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長編トラベルミステリー小説「急行八甲田の男」。10.再会

平成七年十二月二十九日、午前7時40分。沼宮内(ぬまくない)駅に停車していた急行八甲田は、ガタン!という衝撃とともに再び動き出した。雪はさらに勢いを増し、街は凍てついていた。沼宮内駅を発車してしばらくすると、東北の雪の広野が再び広がった。急行八甲田は静かに、しかし早い速度で一路青森へと驀進(ばくしん)した。
列車は猛烈な雪のなか、八戸、三沢、野辺地(のへじ)、小湊(こみなと)と停車して、野辺地駅を過ぎると、雪の降りしきる、重苦しい津軽の灰色の海が広がった。荒々しい波が岸壁に打ち寄せ、白く砕け散る。北海道に行く若い女の一人が叫んだ。
「わあ!海!」
「すごーい!」
雪は海に静かに、しかし叩きつけるように降り続いている。
しばらくすると、急行八甲田は浅虫温泉駅に到着した。ホームのむこうには荒々しい海が横たわっているが、雪で視界が遮られ良く見えない。浅虫温泉駅に数人が降り立つと、すぐに列車は発車した。
浅虫温泉駅を発車すると、車内は落ち着きがなくなってきた。青森まであと二十分である。乗客が車掌をつかまえて、青森駅からの連絡時刻についてさかんに尋ねている。そうしているうちに、急行八甲田は青森市街へと入ってきた。
雪の青森市街はひっそりとしていた。この吹雪をついて家の人達が屋根の雪降ろしをしている。列車は東青森駅の雪にうずもれた操車場の横を抜けると、列車は徐々にスピードを落とす。はるか彼方の青森市街中心部のマイクロウエーブ中継塔が、降雪の中、かすかに見える。
列車の案内放送が流れた。
「みなさん、ながらくのご乗車お疲れ様でした。あと五分で終点の青森駅に到着します」
乗客たちは一斉に荷物棚の、重い荷物を降ろし、コートをはおりだした。
「青森駅からの連絡時刻をお知らせします。この先、津軽海峡線、函館行臨時の快速海峡5号、11時11分6番線。津軽線、蟹田行普通列車10時56分4番線。奥羽本線、弘前、大館、秋田方面、特急いなほ12号新潟行10時28分5番線。なお、いなほ12号、この列車、急行八甲田号の到着を待っております。橋をわたって5番線に少々お急ぎください。その後、普通列車の弘前行10時53分5番線。本日は列車雪のため遅れましたことをおわびします。青森駅に一時間二十分遅れで到着です。本日は急行八甲田号をご利用くださいましてありがとうございました。列車は青森駅1番線に到着です。お出口は左側です。なお、ホーム雪のため大変滑りやすくなっております。お降りの際には充分ご注意下さい」
やがて、駅構内のポイントを渡り、列車が左右に大きく揺れると、列車は青森駅1番ホームへと入線した。
急行八甲田が到着して、ドアに固着した雪をはねのけるように、二つ折りの狭い車端部のドアが開くと、乗客たちが、足元に注意しながら大きな荷物を持って降りてきた。駅の案内放送が、列車の終着と乗り換え列車を案内していた。
「青森~っ!青森~っ!終着青森です!奥羽本線、弘前、大館、秋田方面お乗り換えの方は、橋を渡って5番線停車中の『いなほ12号』新潟行10時28分発に少々お急ぎください!」
乗客の何人かは、両手に荷物を持って足元の雪を気にしながら、跨線橋の階段を足早に登った。
男はデッキから列車を降りた瞬間、凄まじい寒さにちぢこまった。雪は横なぐりになり、ホームにも容赦なく雪が舞い込んでくる。男は自分が乗ってきた急行八甲田を見て驚いた。列車は真っ白な雪で覆われ、連結部には長いつららができていた。昨日の晩、上野駅に入ってきた列車と同じとは思えない有り様だった。
男は、滑りやすいホームを歩き、人がいない海側の青森港のほうの跨線橋を渡って、6番線に急いだ。まるで人目を避けるように・・・。
そこには、函館行快速「海峡5号」がひっそりと停車していた。男は自動販売機で暖かい紅茶の缶を買うと「海峡5号」の「自由席」の表示がある車両に乗り込んだ。その車内の暖かさに男は一息ついた。列車の床は、解けた雪で濡れている。
まだ、発車まで三十分近くある。それでも、先ほど到着した急行八甲田からの乗り換え客で座席は埋まっている。前の席の二人連れの学生風の男は、駅ホームの立ち食いそば屋で、ポリエチレンの容器に入った天ぷらそばを二つ買ってきて、「熱い、熱い」とふうふう言いながら美味しそうに食べている。
横の客のところには、青森駅立ち売りの「ホタテ釜飯」とお茶が置いてある。車窓の雪景色を見ながらパクつこうというわけなのだろう。
だが、その男は弁当すら買おうともしない。全く食欲というものがないのだ。男は、コーヒーよりさっぱりした紅茶の缶を開いたが、一口飲むと気持ちが悪くなって、それ以上飲めなかった。ただ、目が異様にらんらんと光っていた。席についてしばらくすると、急行八甲田でほとんど眠ることができなかった男は、車内の暖かさに激しい眠気に襲われ、眠りに落ちた。

