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短編集、彼岸花。赤穂線の風景。

赤穂線の風景。

秋の深まった、平成十年十月の中旬、羽生田和樹、独身三十五歳は旅に出た。

東京駅を出発したのは、昨日の深夜だった。十月号のJR時刻表を入れた大きなショルダーバックを下げて列車に乗った。「鉄道の日記念、JR全線乗り放題切符」という便利な切符があって、連続三日間JR全線の普通列車が乗り放題で、九千百八十円である。東京駅を23時43分に発車する夜行の「ムーンライトながら」に指定席券と東京から横浜までの切符を買って乗る。そして、列車が零時過ぎに横浜駅を発車して、日付が翌日になったその車内で、車掌さんから乗車印を押して貰う。

翌朝、列車が豊橋駅を発車したあたりで、夜が白んできた。三河の山に青いかぎろいが立ち、今日が秋の快晴であることがわかった。対向の九州、広島方面から東京に向かうEF66型電気機関車に牽引されたコンテナー貨物列車がピイーッという警笛を鳴らして、すれ違っていく。幸田駅を過ぎたあたりで、三河の穀倉地帯の東の山の端から朝日が昇った。
列車は、しばらくして名古屋市街に入ってきた。早朝の名古屋駅に近づくと、乗客たちが、あああ、とあくびをして、網棚から荷物を降ろし、降りる準備を始めた。羽生田は、このまま大垣駅まで乗っていくつもりだったので、静かに列車のシートに身を埋めていた。
大垣駅に6時41分に到着。大阪方面の普通列車に乗り換え、米原、野洲、大津、京都、大阪、神戸、姫路、相生と普通列車と新快速列車を乗り継ぎ、岡山駅で乗り換え。車窓の風景を楽しんだ。
まだ、紅葉にはかなり早い季節であった。秋晴れの平日の日。沿線の水田の黄金色に色づいた稲穂が揺れ、あぜの彼岸花が真っ赤に咲いていた。秋風に薄の穂が揺れ、柿の木の実が熟していた。
倉敷、福山、三原と来て、15時14分、広島駅に到着した。
その日は、原爆ドームや広島原爆資料館を見学して、そのまま安いビジネスホテルに泊まった。

翌日は、秋の海に浮かぶ朱塗の鳥居が美しい宮島の厳島神社と、岩国の丸く弓なりに架かる錦帯橋を見学して、そのまま東京に夜行で帰るという旅だった。
本来なら、東京から東海道、山陽新幹線で二日でできる旅なのであるが、羽生田は失業中で金があまりなく、そのかわり自由になる時間はたっぷりとあったから、この在来線の格安の広島の旅を選んだのである。羽生田は鉄道マニアであったから、切符には殊の外詳しい。

その日、旅を終え、午後一時すぎの岩国駅から、広島、西条間快速運転の岡山行普通列車に乗った。帰りは、岡山から山陽本線ではなく、岡山、西大寺、備前片上、日生(ひなせ)、相生経由の赤穂線で帰る腹づもりだった。それで、姫路から新快速に乗り、神戸、大阪、京都、大津、米原、さらに大垣駅で23時03分発東京行の夜行、「ムーンライトながら」に乗り、東京まで帰る予定だった。
羽生田を乗せた列車が山口県岩国駅を発車すると、しばらくして瀬戸内海の沿岸を列車は走り始めた。秋の高い空が広がる、島々の浮かぶ瀬戸内の風景に羽生田は満足げであった。

羽生田には別に家族がある訳でなし、仕事も今年の夏、長年勤務していた金融関係の情報調査会社をリストラで首になり、退職金三百万円をもらい少しばかり貯金もあるので、年老いた母親の住む家で生活していた。兄弟がいたが、すでに家を出て、父親も四年前に亡くなった。
羽生田は、東亜大学の経済学研究科修士課程を卒業して、そのまま金融関係の情報調査会社に就職した。
もっとも、就職は苦労した。それは、羽生田が大学の修士課程に在学中、生活意欲が減退して学校に行かず、休学したことによる。
当時、これを心配した両親は、ある精神科病院に彼を連れていった。そうしたところ、極めて初期の統合失調症か、そうでなければ、あるいは精神衰弱であると診察され、二ヶ月の入院生活を余儀なくされた。それから、毎日一回は、向精神薬の入った散剤を飲むようになった。その向精神薬を寝る前に飲んでいるのだが、まあ、簡単に言えば、軽度の精神障がい者ということになるのだろう。
父親と母親は、彼が病を得て非常に悩んだ。この子の行く末は一体どうなるのだろうか?これから、一生、両親が面倒を見るにしても、自分たちは、羽生田よりも先に死ぬことだけは確かである。そう思うと両親の気持ちが沈んだという。

