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長編トラベルミステリー小説「急行八甲田の男」。6.江ノ島、鎌倉に行く。

平成七年十二月二十九日午前0時26分。急行八甲田は深夜の東北本線、黒磯駅に到着した。上野から小山、宇都宮と東北本線は北上するが、黒磯以北は列車の電源が、今までの直流ではなく、交流になる。そのため、機関車も直流専用機から、交流機につけかえねばならない。
ほの暗い、誰もいないホームに急行八甲田は、ゆっくりと減速して、ガタン!という軽い衝撃とともに列車は黒磯駅に到着した。寝入りばなの乗客も、「何があったんだ?」と驚き起こされる。そして列車がどこの駅に到着したかを確認している。
若い学生風の乗客の一人が目をさます。
あくびをしながら「あーっ、ここどこーっ?」と、となりのつれあいの女に尋ねた。となりの女は眠そうにホームの柱の駅名を見た。
「ええっとねえ、く・ろ・い・そ・・。まだ黒磯よ・・」
到着と同時に車掌の車内放送が流れた。
「ただいま、黒磯駅に到着しております。黒磯駅では機関車のつけかえを行うため、0時34分まで八分間停車いたします。駅のホームに降りて自動販売機でジュースなどをお求めのお客さま、どうぞ駅の発車の案内放送にご注意下さい。
この列車、黒磯を発車しますと、次の停車駅は一ノ関で翌朝の4時33分の到着です。停車駅にご注意下さい。なお、深夜でみなさんおやすみですので、黒磯発車後車内の電灯を暗くいたします。なおみなさんに重ねてのお願いです。最近盗難事故が多発しています。貴重品はくれぐれも身につけておやすみ下さい」
車掌の車内放送を聞くと、何人かの乗客が座席に荷物を置いて、ホームに降りていった。カメラを持った若い人たちが列車進行方向に走っていく。機関車を撮影するのだろう。
だが、男は気が動転して全く眠れなかった。ふっと気づいた。そういえば、今日は晩飯もろくに食べていない。男はひどく気持ちが高ぶっていた。手を見ると、あたかも骨と皮だけのような汚い手であった。その両手をじいっと見つめているうちに、男は感きわまって大粒の涙をポロポロとこぼし始めた。
ひどく喉が渇いていた。男は座席に上野駅で買った新聞を置くと、となりの寝ている男の投げ出した足をまたいで、列車のデッキから外に降りた。とたんに、凄まじいからっ風にさらされ、男は骨の芯まで冷えた。自動販売機の前には二人が列を作っていた。男は寒さにうち震えながら、自動販売機で熱い缶コーヒーを二本買った。男は熱い缶コーヒーを手に持ち、そのぬくもりを確かめて、車内に戻った。暖かい車内に戻り、男は生き返った心地がした。座席に座り、窓のさんに二本の缶コーヒーを置いて、一本のトップを開けた。しかし、一口飲むと気持ちが悪くなり、そのまま窓のさんに置いた。
発車のベルが鳴り、列車はガタン!という衝撃とともに静かに黒磯駅を離れた。列車は次第に加速して、車窓は暗い闇に包まれた。農道の街路灯の明かりがひとつひとつ、すうーっと流れていく。
発車後しばらくして車内放送が流れた。
「それでは、この列車深夜の運転となりますので、車内放送は今回限りとさせていただき、明朝、盛岡到着まで車内放送は中止させていただきます。なお、途中、一ノ関、水沢、北上、花巻でお降りのかた、くれぐれもお乗り過ごしのないようにご注意下さい。次の停車は翌朝の4時33分、一ノ関です
なお、これから車内の電灯を暗くいたします。ご注意下さい」
その放送後、車内の電灯が暗くなった。だが、男は眠ることができなかった。車内の電灯が暗くなり、深夜の外の景色がより鮮明に見えるようになった。暗闇の中は一面水田であった。
男はしばし物思いにふけった。もう年末だ。車窓から見える家には幸福な眠りがあるのだろうか?

