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短編集、彼岸花。使い込み。

目次

使い込み
足切りの男
彼岸花
赤穂線の風景
娘の恋人
紙魚
特攻

(これらの小説に登場する人物、団体、事件等はすべて架空のものであり実在しません)

使い込み

夏の岐阜は美しい。岐阜市内を流れる長良川の、岐阜公園から長良橋を渡った北岸のほとりに立ち、南の、頂きに岐阜城がある金華山を望むと、緑の自然林に覆われた美しい山容を望むことができる。
先週、土曜日の晩は長良川で花火大会があった。その花火大会を見るために、岐阜市一円、名古屋から多くの見物客が、夕方の涼しい長良川の川風が吹く堤防に集まっていた。長良川の鵜飼船も、その日の予約は満員だったという。

その夏の盛りの岐阜駅での出来事から話は始まる。

それは、夏の暑い日の朝だった。

平成十年八月八日の月曜日、午前七時三十分、朝方のジェイアール岐阜駅は、名古屋方面に向かう通勤客で混雑していた。近代的な三階建ての高架ホームに上がるためのエスカレーターに、次々と通勤客が乗って上がっていく。
一方、米原方面、大垣から来た名古屋方面豊橋行の快速列車が岐阜駅に到着すると、電車から降りた多数の乗客が、ホームから、二階の広々としたコンコースの改札口の自動改札機に次々と定期券を通していく。
通勤客は一階へのエスカレーターに乗り、岐阜駅北口のバス乗り場があるロータリーから、バスに乗って、岐阜市内にある勤め先へと向かっていった。

その岐阜駅の改札口の柱に、二人の警官がじっと立っていた。その警官たちは、名古屋方面から降りてくる人間をひたすら注視していた。その中に不審者が混じっていないかと見ていたのである。
今朝早く、名古屋市中村区のコンビニエンスストアに強盗が押しいった。その強盗はナイフで店員を脅し、レジから十万円の金を盗むと、そのまま名古屋駅方面に逃走したという。
その強盗は、年齢四十五歳くらい、ややがっしりした体格に、短い髪をした浮浪者風の男で、青の半袖のポロシャツに紺色のズボンをはいていたという。その男の行方を、朝方から緊急配備で追いかけていたのである。

と、その時である。一人の歳の頃四十五歳くらいの、安手の半袖の白のカッターシャツに、白いズボン、安物のズック靴を履いた男がホームの階段を降りてきた。その男は無精ひげを生やしており、憔悴し寝不足の感じだった。その男は、駅の改札口の外に警官がいるのを見て足を止め、素早く方向を変えて逃げようとした。
それを一人の警官が見つけると、もう一人の警官と、そのまま改札から、その男を追った。男は、ホームの階段を上がると、名古屋方面の列車を待っている乗客の列に並んだ。
男の背後に警官が回り込むと、警官が声をかけた。
「あの、ちょっとお聞きしたいんですが?」
男は、その声に振り向き、二人の警官を見て目の玉を丸くして驚いた。警官は、たたみ掛けるように聞いた。
「さきほど、改札口で私の姿を見て逃げようとしましたね。どうしてですか?」
男は震える声で答えた。
「そ、そんな・・・逃げようだなんて・・」
「失礼ですが、お仕事はなんですか?」
「仕事・・寿司店の店員ですけど・・」
「寿司店の店員さん。で、お店は何処にありますか?」
「店は、大阪の千日前にあります」
「でも、ここは岐阜ですよね、今日はご旅行ですか?しかし、旅行カバンはお持ちでないですね」
もう一人の警官が尋ねた。
「失礼ですが、住所は何処ですか?」
「住所は、特にありません・・」
「ということは、住所不定ということですか?」
「いえ、今は住み込みで働いていますから、その寿司店が住所です」
「そうですか、寿司店の名前は?」
「鱧(はも)寿司と言います」
「鱧寿司ね・・・それで、住所は?」
「大阪市浪速区千日前の・・ええっと番地までは覚えていません」
「なるほど、電話番号は?」
「ええっと・・・06ー32・・・」
「なるほど、06ー32・・・・」
そう言って、警官は手帳に電話番号をメモした。警官は続けた。
「申し訳ありませんが、下にある鉄道警察隊で、詳しい事情をお伺いできませんか?」
「わかりました」
乗客たちは、何が起きたか?興味深げに、警官がその男を連れていく様子を見ていた。そこに名古屋方面の快速列車が到着したので、乗客たちは満員の列車に、我先にと乗り込んでいった。