だから、就職の時には苦労した。修士課程を卒業して、そういう病気で通院中であるという話をすると、会社総務の人事担当者には、「お引き取りください」と言われてしまう。そうでなくとも、病気の話をすると、途端に人事担当者の態度が変り、直ぐに会社を追い払われると、何日か後に「不採用」の葉書の通知が来る。あるいは「連絡します」と、言ったきり、音沙汰なしという具合だった。だから、なかなか就職が決まらなかった。就職が決まったのは、甘利博という人物が主宰する金融関係の情報提供会社、「甘利データバンク」だった。

甘利データバンクの当時七十歳を過ぎた甘利博社長は、旧制の東京帝国大学経済学部を中退していた。在学中、左翼活動で特高に検挙されたことがあり、大内兵衛教授のゼミに所属していた経歴を持つ。そういう前歴からか、人間としていろいろな挫折を繰り返していたので、精神障がい者である羽生田には寛容なところがあったのだろう。甘利は入社を許した。羽生田の就職が決まったというので、羽生田の両親は非常に喜んだ。

甘利は、一風変わった経営哲学を持っていた。それは、完全な結果主義を中心とするものだった。甘利データバンクは月二回、金融情報を必要とする投資家に、金融情勢や推奨株の二十ページくらいのレポートを送っていた。そのレポートの収入や、甘利社長の講演会、著書の印税、特定顧客に対する特別レポートが主要な収入源であった。だから、結果はすぐに出た。誤った経済予測をすれば、それで顧客は離れていくし、正しい経済予測をすれば、顧客はレポートを継続して購読してくれた。だから、結果というものが直に出る。社員は三十人くらいで、人の出入りは比較的激しかった。そして、非常に不思議なことに、羽生田の予測は、ズバリと当たるのである。
羽生田がこの会社に採用された時、人事担当者が、「どうして、こんな奴を入社させたんですか?!」と、甘利社長に食いついた。甘利社長は、こう答えた。
「人事というものは、その人に何ができないか?その人にどういう問題があるか?ということを問題にするのではなく、その人に何ができるか?ということを問題にしなくてはいけない。君は保身と安全策ばかりを考えて羽生田くんのような冒険をやろうとしない。そういう官僚的な人事では会社は駄目になる」
もちろん、人事担当者は反論したが、羽生田が仕事で目覚ましい結果を出すと、何も言わなくなってしまった。
情報提供会社の仕事は、肉体労働のように、工場のラインに長時間工員を貼り付けておけば、それで収益の上がるという性格のものではない。社員には年間三十ページの経済予測に関するレポートの作成という義務が課されており、勤務時間は完全にフリーであった。タイムレコーダーもないし、週休二日制であったが、羽生田などは、二日くらい会社に出勤せず、家で経済関係の本を読んでいた。
甘利社長は、哲学書や偉大な経済学者の文献を読むのが好きだった。甘利社長は、マルクスの資本論、ケインズの一般理論、シュンペーター、ドラッカーの著作を研究するのがとりわけ好きであった。戦前の旧制教育を受けた人らしく、もの静かな学究肌の人で、精神的な深みがあり、天才肌の人だった。そして、天才というものに非常な興味があった。特に、異常な人間を、どのように社会に役立てるか?に非常に興味を持っていた。情報提供会社で本当に金が取れるようなレポートが書けるのは、異常な能力を持った人間だけであるというのが、甘利社長の一貫した持論であり、人事方針であった。だからこそ、羽生田のような精神科病院の入院歴がある一風変わった人間が、この組織に入ることを許されたのだろう。
このような人事方針に羽生田は賛成だった。確かに精神科病院に入院するような人は、そのままではまずいのかもしれないが、向精神薬をきちんと服用する限りにおいては、普通の人間と同様に仕事ができる。
異常であるということは、反面非常に大きな強みであることが、あるものだ。たとえば、ある躁(そう)病患者は、セールスマンとして最高の適性を持っていた。彼は、退院して、ある住宅販売会社に入社した。上司は、こんな奴を入社させて大丈夫か?と思ったが、その月のうちに四軒の住宅を販売して、今では営業部長をしているという。これからは異常な人間しか、本当に金の取れる人間にはなれない。そういう世の中になるというのが、甘利社長の持論だった。
世の中で天才と呼ばれる人たちは、しばしば反面狂気をはらんでいたことは有名である。ちなみに甘利社長の愛読書の一つは、クレッチマーの「天才の心理学」という、岩波文庫の一冊だった。

