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短編集、彼岸花。足切りの男

足切りの男

(時は、紀元前、古代中国、群雄割拠する春秋戦国時代。衛の国の宰相であった孔子は、悪臣の讒言(ざんげん・人を陥れる根も葉もない中傷)によって、反乱者の汚名を着せられ、衛の皇帝から捕縛の命令が出される。孔子は弟子たちとともに、衛の国を逃げ出した。
なお、岩波文庫『韓非子』金谷治校注、外儲説(がいちょぜい)の一説話から話を創作した)

世の中が乱れると、必ず孔孟の書物が手に取られ人々に愛読されるというのは、世の習いである。為政者の道徳観念、正邪善悪の観念が欠落して、世が乱れると、世の中の貧しい人々や身分の低いインテリたちが、乱暴狼藉を働く為政者へのレジスタンスの意味を込め、孔子の「論語」の一節などを引用して、こうした悪人たちを糾弾したという。
孔子は、今から二千年以上前の、中国、春秋戦国時代に生まれた。孔子は、中国国内の戦乱と人心の荒廃に心を痛め、弟子たちと共に中国国内の群小乱立する国を仕官を求めて彷徨い歩いた。
しかし、永住の地を見出すことなく客死した。その孔子の言葉、起居動作というものの記録や弟子たちの記憶が、弟子たちによって編纂され、「論語」という書物が生まれたのである。
晩年、孔子は嘆息して、中国社会の人心、道徳の荒廃を嘆き、かって、人々が和睦して平和な暮らしをしていた周の時代を懐かしみ、「何ぞ徳の衰えたる・・・周の礼や、周の礼や・・(かっての周の時代のように、小さな国で人々が和睦して助け合って暮らした時代が懐かしい)」と述べたと伝えられる。

その孔子が、衛の宰相だった時のことである。

衛の国の宮殿の、南に面し、玉座に威厳を持って座した衛の年老いた皇帝の前に、二人の悪臣が跪き、孔子とその弟子たちの反乱の陰謀を申し上げている所だった。悪臣の一人は、切羽詰まった口調で申し上げた。
「大王さま!私、今日、故あって、この場に参上いたしました。実は、余りに恐ろしいことがらなので、申し上げるのも恐れ多い感じがします」
もう一人の悪臣も跪きひれ伏して申し上げた。
「日に暈(かさ)がかかると、逆賊が起こるという言い伝えがあります。そう、先日も日に暈がかかっておりました。私、それを見て、身震いがいたしました。やはり、あの仲尼(ちゅうじ・孔子のこと)め、民衆をなつけ、恐ろしい大逆を企んでおりました」
その言葉を、衛の君主は黙って聞いていた。衛の年老いた皇帝は、性格は残忍で、猜疑心が強い男だった。そして、猜疑心の強さは、年々ひどくなる一方で、無実の民衆が、時として皇帝の怒りに触れ処刑されるという事件が度々起こり、孔子は衛の皇帝に諫言(かんげん・目上の上司に注意の言葉を申し上げること)を行い、皇帝から不興を買っていた。