11時11分、ピイーッという警笛とともに、機関車に引かれた快速海峡5号は、「ガタン!」という衝撃とともに静かに青森駅を函館にむけ発車した。男が目を覚ますと、真っ白な青森市街の雪景色が再び車窓に広がった。
やがて一面、重苦しい雪の広野が広がった。列車は瀬辺地(せへじ)駅を過ぎると津軽湾の沿岸を走り始めた。ほの暗い鉛色の荒れ狂う海に雪が降り続いている。沿岸の雪で真っ白になった松の木に、容赦なく雪が吹きつける。ふと、車窓に雪に埋もれた墓地が男の目に入り、一瞬、男はゾッとした。沿岸の漁師の家に容赦なく雪が叩きつけていた。はがれたトタンが風に揺れている。
男は、白く曇った列車の窓に頭をつけて死んだように眠っていた。ふと、停車の衝撃で起きると、列車は蟹田駅に到着していた。駅には数人の乗客が降り立った。列車は蟹田駅で乗務員がジェイアール東日本の乗務員からジェイアール北海道の乗務員に交代する。ジーッという暖房ヒーターの静かな音が車内に響いていた。ガタン!という衝撃で海峡5号は再び雪の広野に延びる凍てついた鉄路を静かに動き始めた。蟹田駅の除雪していないホームの端は一メートル近い雪が積もっていた。海峡5号は次第に加速すると、凍てつく津軽半島のわびしい真っ白な雪原を、一路北海道函館へと向かった。男はこの景色を眺めながら、列車のまるでゆりかごのような心地よい振動に再び眠気に襲われ、むさぼるように眠った。
男は眠り込んで、列車が青函トンネルに入ったことには気づかなかった。男がふと浅い眠りから覚めると、函館行海峡5号は青函トンネルの暗闇の中をゴオーッという音を立てて走っていた。
やがてトンネルの長い暗闇を抜けると、北海道の真っ白な雪の世界が広がった。雪は本州側より深く、そして激しく降っている。凍てつくような外の寒さとは裏腹に、海峡5号の車内は暖かい。いや、暑いくらいだ。外は激しい雪が降り続いている。夏には青々とした牧草の広がる放牧地の丘も、今は一面深い雪に覆われて凍てついていた。客車内部の白い天井は、外の雪明かりの反射でとても明るく輝かしい感じがする。
男の前の年配の、今は二人だけの夫婦は車窓の雪景色を楽しんでいる。妻がさりげなく言った。
「すごい雪ね・・・」
「そうだな。年末にはめずらしい・・・」
木古内(きこない)駅を過ぎてしばらくすると、列車は低気圧の接近で荒れ狂う津軽海峡の海岸線を走り始めた。激しい雪で海は百メートル先が見えない。列車の曇った窓ガラスを男は手で拭いた。

