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長編トラベルミステリー小説「急行八甲田の男」。11.新宿の雑踏のなかで。

平成七年十二月二十八日午後七時、道雄と初江は新宿駅に手を取りあって走っていった。
道雄は叫んだ。
「さあ、これでお前は俺のものだ!」
初江はこれに嬉しそうに頷いた。
「早く!福本に見つかると大変よ!」
その時、道雄は初江を立ち止まらせ、初江の肩を両手で持つと初江の顔をじっと見つめた。
初江は叫んだ。
「どうしたの!早く行かないと!」
その時、道雄は初江を固く抱き締めた。初江はこれにはっと驚き、喜びにうち震えた。
「なんて、・・なんて馬鹿げてるの!こんな仕事をしていて、抱かれた程度で震えるなんて・・・でも、抱かれて、こんな嬉しい気持ちになるなんて、こんなこと初めてよ!」
初江は驚きに満ちた嬉しそうな目で、道雄を見つめた。道雄の心に無上の喜びが湧き上がった。道雄は初江の額に口づけをした。
「さあ、早く行かないと!こんなこと後からいくらでもできるから、今は早く逃げないと!」
初江は道雄の手を引いて、走るように促した。
二人は、新宿のネオンの中、歩いている人々を追い越しながら走っていった。
初江が道雄に、はあはあと白い息をはきながら話しかけた。
「良かった!本当に良かった!これで、福本から逃げることができたわ」
「でも、福本というのはそんなに恐ろしい奴?」
「人間じゃないわ・・人の皮を被ったケダモノよ・・」
その時、前方の道路に赤々と水道工事中を示す、赤いライトが点滅しているのがわかった。
「工事中・・」
そう言って二人は歩道から道路に降りた。歩道のところが通れないのだ。
二人が水道工事中の工事現場を車道側に避けて歩いていると、それをあたかも狙ったかのように突然前方から大型のアメ車が、前面のライトをパッとつけると、猛スピードで、道雄と初江に向けて突っ込んできた。
「危ない!」
道雄は初江を抱きかかえて、とっさに工事中の標識を押し倒してアスファルトの剥がされた冷たい地面に倒れ込んだ。大型のアメ車は、通行止めの標識を幾つか跳ね飛ばして停車した。
運転席のドアが開くと、一人の白い革ジャンパーを着た、背の低い、小太りのがっしりした体格の男が現れた。その男には頭の髪は無く、関取のような感じだ。全身怒りに満ちた凶悪な目で初江を睨みつけた。その目はあたかもサメのような残酷さに満ちていた。その、人間の感情の伝わらない、慈悲の心などひとかけらもない鋭い、冷たい目つきは、何の良心もなく機械のように人殺しでも強盗でもやってのける異常な残酷さが感じられた。それに道雄は背筋が凍るのを感じた。
初江は、その男を見て、腰を抜かさんばかりに驚いて、道雄にしがみついた。
「福本だわ!・・福本だわ!・・」初江はうろたえ完全に正気を失っていた。
男はドスの効いたしゃがれ声で、初江を睨みつけながら怒鳴った。
「初江!おのれなんのつもりじゃい!」
その地を這うような声に、初江はさらに怯えた。道雄は、その男に向かって叫んだ。
「お前こそ、何だ!車の運転もまともにできないのか!」
道雄になじられた男は、かっとして答えた。
「なんじゃい!このガキ!おのれ、何を言うとんじゃ!だいじな金づるを引き抜きやがって!」
「なにが金づるだ!」
初江は怯えながら、道雄に懇請した。
「やめて、お願いだから。わたしが悪かったの、もういいわ・・・」
道雄は初江を勇気づけるように言った。
「心配することはない・・・」
そして福本をののしった。
「初江は俺がもらっていく。さっさと帰れ!」
福本はこれに逆上した。なんという生意気な命知らずのガキだ。福本は道雄を荒々しいどすの効いた声で恫喝した。
「おのれ、なめとるとしばきあげるで!わしは人を殺したこともあるんや!生意気ぬかすとぶち殺すで!」。そして、初江に向かって、地を這うような声で脅しつけた。
「初江!おのれ、わしの手から逃げれると思っとるんか?お前はペイ中なんやで、薬が切れれば苦しいで。わしなしにはお前は生きていけんのや、わかっとるんか!」
初江は、この言葉に動揺した。道雄はきっぱりと決然として初江を励ました。
「初江!もう薬はやめろ!そして俺と一緒に、もう一度人生をやり直そう!」
初江はその言葉に深く心を動かし、確信を持って答えた。
「あなたの言う通りにします」
福本は、これを聞き鼻であざ笑った。