男はまどろみながら、過ぎ去った春の幸福な夢を呼び起こした。
ーーーー

6.江ノ島、鎌倉に行く。

工場に勤めだした平成元年四月の連休前のある土曜日の晩。道雄は明日の日曜は何をしようかと思案にくれていた。下宿の窓をあけると、春の爽やかな風が入ってきた。もっとも給料日前、もう道雄の財布には八千円の金しかない。下宿で、このあいだ電気製品の安売り店で買ってきた十三インチのテレビでも見ていようか?と考えていた。近くの本屋で買ってきた、少年ジャンプと少年サンデーを寝転んで読み直していた。
午後七時頃、下宿のドアを誰かがノックする。「誰ですか?」とドアを開けると下宿の年老いた意地の悪い管理人が立っていた。
「木村さん。電話。女の人からよ!」
「うちの母からですか?」
「違うわ、三矢さんて人、とにかく早く出てよ!」
「わかりました」
道雄は運動靴を乱暴に履くと、一階、管理人の部屋へと行った。電話を取ると、「あの木村道雄ですけど、どちらさまですか?」と尋ねた。
「あの・・私・・」
そこでしばらく間を置いて。
「私、三矢初江というんですけど」と、意を決したように話した。だが、道雄はとっさに誰の名前かを思い出せない。
「あの?どちらの?」
相手も、少し困ったようだが、決然としてしゃべり始めた。
「三月に小樽から札幌までの列車で一緒だった」
それで道雄は思い出した。あの少女だ。
「ああ、そう!こんばんわ。それで、何の用?」
しばらく沈黙が続いた。
「実はね・・・」
また沈黙が続く。初江は言った。
「あした暇?」
道雄は答えた。
「うん、用はないけど」
「実は、今、店が連休前の改装工事で、あした休みなの。どう江ノ島や鎌倉に行かない?」
道雄は困ってしまった。なにせ金は八千円しかない。
「ごめん。給料日が月曜日で、もう八千円しかないんだ」
初江は答えた。
「大丈夫よ。小田急新宿駅から江ノ島までの電車の往復料金、江ノ電フリーパス付きで、1350円で行けるわ。八千円あれば、何とかなるわ。いいわね」
「でも・・」
「いいじゃない」
「しかし・・お金が・・」
「何を言ってるの、私がこんなにまで言ってるのよ!」
その語気に道雄はうろたえた。
「うん・・・それなら」
「じゃあ、あした朝八時に小田急新宿駅改札前。いいわね」
初江はそう言って電話をガチャリと切ってしまった。随分勝手な女である。
その後、下宿の管理人から、電話が長いとか、早く自分の部屋に電話を引けとか小言を言われたあと、道雄は眠りについた。

翌朝は、まさに快晴だった。道雄は、北海道の家を出る時に着た、青のブレザーと灰色のスラックスを着た。道雄は四月の風の中、鼻歌まじりに京急川崎駅へと急いだ。
やっとの思いで、小田急新宿駅の改札口にたどり着き、改札口の人ごみを避けて、改札わきに立っていた。時間は八時。だが初江はやって来ない。
「なんだ、あの女おれを誘っておいて」と、やや頭にきていると、やがて初江が向こうからやってきた。黄色のシャツに軽い上着をはおり、青のやや短いスカート。白のソックスにスニーカー。なんだ、初江の服も黄色のシャツに白い上着を除けば、北海道を出てきた時と同じだ。
初江は開口一番「やっぱり、そうね」と言った。
道雄は「何がそうなんだ!」とむっとした。
「ところで、あなた小田急新宿駅のホームは二階建てだと知ってた?」
「えっ!二階建て?」
「そうよ。ここは普通列車の乗り場よ。私たちの乗るのは急行よ。さあ、上に来て」
道雄は、実は自分が間違えていたことに、初めて気づいた。二人は、江ノ島・鎌倉フリーパスを案内所で買うと、改札を抜けた。
その時、発車のベルが鳴った。前六両小田原・後ろ四両片瀬江ノ島行の急行は満杯の乗客を乗せていた。道雄は初江にとっさに尋ねた。
「急行?急行料金はいらないの?」
初江はあきれて答えた。
「何も知らないのね。ここは北海道じゃないのよ。急行は乗車券があれば乗れるのよ」
「でも、もう一本待ったほうが座れるかも?」
「いつ来るかわからないわ。さあ、乗りましょ」
そう言うと、道雄と初江は乗客や行楽客で満杯の、小田原・片瀬江ノ島行の急行に乗り込んだ。ベルが鳴り終ると、ドアが閉まり列車は発車した。
列車は新宿駅を発車すると、東京の市街地を走り出した。初江はこう言った。
「突然ごめんね。わたし東京で寂しかったし、勤めてるのがパン屋でしょ。だから休みが平日なんで無理を言って・・」
道雄は答えた。
「うん、それでどこ行くの?」
初江は小田急新宿駅の案内所でもらった江ノ島・鎌倉の地図を電車で広げた。
「そうね。わたしの勤めているパン屋の人によると、まず小田急線で片瀬江ノ島まで行って、それから江ノ島に行くといいんだって」
「江ノ島?何それ?」
「東京へ来たら、江ノ島くらい知らないと。何か島に展望台があって、晴れた日には富士山が見えるんだって。今日は見えるかしら・・・?それから江ノ島電鉄で江ノ電江ノ島駅から長谷駅まで乗る。ここで長谷寺と高徳院の鎌倉大仏を見る。最後に鎌倉の鶴岡八幡宮にお参り。そんなところがいいとか仲間の人が言ってたわ」
「ふうん・・・」
初江は手に持った紙袋を道雄に示した。中にはあんぱんやメロンパン、サンドイッチなどが沢山入っている。
「これは、昨日の改装前大売り出しの売れ残りのパン。捨てるやつを持ってきたの。だからこれでお昼の心配はないわ」
「そんなもの食って大丈夫?」
初江は少し困ったなと思いつつも「多分いいと思うわ。サンドイッチはちょっとどうかなと思うけど」と答えた。
「ところで、お金は大丈夫?俺はもう5240円しかないんだけど・・」
「ああそう・・・わたしもあと5080円・・あなたの勝ちね」
道雄は、この一言に驚いた。
「えっ!ホント!俺はあんたに期待していたのに」
「仕方ないわよ・・・何とかなるわ」
「二人合わせて、持っているお金が10320円!・・もう、どうにもなりません。お嬢様」そう言って道雄がおどけると初江は笑いころげた。