平成七年十二月二十九日13時30分、函館行海峡5号は函館市内へと入ってきた。海峡5号が、函館のひとつ前の駅、五稜郭(ごりょうかく)駅を通過すると、車内放送が流れた。
「本日は海峡5号函館行をご利用くださいましてありがとうございます。列車はあと五分で終点の函館に到着です。函館からの連絡列車のご案内をいたします。函館本線、長万部(おしゃまんべ)、東室蘭方面、札幌行特別急行北斗13号、15時07分八番線。七飯(ななえ)、大沼、森方面、普通列車、渡島砂原(おしまさわら)回り長万部行、14時06分0番線です。本日はジェイアール北海道海峡5号をご利用ありがとうございます。列車は6番線の到着。お出口は左側です。」
男は、函館から15時07分発札幌行特別急行北斗13号には乗らないことにした。この列車では余市に夜についてしまう。男は函館から札幌まで今夜の夜行に乗ることに決めた。
そうしているうちに海峡5号は函館駅ホームに到着した。大勢の乗客たちが列車進行方向、函館湾の海に向かって、跨線橋のほうに歩いている。機関車の前面にはすごい雪がはりついている。この雪の中、作業員が機関車と客車の切り離し作業をしている。雪は横なぐりに、ホームに舞い込んでくる。乗客は白い息をはきながら、跨線橋から改札口へと向かって歩いている。

男は時間を潰すため、函館山へと向かった。もう、自分は何年か、下手をすれば十年くらいこんな旅行はできないだろう。男はそう思った。
だが、何としてもある目的だけは絶対に果たさねばならない。そうして、自分はこの思い出だけを胸に、ただひとつの心の頼りにして長い牢獄生活に耐えねばならない。
男は函館駅の改札口で、今日の23時30分函館発、札幌翌朝6時30分着の夜行列車の時間を確認すると、意を決して、雪の舞う函館市街へと飛びだした。行き先は函館山山頂である。
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10.再会

それからの道雄の消息であるが、北海道の実家に戻り、農作業を手伝いながら、小樽の職安に通って仕事を探した。
平成二年の春、道雄は小樽の職安で、かって勤務していたアスカ産業の求人票を見つけた。
電話をかけたところ、人事の本木さんが出てきた。本木さんはアスカ産業に復職して、人事の仕事に復帰したという。本木さんの話では、アスカ産業は平成元年十二月に会社更生法の適用を受け、事実上倒産。社長たち重役陣は総退陣。梶田職長は首になったという。
それで、本木さんから、また会社に戻らないか?という誘いを受けた。会社は京葉自動車と丸石銀行の支援を受け、京葉自動車との取引が再開。人手が不足しているとのことだった。
道雄は、再び会社に戻る決意をした。平成二年五月のことである。
会社に戻ると、清掃工である井上さんは、第一旋盤係の職長に復帰していた。社長は、京葉自動車、会計課から出向した今井さんだった。工場担当重役の鈴木重役が、会長に就任していた。
道雄は、会社の勧めにより、通信制の高校で勉強して、高卒の資格を取った。
平成七年の今では、第一旋盤係の職長になっていた。

ただひとつ問題は、悪い遊びを覚え、ソープランドにたまに出入りするようになったことだ。

そして、平成七年十二月二十八日。道雄が急行八甲田に乗った日の午後六時。道雄は新宿、歌舞伎町のヴェーヌスベルクというソープランドに入った。
男はある浴室の前で、番号札を持って待っていた。次は自分の番である。三十分くらいすると、一人の男が出てきた。道雄は、浴室のドアを開けた。そこには白いセパレート姿の女が立っていた。女は尋ねた。
「いらっしゃい。今日はどうするの・・・」
道雄はそのソープランド嬢の顔を見、視線を合わせてハッとした。女も、入ってきた男が何者であるか?を理解した。女は慌ててバスローブに身を包み肌を隠すと、浴室の隅にうずくまって涙声で一言叫んだ。