何より、最近、衛の民衆に皇帝である自分よりも孔子やその弟子たちのほうに人気があることを年老いた皇帝はひどく苦々しく思っていた。「こやつら、今にわしの君主の座を危うくするかもしれない」と、根も葉もない疑いを抱き、心中穏やかでなく、その孔子と弟子たちの人気に嫉妬していた。衛の国は、人口の少ない小国である。そこに、孔子のような有能な奴がいるのでは自分の身は危うい。いや、たとえ、自分の生きている間はそうでなくとも、自分が死に我が息子の安慶王子が王になった時、あの孔子と弟子どもは、子の指示に従うだろうか?民衆の人気を良いことに、子を追い払いはしないか?そのように考えると、夜も安心して眠れない。その秘密の思いを、この悪臣が、妾を使って皇帝の寝言から探り出し、今日の讒言(ざんげん・人を陥れる根も葉もない中傷)の陰謀を企んだのである。
皇帝は、我が可愛いい息子の将来のために、ひとつ、この腹黒い悪臣の噓の申し立てを口実に、孔子とその弟子たちを葬ってやろうという心が湧き起こった。
衛の皇帝は悪臣に尋ねた。
「わしは、お前たちの言っていることが良く分からないが、それは、あの孔子と弟子どもが、わしを倒そうと反乱を企んでおるということか?」
悪臣の一人は、高まる心臓の鼓動を抑えながら、こう答えた。
「さようで、・・・さようで、ございます」
悪臣たちは、皇帝に噓の申し立てをしていた。もし、この噓がバレれば自分たちは処刑されてしまう。そう思うと、悪臣のひざがガクガクと震えた。皇帝は、噓が発覚しないか?と、恐れ震える悪臣に尋ねた。
「その申し立ては、本当なのだな?」
「はっ、・・間違いございません・・」
「そうか」
「そうで、・・・ございます。あの、仲尼の奴、仁義礼智、孝養の道などと邪説を民衆に振りまき、今では、恐れ多くも、ご主君より民衆に人気があるという、とんでもない始末。そのことは、大王様自らご承知ではありませんか?」
「なるほど、その通りだ」
「それよりも心配なのは、大王様の世継ぎ、安慶王子の身の上のことでございます」
「と、申すと」
「はっ、大王様は、不老長寿の法をいろいろ試しておいでで、私の紹介しました、雲達と申します者が、いろいろ大王様に、不老長寿の技を、お教えしておりますが、万が一、うまく行かなかった場合のことを、心配しておるのです・・・いや、私め、雲達の不老長寿の法により千年生きている老樹山の仙人を、確かにこの目で見て、大王様のためを思い雲達を紹介したのです。私、この不老長寿の法が失敗するとは、ゆめにも考えておりませんが、・・万が一ということになれば、・・それが心配なのです」
この一言に皇帝が頷くと、これに意を得たもう一人の悪臣が勢いを得て、噓の上塗りをしようと、こう申し上げた。
「私め思いますに、万が一、大王様に不幸があった場合、下手をすると、あの仲尼と弟子たちが民衆の支持を得て謀反を起こし、安慶王子を国から放逐しないか?そのように、心配しておりましたが、やはり謀反を企てておったようです」
これに勢いを得たもう一人の悪臣は、この悪事のとどめをさすために、こう噓を申し上げた。
「実は、先日、仲尼の弟子の子貢(しこう)という者が酒に酔っ払ってこんな事を平然と喋っておりました」
皇帝は尋ねた。
「それは、どういうことだ?」
そこで、悪臣は、しばし口をつぐんだ。
「このような事はとても大王様の耳には、お入れできません」
これに、皇帝は非常な興味を持って、こう尋ねた。
「だから、子貢という男は、何を言ったのだ?」
悪臣は、皇帝の前にひれ伏して、許しを乞うた。
「お願いでございます。これだけは口が裂けても申せません。ひらにご容赦を!」
「そう言われると、ますます聞きたくなる」
「いえ、とんでもない、恐ろしい大逆でございます!どうか、お許しを!」
そこで、ついに皇帝は怒った。
「黙れ!良いか!言わねば、足きりの刑により、その足を切ってしまうぞ!早く言うのだ」
悪臣は、心の中でほくそ笑んだ。これで、仲尼と有能な弟子たちは追い払える。そして、こう、申し上げた。
「子貢は、酔っぱらって、こう大声で言ったそうです。『うちの先生の孔子様に比べたら、あの衛の君主や安慶王子などノミかシラミのように見える。この国を奪うのは容易い』」
この一言を聞き、皇帝は白髪を逆立てて激怒した。
「おのれ!仲尼の奴め!諸国を放浪しているところを引き立てて目をかけてやったのに、恐ろしい陰謀を企んでおったとは!直ちに、仲尼と弟子たちを全員捕らえ、処刑せよ!仲尼を捕らえた者には千金、弟子の子貢を捕らえ者には百金、仲尼の弟子は五十金の褒賞を出すと国民にふれよ!」
悪臣どもは、これを聞き、心の中で狂喜乱舞した。悪臣の一人は、素早く皇帝に申し出た。
「仲尼と弟子たちの捕縛、処刑は、我らにお任せください。必ず捕らえて仲尼の首をお目にかけます」
皇帝は答えた。
「よし、わかった!仲尼と弟子どもを拷問の末、腰斬(ようざん・腰から胴体を二つに切る)の刑に処し処刑せよ!」
これを聞いた悪臣どもは、よろこび勇んで、衛士たちに向かい、「仲尼とその弟子どもは君主に大逆を働く逆賊だ!皇帝陛下から仲尼と弟子どもの捕縛の命令が出た!直ちに手配書を市中に配布して、反乱者の仲尼を捕らえよ!反乱者の仲尼を捕らえよ!」と叫びながら、退出していった。

