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長編トラベルミステリー小説「急行八甲田の男」。9.解雇

男は郡山駅を過ぎたあたりで浅い眠りについた。ふと気づくと列車は夜明け前の雪あかりの中を、カタンカタンと静かに走っていた。やがて列車は岩手県中部の水沢駅へとすべりこんだ。ほの暗い駅のホームに何人かの乗客が降り立った。しんしんと雪が降っている。車内放送もなく、静かに列車は水沢駅を発車した。
暗い車内から激しい雪が降っているのがわかった。東北の雪である・・・。急行八甲田は凄まじい雪に逆らうように走ってゆく。男は再び眠りについた。
列車が東北本線を北上するにつれ、雪の深さは増してゆく。男が再び目を覚ましたとき、列車は、夜明け前の薄明かりの、一面雪の東北の広野を走っていた。高さ二十メートルはあろうかという潅木が、凄まじい雪と寒さに凍てついて、じっと耐えて立っている。
急行八甲田は、駅を高速で通過した。男は渋民(しぶたみ)という駅標の文字を読み取った。駅のホームには四十センチはあろうかという雪が積もっていた。駅舎の軒先には真っ白な一メートルはあろうかという長いつららが下がっている。車内は、途中駅の盛岡で乗客が降りたのか閑散としている。
急行八甲田は沼宮内(ぬまくない)駅に到着した。男は時計を見た。平成七年十二月二十九日午前6時39分。
沼宮内駅では一人のコートを着た駅員が11号車のデッキの車掌と何かを話こんでいる。その時、もう一人の車掌がデッキから車内へのドアを開けて、小走りで走ってくる。急行八甲田はもう五分近く沼宮内駅で停まっている。
おかしいと気づいた男の乗客の一人が、つれあいの女に言った。
「何かあったんだ・・」
「けんど、すごい雪だ。この冬は寒くなるって」
しばらくして車内放送が流れた。
「みなさん、おはようございます。ただいま急行八甲田号は沼宮内駅に到着しております。連絡によりますと、この列車の二本前の貨物列車が、先の区間で雪のため立ち往生しているとのことです。みなさまお急ぎのところまことに申し訳ありませんが、列車相当時分遅れる見込みです」
車内に、どよめきと、ため息がもれた。
男は、この車内放送にひどく驚いた。はたして余市にいつ着けるのか?男に不安がかすめた。
近くの乗客が通りかかった車掌に心配そうに聞いている。
「青森から津軽海峡線の函館行『海峡』には乗れそうですか?」
「はい、おそらくこのままでいきますと、青森駅9時29分発の海峡3号の接続は難しいと思います。一応列車無線で、青森駅にこの急行八甲田が到着するまで、発車を待ってもらうよう、列車指令に要請することにしています。ですから三十分くらいの遅れなら、海峡3号に接続できると思います。
ただ、接続ができない場合には、11時11分発の海峡5号になってしまいますね。実は岩手県、青森県に現在大雪警報が出ているらしいんです。ですから、各線の列車時刻が相当乱れているみたいなんです。申し訳ございません」
乗客は少し苛立ちながら尋ねた。
「電話はあります?」
「申し訳ないですが、この列車には電話の設備がないんです。沼宮内の駅建物になります」

それを聞くと、その乗客は席を立ちコートをはおって、雪が固まりすべりやすくなったホームに降り、公衆電話を探した。
雪は相変わらず、静かに、しかし恐ろしい勢いで降り続いている。沼宮内の街は真っ白である。屋根には三十センチを超す雪が積もっている。夜明け前の閑散とした道路をチェーンをつけた商用のバンが一台だけ走っていた。
ーーーー