「お願い!帰って!」

道雄は、ただ呆然としてこの女を見つめ、やがて床に崩れ落ちると怒りにうち震え、床をこぶしで何度も叩きつけた。そう、女は初江だったのだ。

二人はお互いに、しばらくの間、黙っていた。道雄がふと初江の、うち震える横顔を覗き込んだ時、その横顔の美しさに思わず見とれた。初江はこの七年間の間に、少女から大人の女性へと変貌していた。その美しさに道雄は何か胸の締めつけられる思いがした。
初江は震える声で尋ねた。
「何しに来たの・・」
「何しにって・・・」
道雄は初江を勇気づけるため近くに寄ろうとした。初江は道雄に「近寄らないで!」と言った。
「なぜ?」道雄は歩を止めた。
「あたし、梅毒なの。だから、近寄らないで・・」
道雄は驚いた。
「じゃあ、今出ていった男は・・」
「そう、もう梅毒ね」
道雄からは、もう店に入る時の情欲は消え失せていた。その初江を見つめる目は、かわいい自分の妹を見つめるような穏やかな目にかわっていた。その崇高な気分は、何とも言えなかった。それは、苦しみでもあり、同時に、あの情欲とは比べものにならないほどの喜びでもあった。その不思議な気分が、初江の気持ちをやわらげた。
道雄は尋ねた。
「しかし、どうしてこんなところに・・・あの沢本とかいう男と仲良くやっていると思っていたよ」
初江は、この一言に唇を噛んだ。
「あんな男。あなたのほうがずっと良かったわ」
「でも、どうしてこんなことに?・・」。初江は、道雄と別れたあとのことをぽつり、ぽつりとした口調で話はじめた。

スタミナ・ベーカリーに来ていた、あのポルシェに乗った男、沢本は、しばらくして初江と同棲をはじめた。沢本は、沢本工業を経営する両親と離れ、マンションで暮らしていた。そのマンションで、二人は愛欲のおもむくままに日を過ごしたが、ある日初江はひどい吐き気を感じた。つわりである。
ところがその日から、沢本はマンションに寄りつかなくなった。
数日後、初江はポルシェの男のマンションに、一人、母親になる期待を胸に男の帰りを待っていた。
ドアのノックの音がした。「あの人かしら?」と思いドアを開けると、屈強な男たちが初江を掴み、エーテルをかがせて連れ去った。
ふと気づくと、初江は産婦人科医の手術室に連れ込まれていた。医師が初江に麻酔をかがせ、初江に「ひとつ・・、ふたつ・・」と数を数えさせはじめた。初江は叫んだ。
「お願い!やめて!」
だが意識はもうろうとなってきた。

それから三時間後、初江はマンションで目を覚ました。そこには父親と母親がいたが、あのポルシェの男はいなかった。
母親は言った。
「あなたには、息子と別れてもらいます」
だが、初江はただ泣いているだけだった。母親はたたみかける。
「手切れ金はいくら?」
「そんな問題ではないんです。どうしてわたしはこんな目にあわなければいけないんですか?」
母親は続けた。
「いくら?」
「お金の問題じゃないんです。この人と別れては暮らしていけません」
父親は言った。
「あなたね、はっきり言うと、息子はあなたを結婚相手とは最初から考えてはいなかったんだよ」
初江は驚いた。
「あなたで三人目よ」
母親の一言で、初江は自分が騙されていることに初めて気がついた。
母親はバッグから書類を取り出し、言った。
「どうやらわかったようね。この場合、三百万円というのが妥当なところね。そして、もう二度と息子とは会わないというこの念書に判を押してね」
父親は「まあ、良く考えてみることだ。もし決心がついたら、ここに電話して」と連絡先を書いたメモを取り出した。そのメモを残して両親は帰っていった。
母親はマンションの階段を降りながら父親に心配そうに尋ねた。
「だいじょうぶ?警察沙汰になったら事よ」
「だいじょうぶさ。いいか、中卒の連中は法律なんて知らないんだ。だから少しくらい手荒にやっても、こちらを訴える、なんてことはしない。札びらで叩けば折れるよ」