その日は、秋の良く晴れた日だった。子貢は、何人かの仲間と、近くの小金を貯めた商家の庭の四阿(あずまや)で、琴を弾きながら、楽しく談笑していた。
中国の宮殿と民家は四方を壁に囲まれた城壁の内部にある。そのようにして、他の国からの攻撃に備えていたのである。そして、城壁には四方に大きな門があって、日没近くになると、夜間、城内に外敵が侵入することを防止するため、城壁の出口である四方の門を閉ざした。この門を閉ざす時間を、門限という。

その四阿で、子貢とともに談笑していたのは、衛の国の有能な側近であったが、今は隠棲している永明と、もう一人はこの家の主人であり、米の集荷を行う商人、李京であった。子貢は、手元の木の薄い皮に、木筆で詩を書いた。

我離遠故国永年
永別離父母兄弟
求世民暮和無戦
我求道人導善良
唯尚暗愚迷道衛
唯我恥不明非力

(私は、政治の道を志し、故国を離れ、孔子先生の弟子となり、数々の国々を遍歴してきた。もう父母は亡くなり、兄弟とも久しく会っていない。今は、ただ、人々が戦乱に巻き込まれず、平和に暮らすことのできる社会を求め、そのための政治を行い、人々を善良な道に導こうと努力しているが、なおも、私の非力ゆえに、その理想にはほど遠い状況で、今、衛の国にいる。ただ、自分の非力を反省する日々である)

子貢は、木簡に木筆で詩を書き終えると、永明に手渡した。永明は、四阿の窓から入る、夕方近くの陽の光が床にこぼれる部屋で、この詩を読みながら、頷いていた。読み終わると、その木簡を、隣の李京に手渡し、永明も筆を取ると、詩を書き始めた。

明陽入窓辺四阿
鯉跳池鳥歌秋花
我楽語旧友飲酒
弾琴書詩見美庭
君何故苦労国事
労無事自治無為

(四阿の窓辺に、秋の寂しげな夕方の日差しが、こぼれている。池の水面に鯉の跳ねた水の輪ができ、庭に秋の花が咲き乱れ、木には鳥がとまり楽しげに鳴いている。私は、その美しい庭を見ながら、友達と酒を飲み、楽しく語らい、琴を弾き詩を書いて十分に満足している。君は、どうして国の政治というような、どうでもいいことに、あくせくするのか?国というものは、我々政治家が、あれこれ引っ掻き回さず、無為を守っておれば、自然にうまく治まっていくものだ)