「ふん!このガキが色男ぶりよって・・・、そんなことはさせへんで、わしは必ずおのれらの住所を調べあげて、警察にタレ込みの電話を入れたるで、『ここに昔ヘロインを常用しとった女が住んどるで、調べてみいや』てな。そうなれば、初江!お前はブタ箱行きや!さあ、薬が切れると苦しいで、馬鹿なこと考えんとこっちへ来い。そうすれば・・・」
道雄は、福本の言葉をさえぎり、決然として確信をもって告げた。
「初江!こんな男の言うことを信じては駄目だ!勇気を持てば、山をも動かす信念があれば、どんなことでもできるんだ!」
初江は道雄の言葉を聞き、汚れ切った生活を清算する決意を固め、決然とした口調ではっきりと宣言した。
「わたしはあなたについて行きます・・」
福本はこの話を聞いて鼻であざ笑った。
「ふん・・はっはっ・・・はっはっは・・おのれら何ぬかしとる!そんなことができると思うとるんか?わしは、執念深い男や・・・蛇やまむしと同じや!いったん食いついたたら相手が死ぬまで離れんのや!わしにたてついて逃れた者は誰もおらんのや!」
道雄は福本をののしった。
「俺がまともに初江を逃がしてやる!」
「なんやと!このガキ!」
福本はもう許せんという、苛立ちをこめて二人を恫喝した。
「おのれら、もう許さんで!初江!このあいだ逃げようとした外国人女を、みせしめにリンチで殺して、東京湾のふかの餌ににしたのを覚えとるやろ」
だが、道雄と逃げる覚悟を決めた初江は決死の覚悟で叫んだ。
「道雄さんと逃げられないなら、わたしは死ぬ覚悟よ!」
福本は逆上して、この愚かな女に思い切りヤキを入れてやる必要を感じた。他の女に対し示しがつかない。あの、このあいだ殺した外国人女よりももっと残酷な方法がいいと感じた。そして、まるで地獄の底から地を這うような声で初江を脅迫した。
「ようし!初江!仲間へのみせしめで、このあいだの外国人女よりももっと残酷な方法で、おのれをなぶり殺しにしたるで!まず、お前の目の前でお前の色男を串刺しにして殺して、その後、お前を、俺の仲間とお前をおもちゃにして、いたぶりまわした上で、リンチにして殺したるわ」
道雄は、一瞬うろたえたが、まるで小鳥の雛のように怯え切る初江を見て、決死の覚悟でこの男と戦う決意を固めた。道雄は工事現場の通行止めの標識をつかみあげた。
「初江!俺にしがみついてろ!」
道雄は初江に命じた。初江は、福本に怯えながら、震える手で道雄にしがみついた。
福本は腰のドスの鞘を払うと、「死ね!」と飛びかかってきた。道雄は通行止めの標識を力任せに福本に投げつけると、福本に飛びかかり、取っ組み合いを始めた。だが、福本の腕力が強く、道雄は弾き飛ばされた。道雄は倒れた拍子に、そこにあった長さ一メートルの細い水道鉛管の切れ端を掴んで構えた。二人は、じいっとしばらく睨み合った。その時、福本は素早くかがむと工事現場の地面の砂をこぶしで握り道雄の顔にパッとぶつけた。目に砂が入って道雄がたじろいだのを見るや、福本はドスを構えて突進した。
「死ね!」
その時、このままでは道雄が刺されてしまうと直感した初江は、道雄に狂ったように体当りして道雄を突き飛ばした。だが、その時、福本のドスは初江の下腹部のあたりに突き刺さった。
「ああ!」
初江はその場にうずくまった。
「初江!」
道雄は慌てて初江に近寄った。福本はドスを握り、ゼエ、ゼエと荒い息をしながら腰を抜かしている。いくら残酷に凄んでみても、殺人の恐怖にはこの男もかなわない。
「ふん!・・死によるで!・・あほな女や。人を刺すなんて豆腐や大根を刺すのと一緒や・・・」
道雄は逆上し、怒りにうち震え、手に持った水道鉛管を構えた。
「何が、豆腐や大根を刺すのと一緒だ!・・」
道雄には言いようのない怒りがこみあげてくるのがわかった。
福本は立ち上がると、ドスを構えてゼエゼエと息をしながら叫んだ。
「次はおのれや!」
福本はドスを構えて突っ込んできた。道雄は怒りに任せて、長い水道鉛管で福本の首の、のどぼとけを力任せに突いた。福本は「うぎゃあ!」という奇声をあげてその場にドサリと倒れ込んだ。道雄は水道鉛管で、ドスを持つ福本の右手を渾身の力で叩いた。ボキッ!という音がして、福本の右手からドスが地面に落ちた。
福本は「うあー!痛え!痛え!」と悲鳴をあげて右手を押さえ、転げ回った。福本は必死になって道雄に命乞いをした。
「腕が!腕が折れた!・・兄ちゃん、俺が悪かった!かんにんや!かんにんや!・・」