9.解雇

平成元年五月の終わり。道雄は、あの「京葉自動車のイヌ」清掃工の井上の指導により、一人前に旋盤を扱えるようになった。梶田職長のいない時間を見計らって井上が現れると、道雄たちに旋盤の技術を教えた。
井上が驚いたのは、道雄には旋盤の作業に関して明らかに天性があるということだった。道雄は内向的な性格の持ち主であった。しかし、井上は長年の経験から、そうした性格こそが第一旋盤係の仕事に向いていることを知っていた。
五月の終わり、工場はやや暑苦しさを感じる季節であった。機械油の匂いがたちこめる中、今日は梶田職長がピリピリとして、何か叱る口実を探し回っている。隣の工員は少しドジなのか、時々失敗をする。梶田職長は気分がすぐれないと、その工員のあら探しをして怒鳴りつける癖がある。今日は特にそれがひどい。ある工員が言った。
「おい、なんか今日は鈴木重役が工場を見回るそうだってよ」
「なんだ。だから梶田の奴びびってるんだぜ」
社長やその取り巻きの重役たちは、工場を見回ることを極端に嫌っていた。ある銀行出身の役員など、「現場に行くと、背広が油で汚れる」と平然と口にしていた。
期末の棚卸で、やむを得ず役員たちがやってきた時、現場の工員は棚卸の現品票に百個の部品を、千個と書き込みわざと油をつけて置いておいた。やってきた役員はこんな汚いものとはかかわりたくない。と、そのまま通り過ぎた。これを工員たちは笑って見ていた。ある工員が油の入った缶をわざと倒し、油が床に溢れ、その役員の新品の靴は油まみれになってしまった。この件ではまたもやあの梶田職長が叱られていた。
現場の工員たちは、役員が来ると、「ここはお前たちが来るところではない」と拒否の態度を取っていたのだった。役員がやってきては、現場の士気を破壊するとんちんかんな指示をしていくことに、現場の工員たちはうんざりしていた。あげくのはては、工場に入る時に礼をしろなどと言い始め、半ば工員たちは頭にきていた。それを守るのは、ごますりで地位を得た梶田職長のような連中だけである。そうした現場の空気を察知してか、役員たちは次第に現場へ足を踏み入れなくなった。
しかし、一人だけ例外があった。工場担当の鈴木重役である。
鈴木重役は四年前に死去したアスカ産業の創業者である故飛鳥貢会長のもとで、昭和三十年創立された当時の飛鳥産業に工員として入社した。苦学して夜間高校を卒業し、飛鳥貢会長から奨学金を得て、東西大学工学部に学んだ人物である。大学に在籍した時期を除いて入社以来三十年以上、アスカ産業で働いてきた。この工場のことならどんなことでも知っているという生き字引のような重役であった。また、現場の工員たちの仕事を極めて厳しく見る人でもあった。楽天的な性格で面倒見が良いところもあり、工員たちも一目置いていた。
しかし、鈴木重役は最近疲労の色が濃い。去年稼働した栃木工場でも、最新式の機械導入を役員会で強く主張したのだが、社長と取り巻きの重役たちの陰謀に阻まれ、何もできなかった。そして、この不良品騒ぎである。かって飛鳥貢会長とともにアスカ産業を支えた重役たちはこの四年間に次々と会社を去り、今ではたった一人の味方であった、京葉自動車から出向した今井重役も解任されてしまった。しかも、かって自分が手塩にかけて育てた熟練工たちも、社長に取り入るのはうまいが管理者として無能な職長の大量の任命でやる気をなくし、クシの歯が抜けるように、次々と工場を去っていった。
梶田職長にとって一番怖いのは、社長でも、取り巻きの重役でもなく、鈴木重役だった。その鈴木重役が生産課長、工務次長を引き連れて第一旋盤係のところにやってきた。梶田職長は緊張して鈴木重役に何やら説明をしている。
その間、道雄はひたすら旋盤を回していた。簡単な部品の中ぐりである。ところが鈴木重役はしばらく道雄を眺めていると、やにわに道雄のところにやってきて、道雄が中ぐりを終え、切削油で黑びかりしている部品をとり上げた。これをしばらくじいっと見ている。梶田職長は少し心配になり、その近くにやってきた。
鈴木重役は梶田職長におもむろに尋ねた。
「この子は、今年の新卒かね?」
梶田職長は恐る恐る答えた。
「そうです・・」
「じゃあ、入社してまだ二ヶ月で、この部品の中ぐりをこんなにうまくやったのか!梶田くん、僕はきみを見直したよ。新卒の工員を二ヶ月でここまで仕上げるとは」
梶田職長は笑みを浮かべ答えた。
「おほめにあずかり、恐縮です。ありがとうございます」
鈴木重役は道雄にわざわざ声をかけた。
「きみがこの部品を中ぐりしたのかね?」
道雄は緊張して答えた。
「そうです・・」
鈴木重役は言った。
「きみは、明らかにこの仕事に適性がある。これからも頑張りたまえ」
道雄は答えた。「はい」と・・。だが、梶田職長は内心面白くないものがあったのか、道雄を怒鳴りつけた。
「『はい』じゃない!『ありがとうございました』と言え!」
道雄は立ち上がり「ありがとうございました!」と鈴木重役に一礼した。鈴木重役は若干戸惑いながら、「あっ、そう・・」と言って通路に戻っていった。
だが、道雄の心には一つのわだかまりがあった。自分に旋盤の仕事を教えたのは、あの「京葉自動車のイヌ」清掃工の井上である。その功績を梶田職長は見事に横取りしたのである。
ところが道雄は、近くの機械の陰で鈴木重役の話を聞いて「京葉自動車のイヌ」清掃工の井上が嬉しそうにモップで床を磨いているのを見つけた。
鈴木重役は、機械の陰にいる井上を見つけると声をかけた。
「よう!井上くん!」
梶田職長が一瞬ギクリとしたのが道雄にもわかった。井上は挨拶をした。
「こんにちは!」
鈴木重役は井上を励ました。
「きみを清掃工にしたくなかったが、社長や総務担当重役の方針でね、申し訳ないと思うよ。しかし、いつかきっといい日が来るよ。それまで頑張りたまえ」
井上は答えた。
「はい!」
そう声をかけると、鈴木重役は生産課長と工務次長を従えて次の工程の視察に向かった。