子貢は、詩の書いてある木簡を取り、しばらく読むと、永明に、「なるほど、この詩は、敵を作ることを好まないあなたの性格を、良く言い表している」と、言った。永明は、この子貢の言葉に頷いた。
「その通り、人間、頭にくると、つい他人を口汚く罵ろうという衝動に駆られてしまうものです。しかし、政治を志す者としては、そのような誘惑に打ち勝って、寛容に振る舞い、無為を守って他人から恨まれないようにしないと・・・」
それに、商人の李京は頷いた。
「永明さま、それは、あの子貢さまの先生である、孔子さまの事を言っておいでなのですね」
「そうだ。あのように他人を敵に回す言動をしていては、今に、誰かに恨みを持たれるに違いない。それを心配しているのだ」
自分の先生に文句を言われた子貢は、気が気でないのか、これに反論した。
「しかし、言う時には、言わねばなりません」
これに永明は答えた。
「確かに、そうだ。しかし、今の齢を重ねた衛の王様に何かを言うのは危険だ。王様も若かりし頃は立派に国を統治していたが、年老いて年々疑い深く頭が頑固になっておられる。その王様に、孔子殿のように、あのようにはっきりと物を言ってしまうのはな・・」
「それは、永明殿は、あの王様の人民に対する態度を、我が身大事から、放っておけと、おっしゃるのですか?」
「放っておくということではない。なるようになると言っているのだ」
「そうですか・・・しかし、私は納得できませんが・・」
「それは、あなたが、まだ若いからだよ」
「そうですか?」
「そうだよ。あなたも、私くらいの齢になれば、理解できる」
そう言って、永明は、外の景色を眺めた。秋の冷え冷えとした、夕方の冷気が満ちてきた。永明は続ける。
「政治というのは、いわば怪物のような残忍な生き物だ。何か為政者の恨みを買うような真似をすれば必ず報復を受ける。今、あなたの先生である孔子殿は、仁義礼智などと孝養の道を説いて非常に民衆に人気があり、逆に皇帝陛下から妬まれている。何か悪い事が起きねば良いが・・」
「そうですか・・・」
「わしも、このところ、隠居のような身分で、政治の世界に近づかないのは、今の君主では、たとえ業績を上げても、側近に足を引っ張られる恐れがあるからだ。だから、政治には近づかず無為を守っているのだ」
「確かに、あなたのように、我が身大事ということで隠棲の士を名乗ることが、安全なのかもしれない。しかし、私は、この戦乱で人々が殺し合う狂った世界を放っておけないのです。民衆が、君主の横暴や腹黒い側近たちに、いいように抑圧、弾圧されているのを見ていて、確かに、その非を君主の前で諌めるのは命がけだが、もし、私が憎まれ役になって王の過ちを正さねば、この世界は、さらに恐ろしいことになっていくような気がする。だから、恨みを買うことを承知で政治に足を突っ込んでいるのです」
「なるほど・・・、あなたは、勇気があって立派でおられる。私には、それを真似る勇気はない・・」

子貢は、家に帰ろうと席を立つと、李京の弟が血相を変えて、子貢に皇帝の捕縛命令を伝えた。
「大変でございます。あなたさまに、捕縛の命令が出ております」
子貢は、その言葉を聞いて驚いた。
