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長編トラベルミステリー小説「急行八甲田の男」8.長谷寺にて。

平成元年の春、四月の海風が心地よく吹いてくる。江ノ島の展望台から眼下の海を見下ろしながら、初江は自分の悩みを語り終えた。初江は言った。
「今日は、とてもすっきりしたわ。まるでこの湘南の海みたい」
「もう・・行こ・・」
「そうね・・」
江ノ島を弁天橋に降りる海の見える坂道で、道雄は尋ねた。
「これからどこ行くの?」
「そう、水井さんによると、まず長谷寺ね。そこでお昼ご飯。ほら、これ」
そう言って、初江はパンの一杯入った紙袋を示した。
二人は江ノ電、江ノ島駅から電車に乗り長谷駅へと向かうべく、江ノ電江ノ島駅へ向かった。
江ノ電江ノ島駅から四両編成の古ぼけた鎌倉行の電車に乗り込んだ。車内は行楽客でごった返していた。江ノ島駅を出て急カーブを切ると、電車は道路を走り出した。
初江は呟いた。
「まるで札幌の路面電車ね・・」
しばらくたつと、電車の車窓に湘南の海が広がった。開いた電車の窓から、春の心地よい海風が車内に吹き込み、人いきれでやや汗ばんだ初江は「気持ちが良いわ」と呟いた。海には色とりどりのボードセイルの帆が点々と浮かび、若者たちがサーフィンに興じている。
満員の乗客を乗せた電車は、緑が芽吹いた新緑の鎌倉をゆっくりした速度で走っていく。つつじの花が咲く家の軒先をかすめ、急カーブを切り、新緑の山の短いトンネルをゴオーッと抜けていく。初江が言った。
「もう極楽寺だわ。次が長谷よ」
極楽寺駅のほの暗い緑のトンネルを抜けると、鎌倉の明るい市街地へと電車は進んだ。
長谷駅に到着した電車からは大勢の乗客が降り立ち、長谷駅のホームには人があふれていた。二人は人混みに紛れて長谷駅の改札を抜けた。道雄は尋ねた。
「どちらが長谷寺や鎌倉大仏?」
「さあ、多分みんなの行く方向じゃない?」
二人は人の行く方向に歩き始めた。しばらくすると長谷寺の標識があった。初江が言った。
「ほら、あそこの標識に『長谷寺』とあるわ。あそこを曲がるのよ」
二人は財布の中身を気にしていた。残りは、二人合わせ6420円。これで来週の月曜日まで暮らさねばならない。そう思うと心細かった。長谷寺の門の前で「拝観料いくらかしら?」と初江が心配をしていた。道雄が拝観料の書かれた木札を見ると「入山料200円」とある。二人で400円。
「あと6020円・・」道雄は呟いた。
二人は門の前の自動販売機で一缶100円のペプシコーラを二缶買った。ペプシコーラの缶には、昼の暑さで表面に水滴がついていた。
「あと、5820円。もう金がない。大仏って入るのいくらだろう?」
「一人500円だったら死ぬわ」
長谷寺の門を入ると小さな池があり、赤いつつじの花が咲き乱れていた。池の透き通った水の中を錦鯉が泳いでいた。池の脇を通り、上まで続く石段を登った。真昼の日の光に明るく照らされた新緑のもみじが美しかった。二人は観音堂に至るほの暗い石段を上がった。上がり終えたところで、二人は観音堂を見つけ、参拝した。
ほの暗い建物に高さ9.18メートルの十一面観世音菩薩、長谷観音が安置されていた。初江は呟いた。
「大きな観音様ね・・」
二人はほの暗い観音堂の長谷観音の前にある賽銭箱にめいめい十円ずつを投げ込んで手を合わせた。
道雄は言った。
「あと、5800円・・」
初江が道雄に囁いた。
「観音様の前で馬鹿なことを言っては駄目よ」
二人は手を合わせて何事かを祈った。道雄がふっと横を見ると、初江が目をつぶってじいっと熱心に祈っている。
二人が観音堂を出る時、道雄が聞いた。
「何をあんなに熱心に祈ってたん?」
初江は答えた。
「一円の値打ちもないことよ」
道雄が言った。
「聞きたい!聞きたい!全財産をはたいても聞きたい!」
「だめ!」と初江はにべもなくはねつけた。
二人は境内の見晴台にたどり着いた。ちょうど昼食をとるのに手頃な大きなテーブルと長い腰掛けがたくさん並んでいて、たくさんの人たちがめいめいにテーブルにお弁当を広げて、昼食をとっていた。眼下には鎌倉市街と由比ヶ浜の海、そしてたなびく船の煙のような三浦半島が見える。
「わあ!とってもきれい!」
初江が歓声を上げた。