羽生田は、とくに経済分析、アナリストとして異常な強みを持っていて、何年かするうちに、甘利社長のお気に入りになり、甘利社長のゴーストライターのような立場に置かれてしまった。
顧客に送るレポートの幾つかは、甘利博の名前になってはいたが、実際は羽生田が書いたものだった。しかし、羽生田は、その方が気が楽だった。それは表だって責任を負担する必要がないからだ。
たとえば、羽生田は、日本のバブルが崩壊して、戦前の金融恐慌のような事態に発展するという予測を立て、過去の恐慌に関する経済学文献を図書館で研究して、「これからは資産デフレになる」という予測をいち早く立てた。それに甘利社長は同感したのか、その羽生田のレポートを、甘利博の名前で顧客向けのレポートに掲載して、顧客は株や土地をバブル崩壊直前高値で売り抜けることに成功して、甘利データバンクの名声は一気に高まった。

甘利社長は、「ライオンの論理」ということを盛んに主張していた。ライオンというのは、獲物を捕る時には必死になって働くが、しかし、それ以外の時には、ぐうたらに休んでいる。経済アナリストの仕事は、「量より質」で、万事この調子がよろしいという訳である。

岩国を発車した普通列車は、広島市街に入ってきた。太田川の鉄橋を渡ってしばらくすると、広島駅に到着した。母親への土産である厳島で買った紅葉饅頭が、網棚に上げてある大きなショルダーバックの中に入っている。14時55分、列車が広島駅を発車すると、しばらくして、西条までの山間部を列車は走り出した。

しかし、平成九年一月に甘利社長が急逝すると、事情は一変した。その頃、羽生田の功績で、会社の経営は順調だったが、甘利社長の奥さんが相続税を払うために、甘利データバンクの株を売りに出し、これを義家銀行が買い取った。義家銀行は、すぐに子飼いの、ごますりでその地位を得たという噂の営業部長を社長に送り込んだ。
この社長は、甘利データバンクの社内と勤務のシステムを一目見て激怒した。「こんないい加減な管理をしている会社はない!社員に礼儀作法を教えろ!」というのが最初の命令だった。
その社長にとって、理想の社員というのは、はきはきして、清潔感があり、お客様に好意を持たれ、社交性がある人物だった。
確かに、銀行の営業マンとしては、そういう適性が必要だろうが、経済アナリストの仕事では、そういう人事評価システムは害悪を撒き散らすだけであると羽生田は考えたが、そういう事が分かるような人物ではなかった。
羽生田は、そういう理想からは、ほど遠い人間だった。いつも、よれよれの背広を着て、極端に社交性を欠いていたからだ。羽生田は、新しい社長をアホにしていたが、そのアホ社長は経済アナリストの仕事については、ズブの素人だった。そして羽生田のレポートを見て激怒した。
「いいか、あんた、バブルが崩壊する、これからは資産デフレが一層激しくなる、株価や土地価格は更に下がる、だから今は株や土地は売り時だなんてレポートを書いたら、この会社の大株主である義家銀行は怒るぞ。いいか、義家銀行の頭取様は、資産デフレはこの平成九年の秋に底を打ち、株も土地価格も価格が上昇するという見通しをお持ちだ。だから、その通りにレポートを書きなさい」
羽生田は反論した。
「そんな馬鹿なことが起きる訳がありません。その義家銀行の頭取の考えが間違っていると、私は思います」
それに新社長は激怒した。
「何を偉そうに馬鹿なことを言っとるか!とにかく、俺の言うことが聞けないなら会社を辞めろ。何でもお前は精神科病院の入院歴があるそうだな。ちょっと言うとることが、ズレとるぞ!この会社は、もう名門義家銀行の子会社なのだから、そういう人がいてもらっては困る。お前のような奴は、辞表を書いてさっさと会社を出ていけ!」
これに羽生田は反論した。
「しかし、それは解雇の正当事由に当たりません」
「馬鹿野郎!何を言うか!」
しかし、精神障がいは解雇の事由に当たらない。疾病治療中の労働者は解雇できないと決まっているので、どうしようもない。社長は、そこで羽生田をリストラ・ハラスメントで追い払う作戦に変更した。
それ以来、羽生田は、組織にとっていらない人間になり、新社長へのごますりで課長にな゙った変な上司に徹底的なリストラ・ハラスメントに遭った。また、仲間も、以前の社長に優遇されていた羽生田を消すチャンスだと、全員でイジメを始めた。新社長は、会社の勤務体系を見直し、従業員に、とにかく出社してデスクで仕事をすることを強要、長時間事務所にいる職員、アナリストを高く評価して、義家銀行の頭取のごますりレポートを書くことを奨励した。しかし、羽生田は、そのような噓のレポートを書くことを恥じたので、正直に「資産デフレは、さらにひどくなる。株や土地は売りだ」というレポートを書いたのであるが、無情にも、全部却下され握り潰された。