「捕縛?それは何だ?」
「何でも、あの悪臣で名高い陳明と呉越章の奴が、大王様に、『孔子と、その弟子は反乱を企んでいる』と、讒言を吹き込み、大王様が、事実を良く調べないまま、孔子様と、あなたさま、それから弟子たちを捕らえよと、命ぜられたそうです。もう、孔子様も、お弟子さんたちも、都市の城壁の門の外に逃げております。あなたさまも、早くお逃げになったほうが、よろしいかと?」
子貢はとまどう永明と、家の主人たちに、最後の別れの挨拶をした。
「そうか・・・そうすると、もう、あなたたちとも、お別れだな。長いこと世話になった」
子貢がそう言うと、そこに居合わせた、永明と李京、李京の弟は暗く沈痛な面持ちとなった。李京は促した。
「さあ、早く。まもなく城壁の門が閉まる門限です。都市の城壁の門から出なくては、一夜のうちにあなたさまは捕らえられてしまいます。私たちは、何も見ませんでしたし、子貢という人も知りません。ここに、少しばかりの銀子がありますから、これを持ってお逃げなさい」
「わかった。感謝する」
「さあ、早く!」
「わかった!」
子貢は、夕暮れの、夜のとばりが降りんとする頃を見計らって、その家の裏口から逃げ出した。都市の城壁の外へ通じる鳳凰門から外に出る腹づもりだった。だが、鳳凰門は、すでに閉まっており、外に出られなかった。
子貢は、自らの命の終わりを知った。おそらく、明日からは城門の警備も厳しくなり、外へは出られない。こんな狭い町中では、匿ってくれる人もいないだろう。捕縛は時間の問題だ・・・。
その時、薄暗い門番の部屋から、「子貢さま、子貢さま」という声が聞こえた。その部屋の入口に行くと、門番が子貢の手を引いて、いきなり部屋の中に子貢を引きずり込んだ。子貢は、突然、何かと思ったが、その時、兵士たちが明かりをつけて歩いてくる音が聞こえたので、子貢は門番の部屋の床下に隠れた。
すぐに、兵士がやって来て、門番に尋ねた。
「さきほど、皇帝陛下から、仲尼とその弟子たちに捕縛の命令が下された。仲尼を捕らえた者に千金、子貢を捕らえた者に百金、弟子を捕らえた者に五十金の褒美が出る。お前、誰か見かけなかったか?」
その問いに、門番は答えた。
「わたくし、誰も見かけませんでした」
「そうか、見かけたら、直ちに通報せよ。お前も、わしらと一緒に来い」
それに、門番は何も答えなかった。門番の右の片足は、くるぶしの上から切られて無かったのである。門番は言った。
「申し訳ありません。私は、ちょっと・・」
「そうか、・・そうだな、お前は足きりの刑に遭って、足が無いからな」
そう言うと、兵士は、こう門番に申し渡した。
「とにかく、何かあったら報告せよ。わかったな」
「わかりました」
そう言うと、兵士たちは城壁沿いに縦隊で歩いていった。子貢は、ひたすら、両手を合わせて、この右足のない男を拝んだ。門番の足きりの男は、子貢に、こう言った。
「子貢さま、私を覚えておられますか?」
子貢が、片足のない、近づいた男の顔を見て、正気を失った。それは、一年前に子貢が裁判にかけて、足きりの刑を宣告した男であった。その男が、子貢の命を助けたのである。

