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長編トラベルミステリー小説「急行八甲田の男」。4.第一旋盤係。

翌日の朝、道雄はアスカ産業に出社した。あの意地の悪い守衛のもとを通って。道雄は工場の入口から職場の第一旋盤係のところに行こうと、建物の入口をそのまま抜けた。

「こら!工場に入るときはちゃんと礼をしろ!」

男のヒステリックな叫び声が聞こえた。道雄は驚いて声のした方向を見ると、背の高い、異様に顔の光った若い男が立っていた。
「お前はどこの係だ!」
道雄は自分がどんな不始末をしでかしたのか?と思い驚いて答えた。
「今日からこの工場に働くことになった木村道雄といいます。係は第一旋盤係です。」
「なにい!第一旋盤係。俺のところか。いいか!社長の指示の通り、工場に入るときは必ず礼をすることになっている。お前はその指示を守らなかった。とんでもない奴だ。すぐに社長に報告だ!」
道雄はさっそく一つ何か失敗をしでかしてしまった。心臓が止まる思いがして、気が動転した。そういえば昨日社長が「工場に入るときは一礼すること」と言っていたのを思い出した。道雄は素直に謝った。
「すいません。忘れてました・・」
「なにい、忘れてた!とんでもない奴だ!社長の言葉は絶対だ。社長の指示に従わない奴は首だ!とにかく今日のことは俺から社長に報告してやる」
道雄は初日からとんでもない失敗をしたと肩を落とした。
第一旋盤係には三人の新人が配属された。そのうちの二人はまだ来ない。しばらくして二人がやって来ると、礼をせず工場に入ったと、その男に同じ要領で叱られていた。ところが良く見ると、古手の工員たちはポケットに手を突っ込んで礼もしないでどんどん工場に入ってくる。
工場のウウーッ!というサイレンが鳴るや、工場の操業が始まった。第一旋盤係の工員は仕事を始めた。先ほどの変な職長は自分の名前を「梶田」と名乗った。梶田職長は三人の新人に自分の旋盤作業を見せた。
「いいか、この丸棒をここにセットして、ここの真ん中にこう刃をあてて削るんだ」
そう言うと、梶田職長は旋盤を回す。旋盤の刃は金属を削り節のようにきれいにはいでいった。
「さあ、わかったな。お前やれ!」そう道雄を促した。
しかし道雄には何もわからない。道雄は手に軍手をはめ、丸棒を掴み旋盤を回そうとして刃をあてた。そうすると梶田職長は顔色を変えた。
「ばかやろう!何を見ていたんだ!ここはこうやるんだろうが。お前はばかか!」
そう言って、一発張り倒された。そして、梶田職長は自分で仕事をやり始めた。しばらくして二人の新人も、同じ要領で張り倒された。梶田職長は旋盤をいじりながらあきれた口調で三人を罵った。
「今年入った奴は馬鹿だな。もういい。お前ら今日はそこで突っ立つてろ」
三人はそのまま何もせず、ずうっと立っていた。

午前十時三十分。十五分間の休憩となった。休憩所に行き、梶田職長はポケットからタバコを取り出すと、口にくわえた。ところが火をつけようとしない。するといきなり叫んだ。
「新米!俺が口にタバコをくわえたら、ライターで火をつけろ!」
少年の一人が言った。
「でも、僕たちは未成年でタバコは吸いません・・」
梶田職長は自分に逆らったと見たのか、怒鳴りつけた。
「ばかやろう!社長は年功にはうるさい方だ!年長者の言うことには逆らうな!三人とも早く購買部に行ってライターを買ってこい!」
「しかし、お金は?」
「ばかやろう!自分で出すんだ!」
その時、本社事務所から課長がやってきた。
「梶田君」
梶田職長は借りてきた猫のように穏やかに答えた。
「なんでしょうか?課長」
「職長全体会議だ。十分後本社第ニ会議室に来てくれ」
「はい、承知いたしました」
道雄はその豹変ぶりに驚いた。世の中は、上には弱く、下には強い。こんなものかと考え込んでしまった。課長が行ってしまうと、梶田職長は自分で火をつけたタバコを灰皿に押し付け消した。灰皿には休憩中に工員たちが吸った十本近いタバコの吸い殻が入っていた。梶田職長はその灰皿をいきなりピカピカに磨かれた工場の床に、力任せにガッシャーン!と叩きつけた。その上で自動販売機の飲み終わった紙コップを休憩所のテーブルから全部床に叩き落とし、床に散乱した吸い殻を丹念に足で踏み潰し、紙コップを蹴飛ばし、叫んだ。
「掃除夫!掃除夫はどこにいる!ここが汚れているぞ!早く来い!給料泥棒!」
そう叫ぶと、一人の年の頃は三十歳くらいの清掃工が手にホウキとちり取りを持ってやってきた。男は黙って吸い殻や紙コップを片付けた。
梶田職長はののしるように叫んだ。
「お前にはお似合いさ!」
清掃工はこれを無視して、黙ってあちらに歩いていった。
三人はこの様子をただ驚いて、口をあんぐりと開けて見ていた。
梶田職長は三人にかんで含めるように注意した。
「いいか!お前らあいつとは絶対に口をきくなよ。口をきいたらただでは済まんから、そう思え!」
三人は一体これは何事かと、そしてこの会社はどうなっているんだろうかと驚いた。
「いいか!奴はこの会社を京葉自動車に売り渡そうとしたイヌだ。それがわかって、旋盤工から清掃工に格下げになったんだ!会社はあいつを会社から叩き出すために、嫌がらせをやっているところだ。あいつは『京葉自動車のイヌ』だ。一切口をきくな!わかったな!」