ここで昼食ということになった。初江は腰掛けに座ると、紙袋をテーブルに置いて、紙を敷き、パンを取り出し始めた。あんぱん、メロンパン、クリームワッフル、いちごクリームサンド、ミックスサンドが二つ。ペプシコーラが二缶。これが今日の昼食だ。
道雄は初江に聞いた。
「大丈夫?」
初江は答えた。
「そうね・・」
でも、このさいということで、思い切って食べることにした。
道雄は初江にこう宣言した。
「今は、こんなものしか食えないけど、今に金を儲けて、会社を経営していいものを腹一杯食ってやるんだ。そして君はぼくの奥さま」
初江は顔を赤らめた。
「えっ!ホント!ホントなの?」
道雄はこれを無視して、あんぱんを初江の前に差し出した。
「牛肉のビーフステーキはどう?奥さま」
「ああ、こういうこと・・」と、初江は思いながら、すかさずミックスサンドを道雄の前に差し出し、「さあ、キャビアのたくさん入ったサンドイッチ・・そんなものあったかしら・・をどうぞ」とやり返した。
道雄は負けじとばかり、「それでは・・えーっと・・1979年フランス産のワインを一つ」と言うと、さっき自動販売機で買った250ミリリットル缶のペプシコーラを初江の前に差し出した。
こうなれば初江も黙ってはいられない。何をとばかりに「ほら、デザートのいちごショートケーキはいかが?」とクリームワッフルを道雄の前に差し出す。
道雄は初江の鼻をあかすにはどうすれば良いか?をしばらく考えて、「毎日こんなぜいたくばかり、余は大いに満足している」と大見えを切った。
初江は間髪を入れず、「もう食べるのには飽きたわ、今は少しダイエット中なの」とやり返した。
道雄は「初江さんアッタマいい。もうネタがなくなっちゃった」と降参した。二人は思わず顔を見合わせ、お腹を抱えて笑いころげた。とにかく腹がめちゃくちゃ減っていたので、二人はコーラを片手にパンをむさぼり食った。
道雄はクリームワッフルをぱくつきながら「ねえ、今週の少年ジャンプ買ってきのう読んでいたんだけど、初江さんはどんな漫画読むの?」と尋ねた。
「まあ、あなた漫画しか読まないの?」
「あたりまえさ・・」
「ちょっと・・幼稚ね・・」
「何だ・・何が幼稚なんだよ・・」道雄は、少し膨れっ面をした。
「わたしは、今、恋愛小説に夢中なの・・」
道雄はこれを聞いて、吹き出した。
「何が恋愛小説だよ、おたくそんなタマかよ・・」
初江はこれに少し怒った。
「だから、あんたみたいな人は嫌なのよ」
「だれが・・俺がかよ・・」
「そう・・あなたには文学の素晴らしさを知らないのよ・・。あたし真面目よ」
「あっ!わかった・・要するに・・テレビでよくある話だろ・・たとえば、会社の社長の息子とか、弁護士とか、医者と恋に落ちるのに憧れる・・まあそんなところだ」
「まあ、わたしの読むものは違うわよ。たとえば、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』とか、三島由紀夫の『潮騒』とか真面目な本よ」
「エミ・・・?」
「エミリー・ブロンテ」
「誰?それ。中国かアラビアの人?」
これを聞いて初江は吹き出してお腹を抱えて笑いころげた。
「イギリスの女流文学者よ。わかった!良くわかったわ!あなた学校の成績、とても悪かったんじゃない」
道雄は、自分の秘密がバレてしまい頭を掻いた。
「まあ・・いいほうじゃなかった」
初江は自慢げに言った。
「私、これでも中学の時、国語で五を貰ったことがあるのよ」
道雄は驚いた。
「へえーそれはすげえ!アッタマいい!」
褒められたのか、けなされたのか初江には今一つわからなかったが、こう言った。
「私、国語で四をいつも取っていたわ。私、中学のみんなが言うほど成績は悪くなかったのに・・」
道雄はさっき江ノ電の駅で、電車に新品の学生服を着た高校生が電車に乗ってきた時のことを思い出した。みんな楽しそうだが、自分は高校に行くことはできず働いている。そう考えると自分がとてもみじめになり辛かった。ふと、初江を見ると同じ思いでいるのがわかった。
初江は突然自分の腕に抱きついてきた。道雄がびっくりして逃げると、初江は「お願い。こうしていたいの・・」と言った。
「どうして?」と、道雄が尋ねると、「だって・・私にはこんな素敵な男友達がいるの・・それを、あの人たちに見せつけてやりたいの。だからこうしていたいの・・」そう答えて、初江は長谷駅まで、はしゃぐ高校生の前でぴったりと自分の横にしがみついていたのだ。