福本に恐怖の表情が見えた。だが、道雄は福本を許すことができなかった。道雄は狂ったように渾身の力を込め、水道鉛管で福本の頭を無我夢中で滅多打ちにした。
「ちくしょう!畜生!畜生!畜生!この野郎!この野郎!この野郎!・・」
福本は「うあーっ!おあーっ!うあーっ!」という絶叫をあげて手足を痙攣させた。
ふと、我に返った道雄は頭から血を流してこときれている福本に気づいた。道雄は水道鉛管をその場に放り投げると、福本に刺され、うめいている初江を優しく抱きあげた。もう初江の息は絶え絶えだった。初江は道雄にほほ笑んだ。そのほほ笑みに道雄は血の凍る思いをした。
初江は囁いた。
「福本は・・・?」
道雄は答えた。
「死んでしまった・・・」
初江は蚊の泣くような声で呟いた。
「わたしのために・・・人殺しをしたのね。わたしは死ぬんだわ・・・」
道雄は涙をこぼしながら絶望に満ちた声で囁いた。
「お願い。死なないで・・・」
初江は答えた。
「わたし、さっきからとても不思議に思っていたの。・・・こんな罪深い生活をしている人間が、さっきあなたに抱きすくめられた時のような幸せを得ることができるなんて・・・きっとこれは夢だと思っていたの・・・・でもやはり夢だったのね・・・」
道雄はこれを深い思いでただ聞いていた。初江は続ける。
「ねえ、みちおさん、・・・覚えてる」
「何を?」
「ほら・・・東京へ・・・出てきたばかりの・・・四月にあの江ノ島と鎌倉へ出かけた時のこと」
道雄は涙声で詰まりながら答えた。
「ああ!覚えてるよ!忘れないよ!」
「わたしたちのポケットには・・・一万円と少し・・・確か給料日前ね・・」
「そう!そうだった!」
「バーのホステスやってるころは、・・・・相手はみんなお金持ち。一万円の札びらきって、特急のグリーン車に乗って豪遊して・・・。でも、どれだけお金を積まれても、どれだけ贅沢な旅行をしても・・・」
ここで初江は言葉を切って大粒の涙をこぼし始めた。
「あの貧乏旅行にはかなわないわ・・・」
道雄はこの言葉に感きわまり、涙が頬を伝わるのを感じた。初江は続ける。
「わたしは、お金のために体を売るどうしょうもない女・・・でも、許してくれるわね」
「許すよ!」
「そう・・・」
それから、初江の表情は再び苦痛に満ちたものとなった。
「都会って、みんなウソばかり・・・でも生きていくためには、人を踏みつけにしないと・・・生きていけないのよ。・・・・だんだん・・意識が遠くなって・・・いく。でもわたしたち馬鹿ね・・・」
「どうして?」
「わたしたち・・・偉くなろう・・・金持ちになろうと・・考えてばかり・・・。それに都会の人たちがつけ込んで、・・踏みつけにして・・利用するだけ・・利用して・・・ボロ布のように捨てていく。・・・でも、そんなこと考えなくて・・ほどほどの幸せを求めていれば・・こんなことには・・ならなかった。・・・ほどほどの幸せで満足していれば・・・こんなことには・・ならなかったのよね」
「そうだね!」
「北海道は・・・今ごろ雪ね。・・最後に、お願いがあるの・・・」
「なに?」
初江はポケットから、ブローチを取り出した。それは、道雄が鎌倉で買ったあのつつじの花のブローチだった。
「これを・・・故郷の北海道の・・雪の中に埋めてほしいの・・・最後のお願い・・。」
道雄が「わかった」と答えると、ブローチをズボンのポケットに入れた。初江はほほ笑みを浮かべた。
「ありがとう。・・・・ところで、わたしが死んでも・・あなたには・・何年かしたら・・・『昔、初江という女がいたけれど・・・あんな女は・・もうどうでもいい。・・・今は愛するのはお前だけだ。・・お前が世界でいちばんかわいい』なんて・・・人が・・現れるのかしら?」
道雄はこの一言に顔色を変えた。
「そんなことはないよ!なぜ!なぜ!そんなひどいことを言うんだ!」
初江は、この道雄の態度に狂喜した。
「そう!今わかったわ!あなたも私を心の底から愛しているのね!」
そう言って、初江はこと切れた。

道雄は初江を優しく横たえると、やじ馬の群衆をかき分け、全力で新宿駅に走っていった。三百メートル走ったところで、血だらけのコートを脱ぎ捨て、路上に放り投げた。
新宿駅に駆け込むと、上野駅までの切符を買い、上野駅に向かった。そして、上野駅から夜行の急行八甲田に乗ったのである。

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