怒り狂う、意地の悪い梶田職長の叫びに近い口調に三人は黙って頷いた。

二日目から、梶田職長は三人をしごき始めた。三人はまず簡単な中ぐりから始めたが、もちろんうまくはいかない。そのたびに梶田職長の手が飛ぶ。
「何をやっているんだ!」そして「俺のやるのを見ていろ!」の一点ばりである。
休憩中になると、梶田職長はひたすら自分の言うことを三人が黙って聞いていることを命じた。勝手に話しかけると、「お前黙ってろ!」と怒鳴りつけ、ひたすら下品な話題をしゃべりまくっている。道雄は母の言葉を思い出した。「下品な話をする人を信用してはいかん・・」と・・。
梶田職長は自慢げに言った。
「きのう川崎の『スキャンダル』というソープランドに行ったんだが、そこに外人の女がいてなあ。やっぱり外人の女とやるのは疲れるわ。日本の女の方がいいな」
そして道雄に尋ねた。
「お前、まだボーイか?」
「はあ?」
「女とやったことがあるか?と聞いているんだ」
「ありません」
梶田職長はハッハと笑って、道雄をからかった。
「今度、川崎の俺の行きつけのソープランドに連れていってやる」
「はあ・・・」道雄は何か馬鹿にされたような気持ちだった。
梶田職長は言った。
「お前のあだ名は決まった。『カレイ』だ」
「なぜ『カレイ』なんですか?」
「お前が、俺を生意気そうに上目遣いに見つめるのが魚の『カレイ』そっくりだからさ」
そう言うと、梶田職長は口にタバコをもっていった。一人が手元からライターを取り出して火をつける。やがて始業のサイレンが鳴ると梶田職長は吸いかけのタバコをピカピカの床に放り投げ、灰皿の吸い殻と紙コップを床にぶちまけると叫んだ。
「掃除夫!何をしている!早く来い!馬鹿野郎!」
そうすると、ホウキとちり取りを持ったあの「京葉自動車のイヌ」がやってきて手早く吸い殻と紙コップを片付けた。
作業が始まると、梶田職長は再び仕事を始めた。今度は仲間の安田というのが梶田職長にやられている。安田は、元は中学で番を張っていた感じの少年だが、「この野郎!」とついに頭に来て梶田職長とケンカを始めた。梶田職長に楯突いたのだ。
梶田職長は突き放すように言った。
「もう、いい。お前には何も教えない。そこに立っとれ」
そう言うと梶田職長は数値制御旋盤のパネルを監視している中年の工員を指さし、その工員に聞こえるように言った。
「お前は、あそこで一日中パネルを監視しているようになりたいか?あそこに座っている奴は、じき首になる。俺に楯突く奴は、パネルの監視人や掃除夫になるしかないんだ。まあ、お前もじきそうだな・・・」
安田はハッと驚いて謝った。だが、梶田職長は納得しない。
「みせしめだ。お前にはもう旋盤の仕事はさせない。社長にそう具申する」
梶田職長は残りの二人に言った。
「これからは、お前たちだけに教える。安田。お前はこれから毎日そこに立ってろ」
安田がこの会社を辞めたのは、それから二ヶ月後のことだった。