警官は、その男を鉄道警察隊の詰め所に連行すると、奥のデスクで話を始めた。もう一人の警官は、岐阜中署に電話連絡をとっている。
警官が職務質問を始めた。警官は尋ねた。
「失礼ですが、お名前は?」
「松本良雄と言います」
「それで、身分証明書、例えば運転免許証はお持ちですか?」
「いえ・・持ってません」
「なるほど・・・それで、どうして、さきほど逃げようとしたのか?そこのところをお伺いしたい」
男は答えた。
「逃げようだなんて・・・」
「ここは、はっきりと答えられた方が良いと思います」
「そんな、はっきりなんて・・・」
朝であったが、もう温度は三十度以上あった。男は、吹き出した汗を拭うために、ズボンの後ろのポケットから白いタオルのようなハンカチを出した。ところが、そのハンカチには黒く固まった血がついていた。警官は、これを見て顔色を変えた。
「おい!そのハンカチの血糊は何だ!」
その一言に男は、「しまった」という顔をして慌てた。警官は、そのハンカチを取り上げると、ハンカチには、黒ずんだ人間の血液を拭き取ったような跡があった。警官はたたみ掛けた。
「一体、これは何だ!早く答えたほうが身のためだぞ!」
その時、もう一人の警官が、さきほど男の言った鱧寿司に電話をかけていた。その返答があった。ふん、ふんと話を聞きながら、警官の顔色が変り、厳しい表情になった。警官は、威嚇する声で、恐れおののく男に、腹の底から響く声で恫喝した。
「おい!お前!昨日の晩、女に出刃包丁で切りかかったんだってな!電話で寿司店の店主がそう言っていたぞ!」
これに、男は観念したのか、ついに自供を始めた。
「申し訳ありません!昔知り合った女に切りかかり、怪我をさせました!」
「そうか、わかった。そうすると傷害だな。それじゃあ、これから岐阜中署に連行するから、そのつもりで用意しろ。今、パトカーを呼ぶからな」
もう一人の警官が、受話器を取ると岐阜中署に連絡を始めた。
「もしもし、どうも、さきほど職務質問で捕まえた男は、昨日の晩、大阪市浪速区千日前の鱧寿司という寿司店で、女に切りつけたらしい・・そうだ、傷害だ。至急パトカーを一台、ジェイアール岐阜駅に回して欲しい。それから大阪府警に照会をお願いしたい・・」
もう一人の警官は、男の所持品検査を始めた。男を立たせるとポケットから所持品を机の上に出させた。ティッシュペーパー、財布、運転免許証、それだけだった。
「何だ!運転免許証があるじゃないか!噓つきやがって、この野郎!」
もう一人の警官が男に尋ねた。
「これだけだな・・」
「そうです」
「凶器の包丁は、どうした?」
「川の中に捨てました」
「そうか・・・どこの川だ?」
「大阪環状線の電車に乗って、大きな川の鉄橋から、電車の窓を開けて、川の中に投げ込みました。川の名前はわかりません」
「そうか・・」

しばらくすると、パトカーが岐阜駅前のロータリーに到着した。男は警官に手錠をかけられ、何があったのだろう?と見物しているやじ馬の視線を浴びながら、二人の警官にがっちりと脇をガードされてパトカーの中に連れ込まれた。パトライトの点滅するパトカーは、岐阜市の繁華街へ、北の柳ヶ瀬の方向に、平和通りを凄い速さで岐阜中署に向かった。

男は警察に到着すると、直ちに所持品検査をされた。血糊のついた白いタオルハンカチ、ティッシュペーパー、三万二千九百円の入った財布、それから期限切れの運転免許証がすべてだった。その運転免許証の本籍を見て、担当の蒲田刑事は尋ねた。
「本籍は、茨城県取手市・・・」
男は答えた。
「そうです。家は埼玉県川口にありました。・・でも今は誰もいないと思います」
「そうか・・で、そこに、お前の家族がいるわけだな」
「多分、いないと思います」
「なぜ、そう思う?」
「おそらく、借金のカタに家は取られてしまっていると思うからです」
「そうか、一度家族に連絡をとってみよう。・・山本くん、本籍照会の依頼と家族への連絡を頼む」
若い山本刑事は、「はい」と答えると、被疑者の運転免許証を持って取調室を出て行った。男はポツリとこう言った。
「連絡しても無駄だと思います。妻は離婚したがっていましたから・・」
「そうか、それで何で家出したんだ?」
「借金に追われて逃げてたんです」
「それは、何の借金だ?」
「サラ金の借金です」
「そうか・・」
蒲田刑事はタバコに火をつけると、男にタバコを勧めた。男は、自分はタバコを吸わないと断った。蒲田刑事は続けた。
「まあ、正直に何もかも話すことだな・・」
「ですから、女の腕を刺して怪我をさせたと・・」
「本当に、それだけか?」
「と、言いますと・・」
「さきほどから大阪府警に問い合わせているんだが、その女の所在が不明だ。警察に被害届も出ていないし、近くの外科医にも、そのような怪我をした人間が運ばれたという記録がない」
「それは、どういうことですか?」
「わからん、まあ、とにかくこちらで女の消息が分かるまで当分拘留だな・・ところで、何だって家出なんかしたんだ?」
「まあ、いろいろと・・」
そこに山本刑事が入ってきて、蒲田刑事に耳打ちをした。それに蒲田刑事は頷いていた。蒲田刑事は切り出した。
「実は、運転免許証の住所から奥さんの住所を調べて、電話連絡したよ。そうしたら・・」
「・・・・」
「そうしたら、もう離婚するつもりだったので、放っておいて欲しいということだった」
「そうですか・・」
そう言うと、男は首をうな垂れた。家族を放っておいて、今更家に帰ろうとは思わない。ましてや、傷害を起こしたというのでは、もう面倒を見切れないというのが妻として当然の態度だろう。蒲田刑事は尋ねた。
「ところで、凶器の包丁はどうした?」
「大阪環状線に乗っていた時に、確か、電車が弁天町駅を発車して直ぐ大きな川の鉄橋を渡っている時に、電車の窓を開けて川の中に投げ込みました」
「そうか・・」