ある日のことだった。社長は羽生田の側で、羽生田に聞こえるように、こう言った。
「なんだ、どこかの空港のハイジャック犯というのは、神経科の病院に通院していたんだってな。とにかく、気違いは何をやるか分からんからな。羽生田には気を付けろ!」
この社長は完全な偏見の固まりだった。羽生田は考えた。確かに、精神科病院にはそういう患者もいるかもしれないが、大半の人たちは、そういうことはしないものだ。今、病院にガンの患者がいて、その病院に盲腸炎で入院した患者がいた。その盲腸炎の患者が退院したら、「あいつはガンだ」
と言うのなら、それは誤っている。そういうことを言うのは論理的思考能力の欠如ではないだろうか?
この人事、経営の罰は直ぐに現れた。義家銀行に媚を売ったごますりレポートを信用して株を買った顧客からの苦情が殺到して、顧客が大量に離れ、甘利データバンクは、一発で経営危機に直面した。
人件費倒産の危機に直面した社長は、保身のため、昔の銀行の人事担当者の協力を得て、新しい人事評価システムを導入。社長は、礼儀正しさ、挨拶、服装の乱れというような、銀行時代の営業マンの評価システムを導入。嫌っていた羽生田に、「無能力」というレッテルを貼り、首にしたのである。この退職の知らせを聞いて、父親に先立たれた母親は、ひどく悲しんだ。

それにしても、羽生田は考え込み思い悩んでいた。
「これから、どうしたものか?生活をどうしよう?」
羽生田の通っている精神科病院の主治医は、この退職の報を聞き、「まあ、仕方ないですね。どうせ、そういう事を平気でする会社では、先行き経営がおかしくなりますから」と言ってくれた。
病院の看護婦さんたちは、「気違いは辞めろ」と平然と口にした社長に怒り、とんでもない人が社長なんですねと、その無神経に怒った。
羽生田は考えた。今は亡き甘利社長のような、異質な人間を受け入れ自由自在に使いこなす腹の据わった経営者というのが、いれば良いが、今の新制大学を出た、精神生活の欠落している経営者には、甘利社長のような人間が少ないということを、羽生田は、仕事で知っていた。自分の人生は八方塞がりだ。
そう思うと気持ちが沈んだ。不況は、精神障がい者にとっては、なかなか辛いものである。最近、主治医にお願いして、散剤に入っている向精神薬を少し強めにしてもらった。

