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長編トラベルミステリー小説「急行八甲田の男」2.ある少年の旅立ち。

昭和天皇崩御の年、平成元年三月、木村道雄は北海道余市町の中学を卒業した。
家は農家であり、約三ヘクタールの農地を持っていた。父と母、二十二歳になる兄と弟の五人家族だった。

旅立ちの日がやって来た。

朝十時、家のテレビでNHKのニュースを五分間見たあと、意を決して道雄は家を出た。前日、小樽駅前の長崎屋で買った青のブレザーと灰色のスラックス、茶色の柔らかい革靴、YAMUKU・CLUBのネームの入ったセーターといういでたちである。母親は中古の軽トラックを家の前にとめた。道雄は衣類の入った大きなショッピングバッグを荷台にほうり込むと、助手席に乗った。父親と兄は、カローラのバンに乗り込んだ。
まだ、十五歳の少年には胸に迫るものがあった。何か茫漠とした場所へ連れて行かれるような不安で一杯だった。
道雄にはいろいろなことが思い出された。辛い農作業、初めて押し切りを使った日。
母親が弟の英雄に呼びかけた。
「それじゃあ行くだ。英雄、お前も来い・・」
弟の英雄は白のセーターと、安物のズボンをはいて、トラックに乗り込んできた。泥だらけの長靴を助手席の前に投げ出して、「ねえ、かあちゃん。小樽で何か買ってよ・・」なんて無邪気に母親にせがんでいる。
「ああ、わかった・・わかったから」
母親は軽トラックのギアを入れると、軽トラックはゆっくりとデコボコの道を走り始めた。それに父親と兄の運転する車が追走を始めた。母親が言った。
「小樽駅まで送ってくだ・・」
この村も今日限り。かって遊び回った小川や森ともお別れである。トラックは未舗装の道を土ぼこりを上げながら走っていった。
三月未の北海道は何もない。雪は解けているが、近くの山々はなお雪を頂いている。
「千歳から飛行機か?」と母親は道雄に尋ねた。
「そうだよ」
これを聞いた弟の英雄は「自分も乗りてえ」と言い出した。
「片道だけで、帰れねえでもいいならええぞ」と母親が低い声で英雄に言うと、「それなら・・ええ」と答えた。
軽トラックは農道から国道に入ると、一路小樽市街へと向かった。その車中の助手席で道雄はこう母親に話しかけた。
「このあいだ、中学の卒業式では、みんな進学する高校の話でもちきりだった。でも、俺は一人就職だ。みんなに無視されてとても辛かった。高校へ行く連中はもう俺には目もくれない。教師も『お前はどうせ就職だから』としか言ってくれない」
しばらくして道雄は母親にこう自分の思いを伝えた。
「とにかく、俺は東京へ出て一旗揚げるんだ。俺は中学しか出ていない。高卒や大卒の連中に勝つには金しかない。金を儲けて、会社を興して、みんなを見返してやるんだ。これが俺の夢さ・・・。そのために一番給料の高い会社を選らんだんだ」
「そうか」、母親は唸るように答えた。道雄は続ける。
「先生は強く反対したよ。その会社、アスカ産業という自動車部品メーカーなんだけど、去年就職した人が半年でやめてしまった。むしろ、給料は安いけれど、京葉自動車のような大手メーカーに勤めて、地道に働け。そのほうが絶対にいいと言っていた。
だけど、大手メーカーに勤めていても、いずれ三年たてば高校卒の連中が、七年たてば大学卒の連中が自分を追い越して出世する。そいつらが俺を手駒のように使う。そんなの面白くないよ。
だいいち半年で辞めたと言っても、それは辞めた奴に根性がないからだ。俺はそんな根性なしとは違う」
母親は、この道雄の考えをただ黙って聞いていた。道雄は続ける。
「金をためれば、いくら中学卒といっても高卒や大卒の連中でも、俺を軽くは見ないさ。今に会社を経営して、大学を出た連中を使って・・・だから、二十年後の中学の同窓会を見てろというんだ。ほかの連中は高校や大学を出てみんなペエペエのサラリーマン。中学で無視された俺が一番出世している。そうしてみんなをアッと言わせてやるんだ。高校卒や大学卒の連中が安い給料をもらっている時に、俺は外車に乗って、豪邸をかまえて、会社の社長になるんだ」
母親は頷いた。
「世の中は甘ねえど、頑張るだ」
トラックはやがて小樽市内に入った。小樽市街はスパイクタイヤのホコリが舞っていた。コートに身を包んだ人々が小樽駅前の交差点を渡って、次々と小樽駅に入って行った。
小樽駅前、長崎屋の近くにある商店街の駐車場に車を止め、父と母、兄と弟は小樽駅の構内に入った。駅は人でごった返している。