その裁判が行われたのは、今から一年前の秋のことだった。その門番は、皇帝の侍従長を勤めていた。その侍従長が、ある晩、君命もないのに勝手に、一日に千里を走る天子様の馬車を使って五百里離れた母親のいる家まで行ったのである。衛の国の法では、「天子様の馬車を勝手に使った者は、足きりの刑に処す」という定めになっていた。
副侍従長の林平という者が、訴えの張本人であった。林平は、この侍従長の失敗をほくそ笑んでいた。これで、侍従長を消して、自分が副侍従長から侍従長の地位に昇格することができる。そのために、この失敗は、奴を消す絶好の機会だ。
裁判長を皇帝陛下より命ぜられた側近の子貢は、多数の者の臨席の元、この侍従長の裁判を始めた。この侍従長を蹴落とそうと考える林平は、子貢に、こう申し立てをした。
「恐れながら、子貢さま、侍従長は、三日前の晩、四頭立ての、一日に千里を走るという天子様の馬車を君命と偽り五百里離れた実家へと走らせました」
子貢は、侍従長に尋ねた。
「それは、間違いないのだな?」
侍従長は、震える声で答えた。
「間違いございません」
「そうか・・・ところで、他に証言する者はいるか?」
その時、御者が手を挙げた。
「私、その馬車の御者を務めました」
「そうか、それで、何の目的で、天子様の馬車を使ったのだ?」
「はっ、侍従長の話では、皇帝陛下より、袴を下賜されたので、侍従長の実家まで持っていくようにとのことでした」
子貢は御者に尋ねた。
「それで、それは事実だったのか?」
そのやり取りに、林平はずけずけと割り込み、ここぞとばかりに、こう申し上げた。
「それが、真っ赤な噓いつわり、皇帝陛下にお尋ねしたところ、そのような袴の下賜などはない、とのことでした。そこで、私が、皇帝陛下に、この天子様の馬車の不正使用の件を申し上げたところ、皇帝陛下はカンカンに怒られました。そこで、この裁判となったわけです」
「なるほど・・」子貢は頷いた。御者は続ける。
「侍従長の家の前に到着すると、家の周りでは皆が悲しげにしている様子で、これは変だと思いました。それで、私、帰りましてから林平様に事の次第を申し上げたのです」
「なるほど・・」
林平は、得意げに衛の法を、こう読み上げた。
「天子様の馬車を無断で使用した場合には、足きりの刑に処すると、法にあります。どうか、子貢さまの、ご賢明な判断を仰ぎたいと存じ上げます」
子貢は侍従長に尋ねた。
「なるほど・・ところで、侍従長、なぜ、天子様の馬車を偽って使ったのだ?」
これに侍従長は、涙ながらに、厳粛な面持ちで答えた。
「実は、私の母が危篤だという急な知らせを受け取ったものですから、矢も盾もたまらず、とっさに天子様の馬車を使ってしまったのです」
子貢は、尋ねた。
「それで、母親は、どうした?」
「馬車が家に到着した時には、すでに亡くなっていました」
「そうか・・・」
その答えに、その場にいた者は、暗い気持ちになった。子貢は、こう提案した。
「思えば、これも、母親を思う心情から、法を犯したのであるから、足きりの刑などではなく、侍従長免官の処分で許してやってはどうか?」
これに林平は反論した。
「しかしながら、昨日、皇帝陛下は、『このような行為を働いた者は、厳罰に処せ!』と怒っておいででした。法は厳しく貫くのが、社会の治安のために必要不可欠でございます。ここは、厳しいお裁きをお願いします」
これに、侍従長の部下から反論が上がった。
「確かに、そうかもしれないが、侍従長の気持ちは自分にも良く分かる。林平さん、あなたは侍従長を陥れるために、法を厳格に用いようと企んでいるのではないか?」
これに、林平は声を荒らげた。
「貴様、何を言うか?法律は、公平に、別け隔てなく適用するのが、大切なんだ!」
そう、悪党の林平に睨みつけられ、部下たちは、我が身大事と口をつぐんだ。その一言に、その場で反論する者はいなくなってしまった。子貢はこう言った。
「確かに、法は公平に用いねばならないが、法にこうもある。『親に著しい孝養を尽くした者には、褒美を与える』と・・・」
これに林平は反論した。
「しかし、これは孝養とは申せません。下手をすれば、家に損害を与える不始末です。こういう事を平然と行うのは、親孝行ではなく、親不孝ではないのですか?」
これには、子貢も反論ができなかった。林平は続ける。
「例えば、戦争があり、親孝行のために兵役を逃れれば、国は戦争に勝てません。だから、兵役を逃れた者は、法に照らして公正に断罪するのです。今、小さな親孝行で、国の法律の抜け道を作ったのでは、国はたちゆかなくなります。今、子貢さまが、もし、ここで侍従長の悪事を見逃されたら、きっと、これからも親が死にかけたら、天子様の馬車を使う者が多数出てくることになります。
そうなったら、国はどうなります?天子様の馬車が一日に千里を走るのは、戦争のような国家の危機において、他国と皇帝陛下が交渉したり、戦線を視察したり、使者の伝言を前線の将軍に伝えるという、国家一大事のために、よりすぐりの馬をつけているからです。もし、侍従長が、天子様の馬車を使っている最中に、敵が侵略してきたら、一体どうされるのですか?」
この一言に、子貢は、もはや罪一等を減ずる余地がないと考えざるを得なかった。子貢は、侍従長にこう言った。
「お前の気持ちは、私にも良く分かる。私だって、お前の立場に置かれたら同じことをしたかもしれない。しかし、一人の親孝行よりも、国家の利益、社会の安定のほうが大切だということはわかっているな」
侍従長は、この子貢の言葉に頷いた。
「だから、申し訳ないが、お前を法の規定どおりに処罰しなければならない。私も、このように言うのは非常に辛いのだが、分かって欲しい」
そう子貢が言うと、男は、首をうな垂れてその場に座り込んだ。二人の衛士が男の両腕を取ると、刑場に引き立てていった。子貢は、それを、悲しい面持ちで見送った。