その晩、男は拘置所の薄暗い独房の畳の上に寝転んで、自分の犯した罪の恐ろしさに震えていた。男の脳裏には昔の出来事が走馬灯のように頭に蘇ってきた。男は昔、中堅商社、上蔵商事のサラリーマンであった頃を思い出していた。
二年前の春、男は定期異動で念願の第三営業部の課長に昇進した。これを、家に帰って妻と高校生になったばかりの娘に報告すると、大いに喜んでくれた。

男は、女性物既成服の販売を任された。ある日、野付という繊維問屋の社長が会社にやってきた。取引をしたいというのだ。
男は、その頭の禿上がった野付という人物と親しくなり、スカイキャットというバーに連れ込まれた。そのバーの一人の女が男に会釈した。短いスカートをはき、その恵美という女に男は夢中になった。その女は、まだ若かったが、非常に礼儀正しく、細やかに男の気持ちを読む勘のようなものがあった。男はその晩、女と関係を持った。

その次の日、営業部に男は出勤したが、もう頭の中は女のことでいっぱいだった。今は、もう、あの女とどう理由を付けて会うか?というのが男の最大の関心事だった。
だが、その会員制のクラブは非常に高かった。よく男はそのクラブで、野付社長に接待された。そこに行けば、一夜は恵美という女を好きに扱えた。もう、男には、恵美という女しか眼中になかった。

三ヶ月たったある日。松本が野付商事に行くと、野付商事の社長は、松本に、三ヶ月前の売掛金の支払いとして、社長室の金庫にあった四百五十万円余りの現金をポンと渡した。松本は、これを受け取ると、手元から領収書を取り出して、正に領収しましたという領収書を野付社長に渡した。野付社長は意地悪そうに、松本に尋ねた。
「ところで、このあいだの恵美という女は、どうでしたかな」
それに松本は困惑して答えた。
「さあ、最近、あの店には行ってないんです」
それを聞いた野付社長は咲い出した。
「ハッ、ハッ、そういう噓を言っちゃあ駄目だよ。昨日、あのスカイキャットという店に行ったら、恵美ちゃんが、『最近、松本さんに、ぞっこんなの』なんて、言ってましたよ。それで、一昨日も電話があったとか、話してましたからな」
そう言うと、野付社長は、意地の悪い笑い声を上げた。

会社に帰ってくると、松本は会計課に行って、売掛金の代金四百五十万円余りを係の女の子に渡した。係の女の子はこれに非常に驚き、「これからは、銀行振込にしてもらってください」と、松本に注意した。
自分のデスクに戻ってくると、係長が、「あの、部長が呼んでいますけど・・」と、言った。野付商事の件で話があるというのだ。部長のデスクに行くと謹厳実直な感じの営業部長は、松本に、こう言った。
「実はね、橋本百貨店のほうから苦情が来ているんだよ」
「と、言いますと?」
「実は、君が藤橋産業から野付商事に売った既成服が、このあいだディスカウントストア、Gマートに大量に流れて安売りされていた。それを藤橋産業の担当者が発見して、カンカンに怒ったそうだ。これは協定違反だとね。どうして、あの野付商事へなんか商品を流したんだ。すぐに、中止したまえ」
「はあ、分かりました」
「君、もう課長になったのだから、こういう事は注意しないといけないね」
「はい」
それを聞いて、松本は気が動転した。あの野付商事は、そういう魂胆で自分に近づいてきたのか・・。松本は、自分のデスクの電話を取ると、野付社長に電話を入れた。野付社長は、こう謝った。
「いやあ、申し訳ない。そういう事があったというなら、早速、僕のほうで調べてみるよ。とにかく担当者が不慣れなものだから・・・いや、新米でね。まあ、これからは注意するよ。ところで、今夜、ひとつ、スカイキャットへ行かないかね?恵美ちゃんが、寂しそうにしているぞ。『松本さん、一体どうしたの?』なんて、携帯電話で喋っていたよ。そこで、今日の詫びは入れるよ」
スカイキャット、恵美という言葉を聞いて、松本は、胸がゾクリとした。まあ、こちらのほうも、何とかごまかして、とにかく恵美という女が、一晩、好きにできるという欲望が先に立って、いても立ってもいられなくなった。
松本は家に電話を入れた。電話口には、今年高校に入学したばかりの十五歳になる娘が出た。松本は切り出した。
「すまないが、今夜は徹夜になるかもしれない」
「そう、そうすると、またお母さんと二人で食事ね」
「そうだ。営業課長になっていろいろ忙しくなって、申し訳ないね」
「わかった。じゃあ、今日の夕食は二人分ね」
「まあ、そういうことだ」
そう言って、松本は電話を切った。