道雄は小樽から千歳空港駅までの切符を自動販売機で買った。母親は、窓口で四枚の入場券を買った。

その時、改札の前で、一人の、中学を卒業したくらいの少女が大きな紙袋を手に下げて泣いていた。乗客たちが、一体何事かと、遠巻きにして見ている。
その父親らしき男は安物のウイスキーの瓶を持ちながら、大声で言い渡した。
「お前のような親不幸者はもう家に帰ってくるな!」
「そんな・・ひどい!」
父親は悪態をついた。
「ふん・・事業に失敗して・・会社が倒産して・・・本来ならお前にいろいろしてやりたかった・・だがよ・・お前のどこが気に入らないといって、お前の新しい母親に対するお前の態度はなんだ!・・それで、・・それであいつはもうお前とは一緒に住みたくないとわしに言ってきた。・・さあ・・さっさと東京でも何処へでも行ってしまえ!」
その少女は、これを聞いて目にハンカチをやりながら、大きな紙袋を持って改札からホームに通ずる地下道へ消えていった。
その男は、飲みかけたウイスキーの瓶をあけると、ゴミ箱に投げ捨てて、訳のわからない言葉をつぶやきながら、小樽駅の外に出ていった。その一部始終を見ていた人たちは、三々五々再び思い出したように散っていった。
道雄は、ふと、不思議な感情は襲われた。
「東京でも何処へでも行ってしまえ・・」あの少女は自分と同じ場所へ行くのだろうかと考えると、胸が締め付けられる思いがした。自分と同じ列車に乗るのだろうか、そんな期待を抱いて、その少女の後を追うように、父と母、兄と英雄、道雄は小樽駅の地下通路からホームに上がった。
道雄は一番線に停車していた、札幌方面、岩見沢行普通列車に乗り、座席を占めると、列車の窓をあけた。母はホームから窓越しに手作りのおにぎりを渡した。
「腹減ったら食うだ」
「父さん、母さん、兄さん、英雄、じゃあ行くからね」
そこはまだ少年のこと、胸に迫る思いがある。母親が言った。
「夏の休みには東京から帰ってくるだ」
ホームのベルが鳴った。駅の案内放送が列車の出発を告げる。
「11時12分発、岩見沢行普通列車発車します」
列車は静かに小樽駅をゆっくりと発車した。母は目に涙を浮かべこう言った。
「辛いことがあれば、手紙をよこすだ」
「兄ちゃん!」
さっきから何もしゃべらなかった英雄が、涙声で道雄についてきた。
「お母さんを頼むぞ!」。道雄は弟の英雄に叫んだ。
列車は次第に速度を上げる。父母と兄、弟は道雄に手を振る。道雄は窓から乗り出し、手を振る。父母と兄、弟の英雄の姿は次第に小さくなっていった。
列車は小樽駅の構内を抜けて、小樽市街の高架橋を通過した。懐かしい小樽市街が見える。列車は次第に加速していった。
小樽築港駅を出発してしばらくすると、車窓に日本海が広がった。ふと、振り返ると、海をはさんで遥か遠くに小樽の街並みが望めた。やがて列車は線路に沿って右にカーブをきると、小樽の街並みは見えなくなった。