鈴木重役がアスカ産業の取締役工場長の地位を辞職するのを決めたのは、その一週間後だった。

道雄は重役に褒められ、天にも登る気持ちだった。これから旋盤の腕を磨けば、給与も待遇も良くなるはずだ。
ところが翌日工場に出勤して旋盤に向かおうとすると、梶田職長に声をかけられた。
「おい、お前は今日からそこの自動旋盤の計器を見張れ。それから自動旋盤の計器を見張っていた奴。お前は旋盤の仕事に復帰だ」
道雄は旋盤の仕事を外されて、ひどく驚いた。だが職長の命令は絶対である。仕方なくその日の午前中、自動旋盤の計器をただ眺めていた。
ところが午後になって道雄は梶田職長にこっぴどく叱られた。
「おい、お前今日何やってたんだ?」
「計器の前で座っていました」
「今日、大量の不良が出たのを知ってるか?」
「いえ、知りません」
そう聞くや、梶田職長は道雄を殴り飛ばした。道雄は唇が切れて少し血が流れているのがわかった。
「お前は生意気だ!プライドが高い!それがしゃくに障る。それで仕事が出来るかというと、自動旋盤の計器を見張ることもできない。お前のような奴には旋盤の仕事はできないんだ!」
そうして、この件は社長に報告すると告げた。
三日後、梶田職長は道雄にこう告げた。
「お前には、『これから三年間旋盤は一切さわらせるな』という社長命令をいただいた。まあこれから三年間、そこの計器を毎日見張る仕事をするんだな」
道雄は自分が将来敵になると見て、梶田職長が自分を潰しにかかったことを悟った。だが、道雄にはどうすることもできなかった。