松本の、ローンを組んで買った狭い一戸建ての一階の六畳間では、妻の友子が寂しそうに本を読んでいた。そこに娘の千枝子が、松本からの電話を伝えてきた。
「お父さん、今日も帰りが遅くなるんだって」
「そう・・」
友子は、もう四十二歳になる。東京の短大を出て上蔵商事に事務員として入社した。その事務員だった友子を松本が見染たのである。松本は、その友子の気を引くために、大手メーカーである支倉製作所との取引を必死になってまとめた。その功績を手土産に友子にプロポーズしたというのが、友子の楽しい思い出だった。
しかし、それは昔の話だった。かって、その可愛い顔から、職場の花として同僚男性の憧れの的だった友子の顔にも、最近シワが目立ってきた。
それを、何とか化粧でごまかそうと、このところ三十分近く三面鏡の前で頑張っているのである。それよりも、最近、夫が自分に妙に冷淡なのが非常に気にかかっていた。

男には、もう恵美という女のことしか頭が働かなかった。ある日のこと、野付社長が、いつものように四百二十五万円余りの現金を野付社長の会社で渡した。三ヶ月前の既成服の代金だった。男は、その金を会社に入れなかった。そして、この金を持って、そのままスカイキャットというバーに直行した。
男は恵美という女に話しかけた。
「もう、俺は君に夢中だ。どうだ、俺と一緒に暮らさないか?」
「そう、いいわね。でも奥さんはどうするの?」
「あんな女、もう、どうでもいいんだ。離婚する」
「・・・そう・・、それならいいわ。私、待ってるわ」
その一言に男は舞い上がる気持ちだった。そして、野付商事から回収した売掛金の代金を、その恵美という女につぎ込んだ。

課長になった年の冬。男は野付商事から回収した現金をポケットに入れて、女と北陸に旅行した。東京から越後湯沢まで上越新幹線で出て、そこから特急で、直江津経由金沢、加賀温泉へ恵美という女と旅行したのである。
冬の雪がしんしんと降る北陸の、どんよりとした空、荒波に砕ける日本海。その温泉旅館で、男は恵美という女の体を貪った。

松本は課長であったから、売掛金を管理する端末を操作する権限を持っていた。そして、野付商事からの入金があったかのように、他の会社の入金を野付商事の勘定に入れるという形で、巧みに金銭の私消を隠していた。
男は、私消した売掛金の穴をどう埋めるかに腐心していた。そこで、着服した代金の一部で、競馬をやったり、株を運用して、その収益を穴埋めに使おうとしたが、逆に損を出して、もう、どうにもならない状態にまで追い詰められた。

半年ほどして、破局はやってきた。男は、ある日、部長に呼ばれた。部長が言った。
「実は、我が社は知ってのとおり店頭公開を目指すことになった。それで、監査法人との監査契約締結前の公認会計士監査が行われている。それで、野付商事の売掛金が回収されていないそうだが、あれは、どうしたのかね?」
それに男はギクリとした。
「それで、さっき野付商事に電話を入れたところ、君に毎月現金を渡して領収書も受け取っているという話だが、一体どうなっているのかね?」

こうして売掛金の私消が発覚してしまった。男は、その日、売掛金を野付商事から入金してもらう交渉をすると言って会社を出た。それが、その会社との関係の終わりだった。
会社は新橋駅前にあったが、男は山手線の百四十円区間の切符を買うと、そのまま山手線の電車の中から、秋の空を見つめ、自分の犯した罪の恐ろしさに震えていた。このままでは会社を首になるだけではなく、警察に告訴され、一戸建てのローンを組んだ家まで取られてしまう。そうして、そのまま会社に行かず、家にも帰らなかった。

