になっています。

たった一度だけ「主演」をもらったことがあったのですが
残念ながらその公演は中止になってしまい、幻の主演作になってしまいましたが。。。

でも、その中でもさらに「ターニングポイント」となった役がありました。

それは【与謝野晶子の母<鳳 津祢(ほう つね))>】の役でした。

実はその時の公演では、私は与謝野晶子の役を狙っていました。
与謝野晶子をというよりは「主演」になりたかったのです。

それには自分なりの理由がありました。

当時私は結婚していて、3年ほど経とうとしているときでした。

結婚するときに「ミュージカルは辞めない」という約束ではありましたが
やはり「子どもはまだか?」「いつまで遊んでるの?」と
直接辞めろとは言われなくても、周囲からの圧力も日々強く感じていて。
それを本当に苦しんでいたからこそ。

「主演をとれるくらいの実力だと認めてもらえれば、辞めろと言われない」

という風に思うことが多く。

その時の私は「主演がやりたい」のではなく
辞めなくてはいけない理由を一つでも消し去りたかった
というのが何よりもの理由で、自分でも一番しっくりきます。

でも、結果的に与えられた役は「母親」役。
その時の私は28歳。役の年齢設定は53歳。

結局は脇役か。そう思って頭の中がまっしろになり
正直喜ぶことも出来なかったのですが、実はなんとなくそうなるような
そんな予感もしていた自分がいました。
(↑この予感についてはまた別の時にお話しします)

とにかく「いつミュージカルを諦めるのか」という
無言の圧力に耐える日々が
これからも続くのかとがっくりしましたが。
その後の個別面談で演出家でもありプロデューサーの<林信夫>氏が
私にこう言いました。

「お前にこの役をさせるのはかなりの冒険やと思ってる。
お前の歳でこの役をやれたら大したもんや。どや、出来るか」

これまでのターニングポイントでもご報告しているように
私は若かりし頃はついつい
「売られたケンカは買ってしまう」タイプでしたので。

ある意味、この良くも悪くも私を奮起させる言葉に触発されて。

即答で「はい、できます」と答えました。

実は、もちろん、売り言葉に買い言葉で適当に勢いで言ったわけではなく。
私にはきちんと「勝算」もありました。

何故なら、この配役はオーディションがあってのことでしたので
配役が決まる前から、台本の内容はたくさん勉強していました。

そして、台本を読んだときにこの役で一番感じたこと。

「これ、うちの母だな」

その役の見本となる姿が自分の母親。

だから私は発破をかけられた瞬間
「母が私にしてくれたことをやればいいんだ」と思えたのです。
それは私にとってはそんなに難しいことではありませんでした。

晶子を自分に見立てて、私は母になればいい。
ただそれだけを全うするだけでこの役はやれる。

そう確信を持ち「立った一筋の希望」が消えた絶望感をもちながら
でも、それならば、絶対に演出家のはっぱに期待以上の結果を出してやると
ふつふつと闘志がわいてきたのです。

結果、どうなったか。続きは明日、お話ししますね。

人生という舞台で輝ける人を育てる 自分の幸せは自分で生み出す こどもたちにその大切さを伝えるため また 未来を作る若者たちのための サードプレイスを作ります。 そのサードプレイス作りに必要な形で 有効活用させていただきます。