初江は、こう言った。
「私、将来小説家になろうかしら・・そのために沢山本を読んでるの。でも『嵐が丘』なんて、私にもよくわからないわ・・でも、『嵐が丘』をとっても気に入っているの」
「ふうん・・どんなことが書いてあるの?」
「そう、主人公はヒースクリフという浮浪児・・これはあなたね」
「何が浮浪児だよ!」
「そして、ヒロインは嵐が丘の豪邸の農場主の娘。キャシー。これが私よ」
「何が豪邸に住む娘だよ」道雄は、せせら笑った。
「そして、農場主に浮浪児のヒースクリフが、イギリスのリバプールで拾われて、嵐が丘の豪邸でキャシーと一緒に住むようになるの。そして二人は成長して恋し合うの」
道雄はふぅ~んという様子で初江の話に聞き入った。
「でも、浮浪児と身分の高い農場主の娘との恋なんて実らないわ。はたして、リントンという近くに住むお金持ちがキャシーの心を奪ってしまう。でもキャシーは、本当は浮浪児だったヒースクリフと一緒になりたいと思っている。でも、浮浪児だったヒースクリフと暮らしたって自分は一生浮かばれない。お金持ちのリントンと暮らせば、ぜいたくな暮らしができる。そのキャシーの思いを知ったヒースクリフはキャシーに対する恐ろしい感情にとらわれて悩むの。そして『自分は彼女を愛してしまった。自分の命よりも魂よりも』と愛を告白するの・・・でも、お金持ちのリントンはキャシーに結婚を迫るの、そしてキャシーはOKを出すの」
道雄はこの話に異様な興味を抱いた。
「それを知ったヒースクリフは絶望してアメリカに行ってしまう。ところが、本当はキャシーはヒースクリフのほうを愛していたの。彼女は言うの『私は彼がどんなに苦しんでいるかよくわかるの。彼の苦しみは私の苦しみ、彼の喜びは私の喜び・・たとえ世界が滅んでも彼さえいればそれでいい』と・・そして、自分はたとえ浮浪者のように生活しても彼と暮らしていこう。リントンとの結婚はやめようと考えたのだけど、その時にはもうヒースクリフはいない。そして、ヒースクリフを諦めリントンと結婚したキャシーを何年か後、アメリカで成功して大金持ちになり帰ってきたヒースクリフが復讐するの。こんなの素敵!私もこんな恋をしてみたい」
道雄はあきれてしまった。「もう、勝手にしたら〜っ」とサジを投げてしまった。