それからも、梶田職長は道雄ともう一人の新入りの工員に旋盤の扱いを教えた。まず梶田職長が仕事をやっているところを黙って見せる。それを見て、見様みまねで道雄がまねる。だがうまくはいかない。また手が飛ぶ。泣きたい毎日だった。
道雄は思った。「こんな職場に二年も三年も勤めることができるわけがない。中学の先生が言ったように、半年で辞めてしまうのは、辞めた人が根性なしではなかったのだ。誰もこんな職場は務まらないのだ」そう後悔したのだが、もう後の祭りである。この仕事を辞めるわけにはいかない。そう思うと気持ちが沈んだ。

そんな四月のある日。午後から梶田職長は、工程の不良品の後始末で本社事務所へ出かけていた。工員たちは多分午後いっぱい帰ってこないだろうと噂していた。
工員の一人が道雄たちに話しかけた。
「君たちも大変だな。なにせ梶田職長は一ヶ月で君たちを一人前にせんといかんからな」
道雄はその工員に尋ねた。
「それ、どういう意味?」
「だって、俺たち二人はもう辞めるんだ」
「えっ!」
「そうだよ。あんな梶田のような奴のもとで働くのはもうごめんさ。昨日、俺たち二人で、わざと不良品を作って後ろの工程に流してやったよ。そのために梶田職長は今頃油を絞られているところさ。俺たちを馬鹿にした罰さ」
その時、梶田職長が「京葉自動車のイヌ」と呼んでいた清掃工が現れた。
「おや!いのさん!こんにちは!」
「こんにちは!」その清掃工は元気良く答えた。
もう一人の工員が呼びかける。
「いのさんも大変だな。今井重役は辞めたんだってね。今井重役はあの社長に嫌われていたからな。そのために今井重役にかわいがられていた井上さんが職長を追われて、いまや清掃工だ。こんな馬鹿な話があるか」
いのさんと呼ばれていた井上は、モップを手にしながら答えた。
「人間与えられた仕事に貴賤はない。ただ与えられた仕事に全力を尽くす。これだけだ。僕はね、清掃工を命ぜられたとき、自分は日本一の清掃工になろうと誓ったのさ。そのために今全力を尽くしている」
道雄は、その時ハッと気づいた。そういえば、床も機械もピカピカである。工員の一人が言う。
「梶田の奴、本心ではいのさんが怖いのさ。いのさんはみんなの信望を集めている。梶田は社長にうまく取り入って職長の地位を得ている。それだけさ。
あの社長なにせ女好きだからな。それで梶田が川崎のソープランドを案内して、社長の太鼓持ちを勤める。それで職長だ」
井上は、これをただ黙って聞いていた。井上は道雄に話しかけてきた。
「ねえ、君、名前なんていうの?」
だが、道雄は黙っていた。梶田職長から口をきいてはいけないと命ぜられていたからだ。井上はこの道雄たちの立場を察してこう言った。
「大丈夫だよ。僕は口が固い。君たちのことは梶田さんには言わないよ。ところで名前は?」
道雄は答えた。
「木村道雄といいます」
「ああ、木村さんね。それから君は?」
「浅井篤といいます」
「君は?」
「安田信吾といいます」
「そう、木村さん、浅井さんと安田さん、ちょっとこっちに来てごらん」そう言って井上は三人を旋盤のところに連れてきた。
井上は旋盤のところに行くと、道雄たちに中ぐりの方法を教えた。
「いいかね、この部品の中ぐりは、ここの丸棒の真ん中をね、少し外すような形で、端をこのガイドにつけて、少しづつ右へずらしてゆくんだ。そうするとうまくいく」そう言うと井上は旋盤のスイッチを入れ、旋盤を巧みに操り、部品を中ぐりした。
「木村さん、やってごらん」
道雄は、旋盤のスイッチを入れ、井上の言う通り部品を中ぐりした。
「あんた、上手いじゃないか!」工員の一人が思わず叫んだ。井上は満足げに言った。
「やはり、僕の思った通りだ。君は明らかにこの旋盤の仕事に適性があるよ」
道雄はそう言われてとても嬉しかった。自分は恵まれない小中学校の生活の中で、同級生や教師から馬鹿扱いされ相手にされなかった。しかし、人生で初めて、自分の長所を認めてくれる人間に出会ったのである。
井上は、浅井と安田の二人にも旋盤の操作をさせた。二人は、井上の教師としての能力に驚いた。井上は言った。
「梶田さんは、仕事は教えてくれないよ。仕事は教えるものではなく盗むものだという考えだ。僕とは違う。どうだね、これから梶田さんがいないとき、僕が旋盤の仕事を教えてあげるよ。君たちが梶田さんに怒鳴りつけられて困っているのは気の毒だからね」
そう言うと、井上は清掃の仕事に戻っていった。道雄は思った。

「どうして、あの人が清掃工なのか?」と・・。

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