もう、夜中の満天の星空には、小船を思わせる秋の三日月が中空に輝いていた。その、明かりもない暗い部屋で、子貢は、その足きりの刑を受けた男に尋ねた。
「私は、一年前、主君の法令に従い、お前の足を切った。今こそ私に復讐することができるのに、どうしてお前は私を助けるのか?百金は惜しくないのか?」
門番は、座って右足の先のない膝に手をやりながら、こう答えた。
「私が、足きりの刑を受けたのは、自分の行いの報いを受けたのであって、どうにもなりません。そのことは、私、良く分かっております。あなたさまは、私を救うために、法令をあれこれ調べ、何とか私を救おうとしておられました。そのことは、良く分かっております。また、罪が決まっても、あなたさまは悲しい様子をされていました。そして、何の私心もなく罪を言い渡されたことも、良く分かっております。それは、あなたさまの優しい心根から、そうされたのだと思います。ですから、私、あなたさまをお救いしたのです」

子貢は、その一言を聞くと、安心して横になった。

暁の光が、まだ差し込まない早朝の暗闇の中、門には二人の兵士がいたが、二人とも眠りこけていた。それを見計らって、門番は、杖をつきながら子貢を門のところまで案内した。門番は、音を立てないように門の閂(かんぬき)を開けると、門の扉を少しだけ開け、人が一人通れるくらいの隙間を作った。門番は子貢に促した。
「さあ、早くお逃げなさい」
「わかった。感謝する」
そう門番に礼を言い、子貢は門の隙間を外に摺り抜けると、門はぴたりと閉まり、閂をかける音がした。
子貢は、朝焼けの光が東方の空にさそうとしている空を見ながら、そのまま中国の荒野に続く畑の中の道を、孔子とその弟子たちが逃げていったという南の方向に、速足で歩いて行った。
十里ばかり歩くと、知り合いの農夫が牛車を引いて通りかかったので、その荷台に乗せてもらい、南に南にと行った。
途中で牛車から降り、三時間ほど歩くと、前の井戸のある、少し木の生えた雑木林のところに、何十人かの正装して良い体格をした人達が木陰で休息しているのが見えた。子貢は一目散に走り出した。

「おおーい!」

そこにいたのは、孔子とその弟子たちだった。弟子の一人が、「おい、子貢だ!」と言うと、弟子たちは子貢のところに一目散に駆け寄った。弟子の一人が子貢の手を取って、こう言った。
「もう、駄目だと思っていたぞ」
「心配かけて、済まない。運良く助かった。先生は、どこにおられる?」
「あそこの木の陰に座っておられる。先生も非常に心配しておられたようだ。さあ、挨拶をしてこい」
子貢は、仲間に促され、立ち上って子貢の方を見ている孔子の前に来ると、跪き、一礼した。孔子は、安堵の表情を浮かべ尋ねた。
「よく無事に逃げ出したな、もう駄目かと思っていたが・・」
「はい、城壁の外に出る鳳凰門が閉まっているのを見て、もう、これまでと思いました。すると、不思議なことに、門番が私を匿ってくれました」
「ほう、やはり、日ごとの行いが身を助けたのだな。その門番は何の恩義でお前を匿ったのか?」
「それが、一年前に裁判で足きりの刑に処した男でした」
その一言に、一同は一驚した。子貢が、すっかり話を終えると、孔子は、こう言った。
「官吏として適性のある者は、法によって人民に恩徳を植え付け、官吏として不適格な者は、法によって人民に恨みを植え付ける。だから、官吏というものは、公平さを欠いてはならない」
その、孔子の言葉を、弟子たちは黙って聞いていた。

弟子の一人が孔子に尋ねた。
「実は、私、懸賞金のことが、腑に落ちないのですが・・」
「というと、何故じゃ?」
弟子は、ゴソゴソと、懐から、城壁の壁に貼りつけてあったのを破り取った懸賞金のお触れ書きを取り出した。
「これによりますと、先生の懸賞金は千金、子貢は百金、弟子は五十金となっております。私たちの懸賞金は五十金なのに、どうして子貢だけ百金なのですか?これは、不公平です」
これに弟子の一人が応えた。
「そうだな、何故だろう?」
「子貢は、何か皇帝の恨みを買うことでも、やったんじゃないのか?」
そう弟子の一人が言うと、弟子たちは、どっと笑った。孔子は言った。
「あの、衛の王に憎まれるのであれば、憎まれるほど、それだけ有能だということなのかな?お前は不肖の弟子だと思っていたが、大したものだ」
そう言うと、弟子たちは、再び腹を抱えて笑い転げた。子貢は、頭を掻きながら、孔子に尋ねた。
「先生、これから、どこの国に行きますか?」
「そうだな、少し南の方に行ってみようか・・」

孔子と、その弟子たちの行く道の上には、高い秋の空が広がっていた。彼らの苦しみに満ちた逃避行は、なおも続く。

次回、彼岸花は、六月中旬頃アップする予定です。


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