平成元年六月はじめ、梅雨の走りの雨の日。アスカ産業の本社事務所は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。主要取引先である京葉自動車が、アスカ産業からの部品納入停止を通告してきたからだ。
六月十一日、社長出席のもと、取締役会が開催された。神妙な面持ちで取締役たちが会議室のテーブルに着いている。冒頭、営業担当の取締役は非常に言いにくそうにこう告げた。
「六月十五日をもって、京葉自動車からの部品納入を停止する旨を、京葉自動車の吉村重役名で、正式に文書で通告してきました・・」
社長は憤懣(ふんまん)やるかたない表情でこれを聞いていたが、営業担当取締役の話が終るや、その取締役を激しい口調でわめきののしった。
「一体、営業担当重役のお前は何をしていたんだ!お前のような無能な重役がいるからこんなことになるんだ!」
営業担当重役は半ばびくつきながら、反論した。
「しかし、問題の原因は不良を出した栃木工場の機械にある。これは設備関係の担当重役の責任で、私には責任はない」
設備関係、総務兼務担当重役はこの指摘に顔色を変えた。
「そんな、私に責任はないよ。たとえ不良品を出しても、なんとかして取引先と良好な関係を維持するのは営業担当重役の責任だ」
営業担当重役は設備関係、総務兼務担当重役に掴みかかった。
「何を言うか!貴様が栃木工場の設備購入で東京商事からキックバックを受け取らねば、こんなことにはならなかったんだ!」
設備関係、総務兼務担当重役は冷ややかにののしった。
「お前だって、貰ったじゃないか・・」
「何だと!この野郎!」
営業担当重役は総務担当重役をゲンコツで一発殴った。
「何をするんだ!」
総務担当重役は机の上にあった書類と湯呑み茶碗を営業担当重役に投げつけた。営業担当重役は頭からお茶をかぶり、逆上して総務担当重役と取っ組み合いのケンカを始めた。これを見ていた他の重役たちは席を立ち二人を止めに入った。
社長はしばらく天井をうつろに見つめていたが、やがて恨みがましい目であたりを見回したあと叫んだ。
「畜生!このままで済むものか!何としても京葉自動車に勝つぞ!まず『京葉自動車のイヌ』どもを全員解雇しろ!みせしめだ!・・・畜生!ふざけやがって!何としても会社を守るんだ・・・そうして・・そうだ!誰かいい考えはないか?・・ぶっ叩くんだ、あの京葉自動車を・・何としてもだ!」
その社長のうろたえぶりに、多くの取締役たちは「この人はもう駄目だな・・」という失望を感じた。
その時、経理担当重役がはたと手を打った。
「社長!いい考えがあります!」
社長はワラをも掴む思いで尋ねた。
「なんだね?いい考えとは?」
経理担当重役は説明した。
「現在、我が社の売上高のうち、京葉自動車の売上高は75億円、その他が25億円です。そこでその他25億円の生産をすべて栃木工場に集約します」
「ふむ、それで・・」
「そして、この本社工場を閉鎖して用地を売却してはどうでしょうか?その際、優秀な工員を栃木工場に投入し、ほかの連中を解雇して、利益体質を強化します。これによって何とか再起をはかります」
社長はこの提案に喜んだ。
「いい考えだ。とにかくいらない奴は首にしてしまえ。そしてこの会社を何としても守るんだ・・・そうだ!君を会社再建委員長に任命しよう。さっそく実行にうつりたまえ」
「ただ、問題は・・」
「問題は・・なんだ?」
「例の栃木工場の土地代金である二十億円の支払手形が、こままでは十一月落とせません。だからメインバンクの丸石銀行にかけあわないと・・」
「さっそくやりたまえ。とにかく、いらない奴や裏切り者は容赦なく首にするんだ。何としても会社を守る。これが至上命令だ!わかったな!」
取締役一同はこれに頷いた。

平成元年六月下旬の昼下り、道雄の工場では大会議室で人員整理の説明会が開かれた。演壇の労働組合委員長は苦しそうな表情で説明を始めた。
「みなさんも知っての通り、京葉自動車の悪辣(あくらつ)な手口により、取引を停止され、人員整理を余儀なくされた。我々労働組合としても、これに協力せざるを得なくなった。だから・・・」
「待ってくれ!」
工員の一人が委員長の言葉をさえぎった。
「そんな馬鹿な話があるか。従業員の雇用を守るのは経営者の義務だろ。委員長は少し弱腰じゃないのか。もっと強硬に経営側と話をしてほしい」
労働組合委員長は、ポケットから白いハンカチを取りだすと、汗をぬぐい反論した。
「そうはいっても、悪いのは京葉自動車であって、経営側に責任はないよ」
もう一人の工員が叫んだ。
「それで、我々に死ねとでも言うのか!」
「だからだね、そのことを労働組合も強く言ったんだよ。しかし、取引停止によって、仕事の75%がなくなってしまうんだ。だから労働組合もこれを飲まざるを得ないという結論にだな・・達したんだよ・・」
工員たちは、この委員長の説明に一斉に反発して、会場は騒然となった。
道雄のとなりの工員が、この騒ぎ関せずと、もう一人の工員と話を始めた。
「きのう川崎駅前の料亭に社長たちと労働組合委員長が入っていくのを見た奴がいるそうだ」
もう一人の工員がボソボソと呟いた。
「労働組合といっても所詮は会社に弱いのさ。札束で鼻先を叩かれればそれで終わりさ」
別の工員が囁いた。
「実はな、社長の腹としては、役に立たないと見なされた連中を本社工場に残して、最終的に本社工場を潰してみんなお払い箱という作戦らしいな・・」
「なんだ。そうすると新工場へ行くことのできる者だけが、この会社に残ることができるわけだな」
「そうだ・・」