列車は、三原、尾道、福山、倉敷と秋の山陽本線を走って行った。岡山駅に到着したのは、午後四時過ぎだった。もう、秋の短い日は傾き、夕方近くなっていた。羽生田は、岡山で赤穂線に乗り換えた。
羽生田は、岡山駅の九番ホームに停車する赤穂線の三両編成の電車のボックスシートに腰を下ろすと、そのまま岡山駅の売店で買った、英字新聞ジャパンタイムズを開け、金融関係の記事を読んでいた。網棚の大きなショルダーバッグの中には、岡山駅で買った今日の晩飯である祭寿司とお茶が入っていた。
列車は、少しずつ混んできた。ボックスシートの前の席に、二人の会社員が腰かけた。手に持っているのは、「崎山土木株式会社」という会社名の入ったA4の封筒だった。多分、岡山近辺から、赤穂線の西大寺あたりに行くのだろう。
人間には労働本能というのがあるから、仕事があるというのは、とにかく良いことである。自分には、そういう仕事がないのだと思うと、ひどく惨めな気持ちになった。
その播州赤穂行普通列車は、定刻に岡山駅を発車した。

列車は、東岡山駅を発車すると、山陽本線と別れ、単線の赤穂線を走り出した。普通列車であるから、各駅に停車するのであるが、西大寺駅で乗客がかなり降りて、車内は閑散としてきた。
夕方の日が傾き、沿線の穀倉地帯の水田は、所々刈り取りが終わり、籾を焼く煙がたなびいていた。農家のいわくありげな造りの家が点在する平野の中を、赤穂線の列車は走って行った。

車内は、高校生に占領されており、若干うるさい。その時、変わった男が自分のボックスシートに座った。その男は五十歳くらいで、赤銅色の顔をしている。その顔は彫りの深い顔で、時折奇妙な薄笑いを浮かべながら、座る席を探していたが、空席があるのに、わざわざご指名という訳でもないだろうが、羽生田の隣に腰かけた。
毛玉の一杯ついた毛糸の靴下にサンダル、汚れた作業ズボン、襟の擦り切れたカッターシャツ、そして、ぼろい刺しゅうの入ったクタクタの布製のバッグを下げていた。
羽生田は、これは統合失調症患者だと、すぐにわかった。その男は、羽生田の座っているボックスシートに席を取ると、羽生田に話しかけた。
「なあ、兄さん、わしは何も悪いことやっとらん・・・」
羽生田は、これを無視したのであるが、男は続けた。
「わしゃあ、何も悪いことはやっとらん。お巡りさんは信用してくれん・・・」
だが、相変わらず、羽生田は無視していた。その声が大声だったので、車内にいた乗客たちは、一斉にこちらの方を見ている。
「わしゃあ、何も悪いことしとらんだろうが・・わしゃあ、昔、土木工事の工事やっとたんや」
羽生田は、相変わらず無視していた。男は構わず羽生田に話しかけた。
「なあ、兄さん、ここはどこや?・・」
羽生田は仕方なさそうに答えた。
「ここは、長船(おさふね)という駅を出たところですよ」
「それで、岡山には、いつ着くんや?」
「えっ!岡山?もう、岡山は通り過ぎましたよ。これは反対方向の播州赤穂に行く列車ですよ」
「そうか・・ならええんや・・・」
「失礼ですが、どちらに行かれるのですか?」
「岡山や・・・」
そう言うと、男は切符を見せた。その切符は、倉敷から岡山までの切符だった。この人は、倉敷から乗ったのだが、岡山で降りないで、そのまま赤穂線に乗ってしまったのだ。羽生田は考えた。これは、通常の社会生活を営めない統合失調症に陥っている。羽生田は、こう言った。
「この切符は、倉敷から岡山までです。もう、岡山を通り過ぎていますから、今から反対の列車に乗り換えて、岡山まで戻られたほうがよろしいですよ」
男は答えた。
「兄さん、どこまで行くんや?」
「とりあえず、姫路に出る予定ですが・・・」
「じゃあ、わしも姫路まで行く。切符買う金ならあるんや・・」
そう言うと、男は布製のバッグから、手の切れそうな新札の一万円札を二十枚近く取り出した。それに羽生田は驚いた。
「どうしたんです?このお金?」
羽生田が驚くのを見て、男は自慢げだった。そして、笑顔を浮かべながらこう言った。
「金ならあるんや・・わしゃ、悪いことしとらんで・・」
それを見て、羽生田はだんだん不安になってきた。一体、このお金をどうしたのだろう?この男が、定職に就いているとも思えない。羽生田は不安に感じて尋ねた。
「失礼ですが、どちらにお住まいなんですか?」
「ここや・・・」
そう言って、男は布製のバッグから手帳を取り出すと、羽生田に渡した。男がその手帳を開けると、男は指さして、「ここが、わしの住所や」と言った。そこには、岡山市内のアパートの住所が記されていた。
しかし・・この男は、どうして、そんな大金を持っていたのだろうか?まさか、強盗や窃盗を働いた。それで逃げている。そんなことはないだろうな・・あるいは、倉敷市内で不審者が歩いているというので、近所の人間に百十番通報され、警察の職務質問を受け、あるいは警察署に連行されたのかもしれない。しかし、うまく切り抜けごまかし、この電車に乗っているという可能性だってある。男は自慢げにこう言った。
「なあ・・兄さん、金ならあるんや・・」