食事を終えた二人は、長谷寺を出て高徳院の鎌倉大仏のほうに歩いていった。途中土産物店が軒をつらねていた。ガラス細工、絵葉書、キーホルダー、テレホンカード、饅頭にサブレ。二人の財布には5800円。もちろん土産物を買う余裕はない。その時、特価品と書かれた黒い布の覆いのある台に、金メッキのつつじの花を模したブローチがあり、初江の目に入った。価格は五百円。初江が手を取って見ると、安物ではあるが、開くと中に写真が入ることがわかった。
初江は呟いた。
「これで五百円なら安いわね」
道雄は胸を張って宣言した。
「何だ、じゃあ一つ買ってやるよ」
「ほんと?」
「男に二言はない!」そう言うと、道雄は財布の中から、道雄の顔の写った一枚の証明書用写真を取り出し、ブローチに合わせた。道雄は驚いた。
「ぴったりだ!」
初江は尋ねた。
「でも、鎌倉大仏の拝観料が高いと入れないかも?」
「じゃあ、拝観料が高ければ、俺は入らない」
初江は寂しそうに言った。
「そう・・・」
道雄は五百円を出してそのブローチを買った。
高徳院、鎌倉大仏へのみちすがら、道雄と初江はブローチに写真を埋め込もうと必死になって試みていた。
「それにしても、よく写真なんてあったわね」
「べつに・・札幌でインスタント写真、ほら四枚六百円のやつ。あれが三枚残っていて、財布に入れていたんだよ」
二人は鎌倉大仏の入口まできて、恐る恐る拝観料の料金表を見た。

「二百円」

二人は「やった!」と喜び、拝観料を払って高徳院の境内に入った。入ってすぐ、新緑の丘陵を背景にした鎌倉大仏を見つけた。たもとには真っ赤なつつじの花が咲き乱れている。
初江は言った。
「あれが鎌倉大仏、そんなに大きくはないわね」
二人は観光客や行楽客でごった返す境内を大仏のところまで進んだ。
初江は拝観券の裏側を見て読み上げた。
「国宝、鎌倉大仏。総高13.25メートル、青銅仏身11.312メートル、重量12,512キログラムだって」
二人は大仏の横にある休憩所の腰掛けでブローチに写真を埋め込む仕事に熱中している。写真がはがれてこないように埋め込むのはなかなか難しい。
「できた!」
道雄が叫んだ。そこを初江が覗き込む。道雄はうやうやしく、そしてわざとらしく初江に申し述べた。
「奥さまに申し上げます。南アフリカで採れた百カラットのダイヤモンドを埋め込んだ純金製のブローチが手にはいりましたので差し上げます」
初江は優しく道雄に告げた。
「大切にするわ」
こうして二人は鎌倉大仏を後にした。

二人はその後、鎌倉の鶴岡八幡宮に詣でた。それから、江ノ電フリーパスで江ノ島駅まで乗り、江ノ島弁天橋から夕日を望み、片瀬江ノ島駅から小田急新宿行の急行電車に乗った。
電車は相模大野駅を出ると、暗い夕闇に包まれた。東京市街地の明かりを車窓に見ながら二人は話し込んだ。初江が言った。
「今日は楽しかったわ」
「うん」
「昨日までの仕事の辛さを忘れることができたわ」
「俺も、そうさ」
初江の表情は暗い。
「また、あの店に戻るのね・・・それに私休みは平日なの。もう当分は会えないわね」
「そうか。でも、日曜日の昼休みに店の近くの喫茶店で話でもしない。そうしようよ」
「いいわよ。ほんと、楽しみだわ」

やがて列車は小田急新宿駅に到着した。

その後、道雄は日曜になると京王線のつつじが丘駅へ出かけ、昼休みの公園のベンチや喫茶店で初江と楽しい時を過ごした。
二人は恵まれない職場の生活を逃れて、東京の街を楽しく遊び回った。
そして、ある日、初江のアパートで事に及んだ。二人とも初体験だった。事が済んで、道雄には初江が地上に降りた天使のように思えた。二人は二十歳になったら結婚しようと誓いあった。

二人の楽しい思い出であった。

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