日本海を見ながら道雄は涙にくれていた。周りの乗客たちは一体何をこの子は泣いているんだろうかと不審に思って、こちらのほうを見ている。
ところが、泣き止んでみると、まだ女の泣くのが聞こえる。ハッとして後ろの席を覗くと、大きな紙袋を席に置いた、さっき小樽駅の改札で父親らしき人と言い合いをしていた少女が泣いていた。青縞の丸首セーターに上着をはおり、青のやや短いスカート、白のソックスにスニーカー。どれもみな新品である。
少女のほうも、道雄が自分を覗いていることに気づいた。ふと目を合わせた瞬間、道雄の心には心中穏やかでないものが感じられた。道雄はしばらく考えたが、勇気を奮い起こして少女に尋ねた。
「どうして泣いているん?」
少女は驚き、道雄の目を覗き込んだ。道雄はいいわけがましく、こう言った。
「どうして泣いているのかと思って・・・」
少女は、聞き返す。
「何か?・・・」
少女はその時、道雄の目が涙で真っ赤になっていることに気づいた。少女は後ろの席で、先ほどの道雄と母親のやりとりの一部始終を聞いていたのだ。そして、道雄が自分と同じように東京に行くということをはっきり知ったのである。少女は言った。
「ところで、あなたは東京のどちらに行かれるの?」
道雄は驚いた。やっぱり、さっきの母親との会話を聞かれていたのだ。道雄は尋ねた。
「どちらへって・・?」
「だって、さっき小樽駅でお母さんと話してたじゃない」
道雄は、「なるほど、良く見てるな・・」と思いながら、「神奈川県、川崎さ・・」と答えた。
少女は言った。
「ねえ、こちらの席にこない。どうせ同じ旅よ」
道雄は何か気まずい感じがしたが、思い切って、少女の言うとおり、四人掛けのボックスシートに「じゃあ、ここに」と言い、どぎまぎしながら座った。道雄は尋ねた。
「君は、どこの出身?」
「小樽よ。中学校を卒業して、東京へ出ていくの。あなたは、どんな会社に勤めるの?」
「俺は、神奈川県川崎にあるアスカ産業という会社に就職するんだ。何でも、京葉自動車の協力会社で、自動車部品を作っているとか」
「えーっ!あの京葉自動車の・・協力会社。でも聞いたことのない名前ね」
「何か、今度、新工場を作って、人が足りないとか」
「そう・・」
列車の車窓には日本海が広がっていた。車内は暖房がきき過ぎていて、かなり暑かった。道雄は、列車の窓を少し開けた。海風が入ってきたが、「寒い!」と感じてすぐに閉めてしまった。
道雄は少女に問い返した。
「君は、どんなところに就職するの?」
「パン屋さんよ」
「パン屋さん?」
「そうよ。焼きたてパンを売っているチェーン店よ」
「ねえ・・」道雄はきり出した。
「何よ?」
「その・・・」道雄は思い切ってこう聞いた。
「君の名前はなんていうの?」
「三矢初江(はつえ)というの。よろしくね」
「僕は、木村道雄。よろしく」
初江は、ニコリと微笑んで、道雄の目をじいっと覗き込んだ。道雄は初江に見つめられて、思わず目線を下げてしまった。
初江は「ふふふっ・・・あっはっはっは」と吹き出してしまった。初江は言った。
「わたしね、中学では放送部にいたの。よく発声練習をしたわ。だから声はきれいでしょ」
道雄は初江の声の響きに、胸が締め付けられるのを感じた。今度は道雄が初江の目をじいっと覗き込む。初江はそれに気づくと、顔を赤らめて、思わずほおに手を当てた。
二人は、初めての恋心を抱いた。もう二度とこんな出会いはないのではないか?そう感じた二人は、東京で再会したいと強く思うようになった。

しばらくすると、岩見沢行普通列車は札幌近郊に入ってきた。列車は札幌の四つ手前の発寒(はつさむ)駅に到着した。
初江は「あら、もう発寒だわ。あなたどうやって東京に行くの?」
道雄は焦って答えた。
「千歳空港から飛行機で」
「そう、わたしと同じね」
初江はハッとして、道雄に尋ねた。
「ねえ、道雄さん。あなた住所はどこ?また会いたいわ。わたしはここよ」
初江はそう言って、メモを渡すと、まだ女の一人住まいの怖さも知らず、道雄に自分のアパートの住所と電話番号を教えた。
「ぼくはここさ・・」
道雄は川崎のアパートの住所と電話番号を書いたメモを渡した。初江と道雄が互いに相手の住所と電話番号を書き取っている時に、列車の案内放送が流れた。
「皆様、まもなく札幌に到着いたします。各線のお乗り換えの連絡時刻をご案内いたします」
「あーん、時間がない」
そう言いながら、初江はムーミンとニョロニョロのイラストの入った鉛筆で、道雄の住所と電話番号を必死になって手帳に書き取った。
「これから先、函館本線岩見沢、旭川方面特急『ライラック13号』旭川行12時30分、7番線。苫小牧、室蘭、函館方面函館行特急『北斗10号』13時ちょうど、6番線。千歳線、室蘭本線、空港ライナー千歳空港行、12時21分、8番線。苫小牧行普通列車12時32分、8番線。帯広、釧路方面石勝線経由『おおぞら5号』釧路行12時26分、6番線。学園都市線、あいの里教育大学行普通列車12時38分、4番線。岩見沢行普通列車は、この列車です。岩見沢方面各駅におこしの方は、引き続きこの列車にご乗車ください。
本日はジェイアール北海道をご利用ありがとうございます。どうぞお忘れ物のないようにご用意ください」
初江は「千歳空港行の快速は8番線ね」と言った。

列車が札幌駅に着くと、二人揃って千歳空港行の快速の出発する8番線へと急いだ。

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