もう、列車の外は、夕方の闇が降りていた。列車は日生(ひなせ)駅に到着した。駅前は、海の入り江だった。貨物船や小豆島行のフェリーが港に係留されていた。港の明かりが夜の闇に浮かんでいた。
その時、反対側のホームに岡山行の普通列車が入ってきた。羽生田は、こう言った。
「あの・・岡山行の普通列車が反対側のホームに停車していますから、今から乗り換えられて、あの列車で岡山に帰られてはどうですか?」
それに、男はこう答えた。
「わしゃ、家に帰りたない・・」
「しかし・・」
「いいんや・・金ならある」
そう言っている間に、二人の乗る列車は播州赤穂方面に発車した。それにしても、この人、一体何を考えているのだろうか?男は呟いた。
「わしゃあ、妹が可愛い・・」
「はぁ?」
「妹や、わしゃあ妹がおるんや」
そして、男は、おうむ返しのように、こう言った。
「わしゃあ、悪いこと、しとらんのや・・金ならある」
列車が播州赤穂駅に到着して、姫路方面の列車に乗り換えた。これで、男と別れられると思ったのだが、姫路、相生方面の播州赤穂駅に入線していた列車のクロスシートに腰かけると、その男は、何故か羽生田のところにやって来て、同じクロスシートの通路側に腰かけた。羽生田は、かかわりあいになりたくないと、横の誰も座っていないクロスシートに行ったが、男は、ついてきた。仕方がないので、羽生田は諦めて、しばらく、姫路までこの男と旅をすることにした。羽生田は、こう言った。
「もう、家に帰られたら?」
それに男は答えた。
「わしゃあ、家に帰らん・・」
「そうですか、でも、家に帰らないと・・きっと、妹さんや家族の方が心配しておられますよ・・」
「ええ、金ならあるんや・・」
「しかし・・」
「ええんや・・わしゃあ、疲れた。兄さん肩を貸してくれ・・」
そう言って、男は、頭を羽生田の肩につけて眠ってしまった。羽生田は、それを優しい目で見ていた。
列車は播州赤穂駅を定刻に発車した。

列車が、再び山陽本線と合流する相生駅に近づいた。ゴオーッという音で短いトンネルを抜けると、高架の下に相生市街の光が広がった。羽生田は男を起こして促した。
「あのね、もうすぐ相生駅ですから、相生で反対の岡山方面に行く山陽本線の普通列車に乗り換えなさい。そうすれば、岡山に帰れますよ・・」
だが、男は列車を降りるそぶりを全然見せなかった。そして、こう言った。
「わしゃあ、何も悪いことはしとらん。・・金ならある・・わしゃあ寝る」
そう言って男は再び寝込んでしまった。羽生田は困ってしまった。列車が相生駅に到着すると、大勢の乗客が乗り込んできた。列車は相生駅を発車した。羽生田は、男に話しかけた。
「ああ、相生駅を発車してしまった。とにかく、姫路で降りて、山陽本線の普通列車で岡山に帰りなさいよ・・それがいいですよ」
「いいんや、金ならあるんや・・わしゃ、何も悪いことはしとらん・・」
「しかし、早く帰らないと、岡山に着くのが深夜になりますよ・・」
「いいんや、金ならある。わしゃ、姫路から新幹線で帰る・・」
「しかし、家族の方が心配されます・・」
ここで、男は、羽生田のしつこい説得にしびれを切らし、何か今まで蓄積されたフラストレーションが一気に爆発するような大声で、涙を流しながら、こう言った。