男が二日ぶりに家に帰ると、妻の友子と娘は玄関に出迎えもしなかった。家に上がると、台所の食卓で友子と娘が食事をしていた。自分の食事はなかった。男が姿を現しても、友子と娘は男を無視し続けた。友子は言った。
「食事なら、近くのコンビニにでも行って弁当でも買ってきて下さいね・・・」
それは、非常に冷たい響きのする言葉だった。男は、この言葉にひどく傷ついた。そういう言い方はあるまい。
「食事を作ってくれないのか?」
友子は言った。
「今日、会社の方が家にみえたわ。何でも会社の金を千二百三十五万円使い込んだそうね。それも女の人に貢いでいたとか・・」
その、妻の冷たい口調に、男は怒った。そして残酷な言葉を妻の友子に浴びせかけた。
「そうさ、恵美という女だ。お前なんかよりも、ずっと可愛い女だ。食事だって作ってくれる」
「そう、じゃあ、その女の所に行けばいいわ」
「そうか・・わかった。そうするよ」
「もう、私たちも、ここまでね・・、何よ!こんな目に私をあわせて!会社の人は、私消したお金を返してくれれば、警察には告訴しないと言ってたわ。後は自分で全部カタをつけてね。・・もう、沢山!近所の人たちに顔向けができないわ!この、ろくでなし!」
「ろくでなしだと、そんな言い方はやめろ!」
「ろくでなしでなければ、何と言えばいいのよ、女ったらし!泥棒!詐欺師!と言えばいいのかしら!」
この一言に、男の怒りは頂点に達した。男は拳を握り締めると、友子をバシッ、バシッと二発殴った。友子は、崩れ落ちると泣き出し始めた。娘が怒った。
「お父さん!何をするのよ!お母さん、何も悪いことしてないでしょ!どうして、お母さんを叩くのよ!」
「千枝子、いいのよ、もう離婚ね・・」
その一言を聞いて、男は、「俺は出ていく」と、言い残して、そのまま玄関のドアを開けて、外に消えた。それが妻と分かれた最後だった。

男は、そのまま何処かに雲隠れするのが良いだろうと考え、銀行のキャッシュカードであり金を全部引き出し、それっきり家に帰らなかった。

それから、日本各地を逃げ回った。パチンコ店の住み込みの店員、土木作業、今では、大阪千日前の寿司店に住み込みで働いていた。

警察に捕まる前日の夜のことだった。千日前にある寿司店に、恵美という女が、偶然、若いヤクザ風の男と一緒に入ってきた。割烹着を着たかっぷくの良い店主が、「へい!いらっしゃい!」と言うと、二人はカウンターの席に腰かけた。並んで座った女は、時々ヤクザにからかわれながら嬌声を上げていた。女は、その寿司店のカウンターの後ろの洗い場に、かっての色がいるとは、考えもしなかった。
店主が二人の前にお茶の入った大きな湯呑みをドン!と置くと、威勢の良い声で尋ねた。
「何にします?!」
女は答えた。
「そうね・・・特上の握りがいいわ」
「俺も、それがいい」
店主が威勢のよい掛け声をかけた。
「はい、特上の握り二丁!」
女は若い男と話を始めた。
「あの、野付とかいう嫌な繊維問屋の社長、このあいだ、会社が倒産したんだって。それ聞いて私、笑っちゃった」
それに、ゴツい体格をした角刈り頭で、黒のズボン、半袖のポロシャツの男は頷いた。
「兄貴が、あの会社の整理は、なかなかウマい仕事だったと、言ってたぜ」
「ハッハッ、もう、あのハゲオヤジとおさらばできるなんて良いわ。あの野付という社長に頼まれて、商社の営業部長や営業課長をたらし込む仕事なんて、もう御免よ。あんなスケベオヤジ相手にしてるより、私、あなたのような若い男が良いの・・」
そう言うと、女は猫のように男に肩を寄せてまとわりついた。女は、こう言った。
「それにしても、覚えているのは、あの上蔵商事の間抜けな営業課長の松本という人。あれは、ホントに馬鹿ね」
その一言に、調理場の洗い場の仕事をしながら話を聞いていた松本はビクリとした。女は続ける。
「私の店って高いのよ。あんなサラリーマンの来れるような所じゃないのに、家のローン払っている営業課長が毎日店に来るの。お金は一体どうしてたのかしらって思ってたら、会社の金使い込んでいたんだって、馬鹿よ、馬鹿!」
その一言に女が抱きついていた男はゲラゲラと笑った。
「ホントかよ、それ!馬鹿なオヤジ」
「それで、後から会社の人が来て、遊んだ金返せって言うの。それで、ママがね、その松本という人どうなりました?って聞いたの。そうしたら、奥さんに離婚されて、家出しちゃんだって!」
それに男はゲラゲラと高笑いした。それを聞いていた松本は、耐え切れず、その場にあった出刃包丁を振りかざすと、その女の前に凄い形相で現れた。
女は、それを見て顔色を変えた。松本は、
「この野郎!」
と言うと、女は逃げ出した。松本はカウンターの下を潜ると、店の外に女を追いかけた。店主や客たちが驚いて、その後を追いかけた。
女は足を躓かせてその場に転ぶと、松本は、叫んだ。
「この野郎!お前を殺してやる!」
それに、女は毒づいた。
「私はね、昔、高校を出て事務員になって、エリートサラリーマンに騙され、おもちゃにされてから、大会社のサラリーマンを見ると、その時の復讐をやろうと思うのさ!だから、あんたなんか、いい餌食だよ!そうして家庭が無茶苦茶になってしまうのを、私は喜んで見てるのさ!なかなか、いい格好よ!あんたの、その格好は!」
その一言に男は怒り、出刃包丁を振り回し女に切りかかった。女は悲鳴を上げて逃げ回ったが、腕の一部を切りつけられた。
「ああ、痛い!痛い!」と女は叫んでいた。ヤクザの男は、これを見て、「おのれ、何すんねん!」と、飛びかかってきた。しかし出刃包丁を夢中で振り回す男に怖気づいたのか、ヤクザと女は不法駐車していたアメ車に乗り込むと急発進した。

