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長編トラベルミステリー小説「急行八甲田の男」。12.函館山から余市へ。

平成七年十二月二十九日午後三時、男は函館山山頂のロープウェイ乗り場につながる室内展望台のベンチに腰をおろしていた。外は降りしきる雪だが、この前面ガラス張りの、本来なら函館市街が一望できる室内展望台は暖かだった。それでも、時折冷たい凍りついた寒風が流れて足先から冷えるのを感じた。
こんな雪の中、それでも、どこかからやってきたのか何人かの観光客がいる。だが、展望台眼下は降りしきる雪のため何も見えない。土産物店の従業員が手持ち無沙汰にしている。夏の夜などは、函館山からの夜景を見るために大勢の人で賑わうが、冬のそれも昼の午後三時では、誰もいないのは当然だ。しかも、この大雪である。
男はポケットから、初江に託された、あのつつじの花のブローチを取り出し、手でもてあそびながらながめた。男はこのつつじの花のブローチを、自分がかって住んでいた余市の家の前の雪の中に埋めようと考えていた。この雪で、午前中、函館山ロープウェイは運休をしていた。乗る時も、乗車券売り場の係員に「今日は下は見えませんよ」と言われた。
そんなことを考えていると、となりのベンチに身なりのよい初老の夫婦が腰をかけた。
妻があきれたように呟いた。
「あなたももの好きね。こんな大雪の日に函館山へ登るなんて。ほら、雪でなんにも見えないわ・・。でも、冬の北海道っていいわね。流氷なんかはまだ?」
夫は端正な身なりをし、紳士的な雰囲気を漂わせていた。
「流氷は一月末だよ。それに函館へなんか来ないよ。オホーツク海沿岸の紋別や網走そんなところに来るんだ」
「札幌の在所の様子は?」
「父も八年前に亡くなって、今は兄貴が家を守っている。もう四年近く会っていない。あさって札幌に寄ったら、電話をかけてみるよ・・」
「そう・・」
そうして二人は再び戸外の雪を眺めていた。函館山の広葉樹に白い雪が叩きつけるように降っている。樹は津軽海峡からの強風に必死になって耐えている。ゴオーッという強風が一吹きすると、さしもの風雪も少し弱まり、雪が少しやんできた。風雪のあいだから雪に埋もれた函館市街が姿をあらわした。雪はさらに弱まり、はっきりと函館山眼下の函館市街が見えてきた。右手に白く波立つ津軽海峡、左手に函館湾の海がひろがり、その間に雪の函館市街が望めた。
「あら、見えた。とてもきれいね・・」
「ほら、あそこ、函館湾の奥のほうに船が見えるだろ。摩周丸だよ、青函連絡船のね。あのあたりが函館駅さ」
「あら、そうなの・・」
「そう・・札幌を青雲の志をもって出たのが昭和三十五年。高校を出てね。めざすは東京、苦労をしたよ。おかげで今は従業員三十人の会社を経営している。
札幌を急行列車に乗って函館まで出るんだ。列車を引いているのは黒い煙をはきあげる蒸気機関車だよ。それで長万部(おしゃまんべ)を過ぎると、車掌が青函連絡船の乗船名簿を配りにくるんだ。函館駅につくと、乗客が我先に列車進行方向の青函連絡船乗り場に向かって重い荷物を持って走るんだ。今は、東京へは新千歳から飛行機だが、昔はみんな列車で東京へ行ったんだよ。もう昔の話だ」
妻はこれをただ黙って聞いていた。妻は東京の出身なのだ。その時、あれほどの風雪は少しおさまり、薄日がさしてきた。
「あれから三十余年、世の中は目まぐるしく変わり、人も変わった。新しく知り合う人、去る人、物故した人。でも、この函館山から望む風景だけは何年たっても変わらない」

これを聞いていた男は、耐え切れず、狂ったように雪の吹きすさぶ展望台の外へ飛び出した。眼下には函館湾が広がっている。男は雪の積もった地面に崩れ落ち泣いた。その涙が氷点下七度の厳しい寒さに凍りついた。
雪はさらに容赦なく荒れ狂うように吹きすさぶ。眼下の函館市街も、函館湾もあっという間に吹雪の中に消えた。凄まじい寒さに、雪に埋もれた手の感覚がなくなってくるのがわかった。こんな手の一本や二本、たとえ凍傷になってなくなってもかまわない。男はそう思った。凄まじい吹雪に男は展望台によろめきながら戻っていった。

その日の晩。函館駅から夜行列車に乗った男は、札幌を経由して平成七年十二月三十日朝8時37分、雪の降りしきる余市駅に降り立った。
男は、初江から託されたブローチを雪に埋めて警察に自首するつもりだった。男は雪が積もった駅前でタクシーを拾った。
男がタクシーに乗り込むと、運転手に、かって家族と住んでいた「月が丘まで・・」と言った。
タクシーの運転手は男を乗せると、駅前から、雪の中、余市町市街へと車を走らせた。雪はなおも激しく降り続いている。フロントガラスのワイパーがウイン、ウインと音を立ててフロントガラスに付着する雪を跳ねのけてゆくが、すぐにまたガラスの前面に積もって前が見えなくなった。
タクシーの運転手が男に話かけた。
「お客さん、このあたりの人だね。言葉でわかるよ」
運転手は右にカーブをきるとタクシーは市街地を抜け、男の目の前に雪の広野が広がった。
運転手は男にいろいろ親しげに話しかけてくる。
「もう今年もあと一日。いろんなことがあったよ。阪神大震災、汚職、銀行の倒産それにこの不景気だ」
車は雪原の中を走っていった。懐かしい故郷である。そして、男は自分の家が今もあるのをタクシーの窓越に見つけた。人はいないようだ。よく見ると、屋根は何年か前の雪の重みで潰れて家は荒れ放題になっている。
男は家の前に通じる道でタクシーの運転手に告げた。
「ここでいい・・」
タクシーの運転手はその一言に驚いた。
「ここでいいって、あそこには潰れた家があるだけだよ。お客さん一体どういう人だね?」
男はこれを無視して、ポケットから金を払った。
「二千九百三十円、確かに払ったよ」
「でもお客さん、こんな雪の中どうするんだね?もう積雪は七十センチを越えているんだよ。凍えて死んじまうよ!」
「いいから、もう行ってくれ!」
そう言うと、開いたタクシーのドアから、深い雪に足をとられながら、家の前まで百メートル近くを歩いていった。そして男は潰れた我が家の前に立った。雪は男の上に情け容赦なく降り続いている。
男がこの家を出たのは七年前の春だった。・・家族は自分を小樽駅まで送ってくれた。列車の窓越に母は手作りのおにぎりを渡してくれた。母は目に涙を浮かべていた。
だが、その母親は病死して今はない。父と兄夫婦一家は離農して、名古屋に、弟は海老名に住んでいる。男は金を儲けて母親に楽をさせてやると言った。母親は答えた。「頑張るだ・・」と・・。すべては夢のように去った。

男は初江から託されたブローチをジャンパーのポケットから取り出した。七年前、鎌倉の土産物店で初江に買ったものである。これをしばらく眺め、大切に両手で包むと、雪を冷たい手で掘り起こし、そのブローチを雪の中に埋めた。

男は降りしきる雪の中、その家の前に一人たたずんだ。

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