初江はしばらく泣いていたが、やがて泣きやむとマンションの自分の持ち物を整理し始めた。衣類の入った箱を持ち上げた時、鎌倉で道雄から贈られたつつじの花のブローチがふいに転がり落ちた。初江は箱を置いてこのブローチをハッとして取り上げた。
つつじの花のブローチを開き、道雄の写真を見て、彼への思いを新たにした。そう、自分はあの沢本なんて男は好きでもなんでもなかったのだ。ただあの男がカネを持っていて、よさそうに見えただけだった、それだけのことだったのだ。
沢本への愛は木の葉のようなもの。冬が来れば散ってしまう。だが道雄への愛は目を楽しませないが、大地のように、たとえ何がおきても変わらない。しかし・・・自分は堕胎したのだ。その罪悪感が初江を苦しめた。
意を決して道雄の下宿に電話をかけてみた。だがすでに道雄は下宿を引き払ったあとだった。管理人に道雄の行方を尋ねても「知らない」という返事が返ってくるだけだった。これに、初江は落胆した。
それから一週間後、初江は沢本親子の申し出を受け入れた。

その後初江は職もなく、三百万円のカネで生活をしていた。しかし、そのカネもなくなり、スーパーのレジのアルバイトで働いた。だがそれは食べていくだけの仕事という意味しかなかった。
覚えているのは、京王線つつじヶ丘駅を電車で通った時だ。新装開店のアドバルーンが沢山あがっている。ヨロコビドーつつじヶ丘店が開店したのだ。初江は気になって、京王線つつじヶ丘駅を降り、かってのスタミナ・ベーカリーの店舗の前に行った。店はシャッターがおろされ、シャッターの上には塗装スプレーでイタズラ書きがしてあり、「貸店舗」の貼り紙が風に揺れていた。
初江はひどいむなしさを感じた。
しばらくして、バーの女給に最初アルバイトで出るようになったが、やがてこれを生計を立てるための仕事にした。

そんな仕事をしていると、ある夜、歌舞伎町で一人の浮浪者風の男がヤクザに半殺しにされていた。
ヤクザは凄んだ。
「この野郎!カネも無いのに女と遊びやがって!カネ払え!カネ!」
その浮浪者風の男を良く見ると、あのポルシェの男、沢本だった。沢本は土下座してヤクザに謝った。
「すいません!会社が倒産してカネが無いんです」
ヤクザは怒った。
「野郎!ふざけやがって!たたんじまえ!」
ヤクザたちは、これに意を得てさらに激しく沢本をいたぶった。沢本ははいずり回り、鼻血を道路にこぼしながら土下座を繰り返していた。ヤクザはこれを面白がり、さらに殴る蹴るの乱暴を繰り返した。
初江はこの光景をしばらく見たあと、その場を立ち去った。

「アッカラ」というバーの女給をしているとき、仲間の女がこう誘った。
「ヘロインをやってみない?」
初江ははじめ断ったが、「いや、一度だけでいいから。気にいらなければ、やめればそれまでよ」と勧められた。
カネもあるし、好奇心で勧められるままにヘロインに手を出した。だが一度ヘロインに手を出せばもうやめられない。しかし、女にとってヘロインを買う大金は、売春によってしか得られない。こうして初江はソープランド嬢に身を落とした。
だが、そこに福本というヤクザが現れた。福本は初江を脅した。「お前がヘロインを常用していると警察にタレ込めば、お前は刑務所行だ」、と・・。こうして、初江は今のソープランドに百万円で売られたのである。