男は、恐ろしくなって、その出刃包丁を手に持ったまま逃げ出して、地下鉄の電車に乗り込んだ。ハッと気づくと、血のついた出刃包丁を手に持っていた。その出刃包丁を見えないようにタオルハンカチで包むと、天王寺駅で大阪環状線に乗り換えた。男は、乗り込んだ環状線の電車が長い鉄橋を渡っている時、電車の窓を開け、その出刃包丁を川の中に投げ込んだ。

男は、警察が緊急配備をしていないか?不安になり、深夜の環状線の電車から、大阪駅で東海道線に乗り換えると、京都方面、高槻駅から先の山崎駅で降り、近くの山の中に隠れていた。一体、これから、どうすれば良いのだろうか?もう、大阪にいるのは危ない。再び、東京に出て、そこで住み込みで働いたらどうだろうか?

その夜中、蚊に食われ、山の中で一晩考えた。自分にとって妻の友子がすべてだった。あんな恵美という女はどうでも良かったのだ。自分は、なんて罪深いことをしたんだろう。だが、すでに、そのような後悔したとしても、妻や娘が自分の許に帰ってくるわけではない。

午前四時すぎ、朝が明けると、早朝の山崎駅の自動券売機で切符を買い、京都方面の始発列車に乗ろうとした。山の緑が美しい山崎駅のホームは、非常に暑かった。蝉の泣き声が非常にうるさい。男は、大阪方面からやってきた始発列車に乗り、そのまま東京に向かった。
朝の滋賀県大津、瀬田川の鉄橋を電車が渡ると、夏の琵琶湖が電車の車窓から眺められた。時々、寝不足でうつらうつらしながら、近江の田園風景を車窓から見ていて、男は、ハッとした。
ひょっとして、あの恵美という女は、自分のケガがもとで、出血多量で息を引き取ったということは、ないだろうか?そうしたら、自分は、下手をすれば殺人罪で死刑である。そう思うと息が止まった。とにかく、何としても逃げなくてはならない。

そうして、岐阜駅で降りようとして、警官に捕まったのである。

今、自分は拘置所の独房で、コンクリートの天井を見ながら寝転んでいる。初めて職場で新人紹介されていた、あの妻の若い頃の姿が蘇った。友子は本当に美しかった。
そうして、ある日、鎌倉に行ってプロポーズした時のことを思い出した。華やかな結婚式、そして娘の出産・・・そう、こんなことがあった。ある雪の晩。小さかった娘が盲腸に罹り、近くの病院まで飛んで行ったことがあった。そして、すべては夢のように去った。できれば、再び、あの日に戻りたいと男は思ったが、それは、かなわない事であった。

男が捕まって六日がたった。相変わらず暑い日であった。だが大阪府警から、岐阜中署には、何の連絡もなかった。
蒲田刑事は、冷たい缶コーヒーを飲みながら、タバコをふかしていたが、山本刑事にこう話かけた。
「それで、大阪府警からの回答は?」
「それが、そのような被害届も出されていないし、その女と一緒にいた男の足取りも掴めていません」
「なるほど・・たとえば、こう考えられないだろうか?この犯人は、単に女を刺しただけでなく、殺害しているのではないか?そして、遺体を何処かで処分したのではないか?ということだ。そうなれば本人は出てこないだろ」
「では、この男はもっと重大な犯罪、たとえば殺人、死体遺棄というような犯罪を犯しているということになるんですか?」
「その可能性は大いにあるな。たとえば、女を殺して死体を大阪湾に遺棄したとか・・」
その時、蒲田刑事のデスクの電話が鳴った。蒲田刑事は素早く電話を受けた。
「はい、何?えっ?受付・・・ホントか?それは間違いないんだな。・・・わかった。それじゃあ受付のところに待たせておいてくれ。直ぐに行く」
「どうしました?」
「男の娘が面会に来た」
「本当ですか?」
「そうだ」