藤沢駅でかなりの乗客が降りたが、二人は相変わらず立っている。
「でも疲れたわ、もう一時間くらい立ちっぱなし・・・」そう言って、初江はドアの上の小田急線案内図を見た。
「ここが藤沢ね。本鵠沼(くげぬま)、鵠沼海岸、それから片瀬江ノ島。あと三つだわ」

藤沢駅を発車した電車は五分くらいすると、片瀬江ノ島駅に着いた。大勢の乗客とともに、駅の出口を出て橋を渡ると、そこには四月の江ノ島の海が広がった。海にはボードセイリングの赤や白や黄色など色とりどりの帆が、青い海の中に点々と見えた。

海の先に突き出た弁天橋の向こうに、江ノ島の小島が見える。
「ほら、あそこの江ノ島の森の上に小さく突き出ている塔。あれが目標よ」
江ノ島の旧海軍の監視塔は、てっぺんが赤く、白の本体に青の鉄骨やぐらといういでたちだった。道雄と初江にとっては何もかも目新しい風景であった。
二人は江ノ島に通じる弁天橋を江ノ島に向かった。ハマグリを焼いて売っている売店の、おいしそうな醤油の焼けた香りに「食べたいなあ・・」と道雄は呟いた。橋を渡り終えるとさざえや、アジのひらき、ハマグリに干物を売る店が並んでいた。
「さすがに、蟹はないわね」
「みんな、うまそう・・で・・どこ行くの?」
「一番上がいいわね。旧海軍の監視塔だった展望台。まずそこへ行きましょ」
二人は、江島神社奉安殿に通じる土産物店の立ち並ぶ参道を、歩いていった。

二人は旧海軍監視塔であった展望台の頂上にたどり着いた。眼下には、相模湾から太平洋の青い海が広がった。はるか水平線と、低い海岸線が小田原方向に広がる。
「わあ、見て!きれい!」初江は歓声を上げた。そして小田原方向の海岸線に、残雪を頂く富士山を見つけた。初江は叫んだ。
「ほら!あれ富士山じゃない!」
「あっ!ホント!」
「今日は来た甲斐があったわ・・」
二人はしばらく黙って海を見ていた。道雄は初江の横顔を覗き込んだ。ふっと、何か寂しそうな感じがした。道雄は考えた。今日、初江が自分をこの旅に誘ったのは、もっと別の理由があったのではなかろうか?と・・・。
その時、初江はぽつりと一言呟いた。
「実はね。わたし今の仕事辞めようかと思っているの・・」
この一言に道雄はぎくりとした。道雄は尋ねた。
「どうして?」
初江はこの一言をきっかけに、自分のことを眼下の海に吐き捨てるようにしゃべり始めた。

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