集会の数日後、工員の異動が発表された。新工場へ行く者は、自分の名前を見つけ安堵したが、本社工場へ行く者の表情は暗かった。道雄は必死になって自分の名前を探した。

「あった!」

しかし、道雄の行く先は本社工場だった。道雄は途方に暮れた。家賃はどうしようか、毎日の食費はどうしようか。これといった技能もなく、学歴も中卒であり、相談をする仲間もいない。道雄は肩を落として下宿に帰った。

下宿の家主は、どこかからアスカ産業の話を聞きつけて、道雄の下宿を訪ねてきた。
「あの木村さん。あなたの工場がなくなるという話を聞いたんだけど、家賃のほうは大丈夫?」
道雄は、これを聞くとぎくりとした。
家主は続けた。
「とにかく家賃が払えないなら、出ていってもらうしかないわね」
「出ていってもらうしかない」という言葉に道雄は肝の縮む思いがした。道雄は答えた。
「でも、まだ退職が決まったわけではありませんから」
家主は言った。
「どう、もう北海道に帰ったら?」
道雄は再びぎくりとした。自分は青雲の志を持って東京へ出てきたのだ。それを途中で放り出すことはできない。「なんとか頑張ります」と答えた。
家主は「とりあえず今日は帰るから」と言って出ていった。

翌日、工場に出勤していつもの自動旋盤計器パネル監視位置につこうとすると、梶田職長に冷ややかに言われた。
「お前は、もうここで働く必要はない。人事課長の命令だ。第三集会室に行け」
道雄は梶田職長を睨みつけると、黙って第三集会室へ行った。そこには今年中卒として入社した工員たちがみんな集まっていた。道雄は直感的に辞職の勧告だということを悟った。そこにいた人事課長は清潔感のない、黒ずんだ顔の男だった。もう本木さんは会社を退職していた。人事課長は工員たちにかんで含めるように退職の説明を始めた。
「ところであなたたちも、かねてから噂で聞いていたと思うが、当社アスカ産業は京葉自動車からの受注がなくなり、今後この状況が長く続くことになった。
そこでアスカ産業では生産を新工場にすべて集めることでこの苦況を乗り越えることになった。つまり本社工場はなくなる。ここにいる君らは、今年採用でみんな本社工場に配属されている。だから、申し訳ないが辞めてもらうことになった。もちろん労働組合も承知のことだ」
全員に動揺が走った。道雄もショックを受けた。これからどう生きていけば良いのか?
人事課長は続ける。
「君らはまだ若い。これからまだやり直しはいくらでもきく。君らには月給の三ヶ月分の退職金を払う。それでは、退職するかどうか良く考えてくれ」
その日から、道雄たちは工場の草むしり、清掃、工場建物の塗装といった仕事を毎日させられ、その月の月給は半額に減らされていた。こうして道雄は三ヶ月分の給与をもらい会社を退職した。