蒲田刑事は、一階の受付のところに行くと、幼い顔つきをした娘が立っていた。白いTシャツにジーンズといういでたちで、布製のショルダーバッグを下げていた。蒲田刑事が「松本さんですか?」と、尋ねると、娘は、「そうです」と、答えた。
蒲田刑事は娘をとりあえず面会室に案内した。

蒲田刑事は、娘との面会を許すかどうか?考えていた。たとえば、面会していろいろな事を話しているうちに、何かこの事件の重要な話が、事のついでに出てくる可能もある。そこで、面会をさせて、話の一部始終を蒲田刑事と山本刑事が部屋の外で聞くということにしよう。そのように判断した蒲田刑事は面会を許した。

面会室で、被疑者の松本が娘を見つけると、松本は非常に驚いた顔つきをした。
「千枝子・・・」
「久しぶりね、お父さん」
「そうだな・・」
そう言うと、男は行き場のないもどかしい気持ちに襲われた。そんな、妻と娘を捨てて、今更、何か言うのは恥ずかしい。二人の刑事は、「それじゃあ、我々は、外で見ているから」と、席を外した。
二人の刑事が席を外すと、娘は話を始めた。その様子を、二人の刑事は外で聞き耳をたてて見ていた。娘は、正面から娘を見ようとせず顔を背ける父親に話かけた。
「それにしても良かったわ。お父さんが見つかって。今まで何処にいたの?」
その一言に、男は答えた。
「・・大阪だよ・・」
「お母さんが呆れてたわ。それで、もう、お父さんのことは忘れましょうね。お父さんは、もう亡くなったのよ。そう言って、私たち、もうお父さんを放っておくことにしたの。だけど、私、とっても気になって、それでお母さんには内緒で岐阜まで来たの」
「しかし、東京から岐阜までなら、お金が大変だろ?」
「そんなことないわ。今は『青春18切符』というのが売り出されていて、一日中JR全線が乗り放題で二千三百円という切符があるから、それで、今日は東京から岐阜まで来たのよ」
そう言うと、娘は手帳を取り出し、図書館の時刻表で調べた列車の時刻を読み上げ始めた。
「今朝は、狭いアパートを午前四時に出て京成小岩駅から始発の電車に乗って、東京駅まで出てきて、5時46分東京始発静岡行に乗って9時12分に静岡に到着。静岡で浜松行に乗り換えて、浜松に10時31分着。浜松10時45分発の米原行快速に乗って岐阜到着が12時42分、それでお昼ご飯を食べて、午後1時に、岐阜中署に来たわけ」
「帰りは、どうするんだ?」
「そうね、今日のうちに東京に帰るわ」
「そう・・・」
「とにかく、お父さんが家を出た時は大変だったわ。会社の人が押しかけてきて、千二百三十五万円の不正使用の金を返せって、とてもしつこかったわ。だから川口にあった家を売り払って、今は東京下町にアパート住まい。それでも、借金が三百万円残っていて、どうにもならないわ。だから、会社に二十年の分割払いにするんだ、なんて言っていたけど、全然返してないわ。それで、お父さんが傷害で刑務所に入るかもしれないなんて、私、耐えられない」
「済まないと思う・・・」
「どうして、逃げ出したりしたのよ。お母さんは、スーパーのパートの仕事に出ているし、私は高校を中退して、ドラッグストアに勤めているわ。それで、このままドラッグストアの正社員にならないか?そう店長さんに言われたの。だから、そのまま正社員になるわ」
「そう・・・」
「でも、商社の社員の人って嫌ね!とてもしつこく、お父さんの行方を本当は知っているんじゃないか?って家に押しかけてきたり、興信所使ってお母さんを尾行したり、いやな人たちだわ」
「そう・・」
「それで高校は中途退学・・だって授業料を払えないもの・・」
「そうか・・済まない・・・」
「まあ、いいわよ。とにかく、お母さんと私の二人で必死になって働かないと食べていけないから、必死よ。本当、生きるのが精一杯という感じね・・」
「そう・・お前も逞しくなったなあ・・」
「仕方がないわよ・・」
「それで、お母さんは、今も一人でいるの?」
「そう、半年くらい前に、スーパーの男の人なんだけど、家に良く遊びに来てる人がいたの・・」
その一言に、男の心は気が気でなかった。男は娘に平静を装って尋ねた。
「それで、どうしたの?」
「それで、ある日、お母さんが再婚したいと言い出したの。お父さんも、もう帰ってこないからって」
「それで・・」
「私、言ったの。そんな、お父さんがもし明日帰ってきたら、どうするの?って。そうして、そのまま友達の家に行っちゃた。家出してやったわ。だって、そうでしょ、その男の人は私にとって他人なのよ。そんな人と狭いアパートで一緒に暮らすなんて嫌だもの」
「そう・・」
「それで、二日くらいしたら、お母さんが、私が泊まっているドラッグストアの友達の下宿に来たの」
「そう・・」
「それで、私、お母さんに尋ねたの。あの男の人はどうしたの?って。そうしたら、もう、あの人は家に来ないって、だからお家に帰ってきて、そう言うの」
「そう・・」
「それで、こう言うの。これから二人で映画を見ない?って。それで、二人でお母さんが買ってきた映画のビデオを見ていたわ」
「それは、どんな映画だったの?」
「そう、回転木馬という昔の映画よ」
「どんな話なの?」
「そうね、主人公はビリー・ビグローという遊園地の回転木馬の若い呼び込み、その人は死んで天国にいるの」
「へえ・・」
「ビグローは天国で星を磨く仕事をしているんだけど、そこへ天国の星を守っている責任者、スターキーパーという人がやって来て言うの。地上で生活している君の家族が大変だって」
「どうして、大変なの?」
「それは、長いお話があるんだけど、遊園地の回転木馬の呼び込みをしていたビグローは、十数年前、紡績工場の工員キャリーと恋しあって結婚してしまう。そうしたら、ビグローは回転木馬の呼び込みの仕事を首になってしまう。だから仕事もなく、キャリーとは毎日言い合いをしているという具合ね。
それである日、ビグローは仕事がないからむしゃくしゃするのでキャリーをぶつの。それで、金を儲けるんだ、キャリーを楽にするのだと、ビグローは紡績会社の社長さんの船に強盗に入るのだけれど失敗して、その時凶器となったナイフが誤ってビグローの脇腹に刺さって死んでしまう。それを知った、ビグローの子供を身ごもったキャリーは、絶望にとらわれ、悲しむの」
「ふうん・・」
「そうだけど、まだ希望があると、気を取り戻し、キャリーは女の子を生む。その女の子が成長して、もう中学を卒業する少女に成長しているけど、みんなから、『あいつの父親は、昔、強盗をやりそこなって死んだ』と、みんなにいじめられているの」
その言葉に、男は言うべき言葉を失った。娘は続ける。
「そして、その娘を天国から地上に帰ってきた父親が悲しそうに見ている。もちろん、父親が傍にいても、姿はキャリーにも娘にも見えないわ。そして、十何年かぶりに、若い盛りを過ぎたキャリーと再会するの。だけど、夫が帰ってきているような気がしたキャリーが、こう言うの、『たとえ、強くぶたれても、痛くないことがあるの』・・・その場面を見ていたお母さんが、目に涙を浮かべて泣いているの・・あら、どうしたの?お父さん・・・」