道雄はこの初江の話をただ黙って聞いていた。初江は話をすっかり終ると道雄に尋ねた。
「あなたは・・今・・・何をしているの?」
「俺は今、アスカ産業に戻って、第一旋盤係の職長をしている」
「そうなの、それは良かったわ」
「通信制の高校で、高卒の資格を取ったよ」
「そう、それは良かったわ」
初江は道雄を見つめた。初江に見つめられて道雄は背筋が凍るのを感じた。初江は続ける。
「わたし堕ちたのね・・堕ちるところまで・・・。わたしの人生で、いい思い出なんてないわ。わたしの人生って、まるで苦しみから生まれたみたい。小さい時に会社は倒産して、優しかった母親も死んでしまった。代わりにやってきた継母に父親を奪われ、家から野良猫のように追い払われ、東京へ出てきても、いじめられっぱなし・・・都会の人は利益があると見れば利用するだけ利用して、利用価値がなくなれば、ぼろ布のように捨てていく・・・」
道雄は考えた。とにかく初江をここから救い出すべきだ・・・と。道雄は勇気を出して、こう言った。
「初江さん。今から俺のアパートで一緒に暮らさないか?」
「でも、わたしはこんな仕事をするまでに身を落とした女。あなたにはふさわしくないわ」
道雄は初江に言った。
「過去のことはどうでも良い。大切なのは、今、何をするかだ」
初江は驚いた。
「それは、わたしの過去を許してくれるということ?」
「そうさ」
「あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、わたしの人生は、汚れて、みじめで、人様に顔向けができないひどいものよ。一緒になるって、そんなことできるの?」
「できる。だから、勇気を持って新しい人生をはじめよう」
初江はこの言葉にかすかな希望を感じたのか、道雄にこう尋ねた。
「こんなわたしでも、一人の女として扱ってくれるのね?」
道雄は答えた。
「ほかの男とは違う。昔の美しい思い出がある」
初江はこの言葉に自信を取り戻した。
「もう、昔のことは、今のわたしにとっては、関係のないことね」
道雄は確信を持って告げた。
「俺たちの人生は、これから新しく始まるのさ」
初江は「じゃあ、着替えてくるから」と控え室にひきかえした。
五分ほどすると、初江は控え室で着替えて、道雄の前に現れた。白の柔らかな毛糸のセーターに薄い黄色のスカート、清楚な白のコート。そして手には白い靴。初江は持っていたハンドバッグから、つつじの花を模したブローチを取り出した。
「これ、覚えてる?」
「ああ、あれ!」
「そう、鎌倉へ行った時にあなたがくれたものよ」
そう言って、ブローチの前面を開けると、東京へ出た頃の道雄の写真が埋め込まれていた。
「これはわたしの大切な宝物よ。だから大事に持っていたの・・」
そして、初江は道雄への愛を語った。
「わたしは金のために体を売る女。体はそうでも、わたしの心と魂はあなたの元にあったの。それを、このブローチを見ることで確かめていたの」
道雄は、初江を連れていこうと、初江の手を取った。初江の手はかすかに震えていた。
「わたし馬鹿ね・・こんな仕事をしているのに、手を握られただけで震えるなんて・・」
道雄はこれを聞き、背筋が凍りつく思いをした。初江は言った。
「裏口には、福本というヤクザがいるわ。見つかると半殺しよ。このさい正面から逃げましょ」
道雄と初江は浴室正面のドアを開けると、順番待ちをしている客を後目に、正面玄関から出ようとした。それに気づいたボーイが二人を制止した。
「お客さん。店の子を勝手に連れ出しては困ります」
初江は言った。
「わたし、今日限りで辞めるの。じゃあね」
ボーイは血相を変えた。
「この野郎!そうはさせるか。初江!お前には金がかかっているんだ!」
ボーイは凄い勢いで道雄に殴りかかった。道雄はこれをかわすと、近くの傘立てをボーイに投げつけた。ボーイはその場に倒れ込んだ。
「今のうちよ。福本に捕まると大変よ。新宿駅まで走りましょ」
道雄と初江は、手を取りあって、夜の新宿の街へ飛び出した。

ボーイは立ち上がると、裏口の方向へ、「福本さん!福本さん!」と叫んで走っていった。

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