「家に帰る!そんなこと、でけへんのや!兄貴が、『仕事もせず、何ぷらぷらしとんのや!』そう言って俺を毎日殴りやがんのや!それで、耐えられず頭に来て預金通帳と印鑑持ち出して、家を飛び出し行くところがないんや!」

そう言って、男は泣き出した。羽生田は、これを聞いて事情を理解した。統合失調症の患者は、一般に、生活意欲が低下して仕事をしなくなる。それを、精神医学の知識がないお兄さんが、こいつは怠け者だ、仕事をしない役立たずだと決めつけ、この人を殴りつけ、この人は、お兄さんの責め苦にひたすら耐える毎日だったのだ。
そうして責められて統合失調症の病状が更に悪化していく。悪化して、ほとんど日常の生活さえ満足にできなくなる。そうなれば、そうなるほど更にお兄さんが腹だたしく考え、「この怠け者!」ということで、更に厳しくこの人を殴り責める。その悪循環で、このような重い統合失調症になってしまったのだ。そして、ついに預金通帳と印鑑を持ち出し家出したのである。
救いがないと言えば、そうかもしれない。もう居たたまれなくなって家を飛び出し、帰る場所もなく赤穂線の列車に乗っていたのであろう。そうして、今まで相談する相手もなく、この人は長い間、お兄さんの暴力に悩んでいたに違いない。
羽生田は、この人に必要なのは、精神科病院への入院と人道的な治療だと感じ、どうしたら良いか?しばらく考え込んだ。
しばらく考えて、岡山市内の福祉事務所に相談することが、適当だろうという判断に至った。もし、明日、この人が福祉事務所に行けば、相談員は彼の様子を見て、精神科病院での診察を勧めるだろう。そうなれば、この人は救われるかもしれない。羽生田は、彼にこう言った。
「一度、明日、岡山市内の福祉事務所に行って、相談員の方に、『お兄さんに、仕事をしないと毎日殴られ辛くて家出した。助けて欲しい』と、相談されてはいかがですか?」
それに、男は、手で涙を拭うと黙って頷いた。男は、ホッとした表情で、「わしゃあ、寝る」と、言って、嬉しそうな顔をして目を閉じて、また羽生田の肩に頭をつけて寝てしまった。羽生田は、迷惑だと感じたが、姫路駅まで、そのままの姿勢で、男を寝かしていた。羽生田は考えた。
「なるほど、僕も精神障がいを抱えて大変だけど、この人はもっと大変だな・・僕は大学院を出て、この人に比べれば恵まれている・・」

やがて列車は、夜の姫路駅に到着した。
羽生田は、姫路駅で、男に、今日はどこかのビジネスホテルにでも泊まるか、それとも警察に行きなさいとアドバイスすると、男は黙って頷いた。男は、事情を理解したのか、姫路駅のホームに降りると、そのままホームの階段を登り、改札口のほうに歩いていった。
羽生田は、大阪方面の米原行の新快速列車に乗り込むと、ホッとした。

それから三時間半、羽生田は深夜二十三時に大垣駅で東京行の夜行、「ムーンライトながら」に乗り換えた。指定席券に指定された席に座ると、大きなショルダーバッグに入っていた祭寿司とお茶を出して、祭寿司の弁当の蓋を開け、割り箸を割ると腹が減っていたので、海老やままかり、赤貝、焼きアナゴ、錦糸卵、菜の花など、瀬戸内の魚介類が散らしてあるご飯をぱくつき始めた。
列車は23時03分、定刻に大垣駅を発車した。

大垣駅を発車して三十分あまり。「ムーンライトながら」は名古屋駅に到着した。若い学生や、最終の東京行新幹線に乗り遅れたのであろうか、大きなバックを持つスーツを着たビジネスマンなどが乗り込んできた。しばらくして、列車は発車した。
夜行列車の車窓の流れ行く名古屋市街の明かりを見ながら、羽生田は、列車の座席のリクライニングを倒し、目を閉じた。羽生田は、来週から、再び求職活動を始めようと考えていた。しかし、果たして、精神障がいのある自分を雇う会社があるだろうか?不安だった。しかし、まあ、なんとかなるだろう。

列車が東京に到着するのは、明朝の午前4時42分である。

次回、「娘の恋人」は、七月下旬から八月上旬にアップする予定です。

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