七月中旬、梅雨末期の豪雨が降りしきる頃、初江に新しい男ができた。
ある日の午後三時、スタミナ・ベーカリー。初江は豪雨の中、客の来ないレジの前に一人立っていた。
「よく降るわ・・」
そう思いながら店の外を見ると、一台の紫色のポルシェが停まった。中から、一人の男が雨を避けるように店内に入った。男は背中に「TOUZAI.UNIV.」のネームと校章の入ったTシャツに汚いジーパンをはいている。初江は「ああ、東西大学の学生ね」と思った。
男はパンをハサミで取りながら「あんまりうまそうじゃねえな」とブツブツ言いながら、手早くパンをトレーに取ると初江の前にトレーを置いた。
「えーっと、メロンパン、アップルパイ、栗パン以上で三百六十円です」
男は放心したように初江の顔を見つめている。男は千円札を出すと、「釣りはいらない」と言った。
「困ります、そんな・・」
だが男は黙って、雨を避けポルシェに乗り込むと、ポルシェは轟音を立てて雨を蹴散らすように走り去っていった。
翌日、相変わらず梅雨空は続いている。午後三時ごろ「もう、一週間も降っている」そう思いながらレジの前に立っていると、またあの紫色のポルシェが、水を跳ね上げて店の前に停まった。男は雨を避けるように小走りで店の中に入ると、パンをじいっと、選らんでいる。そしてパンを載せたトレーを初江の前に置いた。初江はレジを打った。その間、またもや放心したように初江を見つめている。
「ええっと、四百五十円、いや、ごめんなさい。四百三十円ね・・」
男は千円札を出すと、「お釣りはいいよ」と言って立ち去った。初江はひょっとしてこれから毎日来られたらどうしようか・・と心配した。道雄とのこともあるし・・・。
轟音を立ててポルシェは雨の中、走り去っていった。ふと、雨脚が強くなり、すごい音を立てて雨が降りしきる。一閃雷光が光ると、轟音を立てて雷鳴が轟いた。
それから四日間、午後三時になると、その男が現れた。六日目の相変わらず雨の降る日。男はパンを取ると、レジの前に来て初江に切り出した。
「ねえ、明日ドライブに行かない?」
初江はこの申し出に戸惑った。
「ええ、でも・・・」
男は言った。
「週六日出勤とすれば、君は明日休みだろ?」
なるほど、そういう計算だったのか。だから六日も店に通ったのだ。
「でも・・・」
「いいじゃないか、たまの休み一日くらい」
まあ、それくらいいいだろうと考え、初江は答えた。
「それじゃあ、明日・・」
男は喜んだ。
「場所はここの京王線つつじヶ丘駅前、必ず来てよ」
そう言うと、雨の中、男はポルシェで走り去った。
翌日、朝八時、梅雨の去った東京の空は青かった。はるか南に夏の入道雲が見える。初江の前にあの紫色のポルシェが停まった。車のドアが開くと、初江は助手席に乗った。

それから二週間後、道雄は初江のところに電話をかけた。道雄は明日の日曜日、店の近くを散歩しないかと誘った。だが、もう初江にはあのポルシェの男しか目に入らなかった。初江は穏やかな口調でこう告げた。
「私たちもう別れたほうがいいかもしれないわね」
道雄は驚いて問い返した。
「なぜ!」
「私、別に付きあっている人がいるの」
道雄はこの一言にショックを受けた。初江は続ける。
「沢本さんて人。この間ドライブに行ったら、帰りに百貨店で、三万円もするスカーフをポンと買ってくれたわ」
道雄は、これに何か引っかかるものを感じた。
「別れるにしても、そのスカーフは返せよ。どうせロクな奴じゃない」
初江はこの一言にカチンときて、ついに残酷な言葉をあびせかけた。
「ロクでもないって、あの人は東西大学の学生よ。あなたのような中卒の、工員を辞めた人よりはずっと立派よ!」
道雄はこの言葉に深く傷ついた。だが、初江はさらに残酷な言葉を道雄にあびせかけた。
「それにね、ご両親は江東区で沢本工業という工場を経営していて、本人に一億円の預金があるとか言ってたわ。あなたと一緒にいても、このあいだの江ノ島の貧乏旅行をするのが落ちだわ。私ね、この人と同棲することに決めたの。店ももう辞めたわ。生活費は沢本さんが全部面倒をみてくれるって。将来はご両親に話して、正式に結婚したいと言ってたわ。あなたはいい人だと思うけど、沢本さんに比べればどうかと思うわ。もう電話かけてこないでね」
そう言って初江は電話を切った。

道雄は一人下宿に帰り、涙にくれた。工場を辞め、家主からは立ち退きを求められ、初江にまで振られてしまった。

道雄はショックで寝込んでしまった。

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