その時、男は、目に大粒の涙を浮かべて「あぁーっ!」と叫びながら号泣した。

男が泣き崩れている間に、面会室の様子を見ていた刑事のところに、大阪府警から連絡があった旨の伝言があり、山本刑事は自分の部屋まで走っていった。
しばらくして帰ってきた山本刑事は、蒲田刑事にこう言った。
「大阪府警から、女の照会の結果の連絡が入りました」
「そうか・・それで、どうだったんだ?」
「それが、女は死んでいました」
「死んだ?それは殺人か?」
「いえ、交通事故です」
「ほう、それは何時だ?」
「大阪府警の照会によると、あの傷害の行われた直後です。浪速区御堂筋の道路上を時速八十キロ以上で飛ばしていた男女二人乗りの車が、長堀通りと交差する交差点で追い越しをかけて、他の車に擦り、はずみで中央分離帯に乗り上げ、高速で横転し、二人とも全身を強く打って即死だったそうです」
「ほう、それは多分、切りつけられた女を病院に運ぶために急いでいたんだろうな?」
「そうとも考えられますが、しかし、被害者が死んでいますから。それに女は、もう葬式が終わって遺体は火葬にされているそうです」
「ふうん・・・」
蒲田刑事は、しばらく考えた。
「ところで、こういう場合どうなるのかな、女が傷害で切りつけられた。ところが直ぐに交通事故死した。それで遺体は火葬されて存在しない。こういう場合、傷害事件というのは、成立するのかな?」
「さあ、どうなんでしょうか?ただ、立証はできないですね。遺体はありませんから。それに凶器の包丁も、これから大阪の川をさらって探すんですか?」
「できれば、僕は問題にしたくない。君も、そう思わないか?」
「そうですね。じゃあ、この件は、なかったということで・・」
「それが、いいだろうな」

面会を終えた娘を、蒲田刑事は下の受付まで送った。階段を降りる娘に、蒲田刑事はこう言った。
「実は、お父さんが切りつけた女の傷害の件について、さっき僕から大阪府警に問い合わせたんだ。そうしたら、回答があってね。まあいろいろあって、お父さんの傷害の件については、調べようがない、立件不能ということがわかってね。だから、お父さんをもう釈放するつもりだよ。だから、今日帰ったら、お母さんに『お父さんの身柄を引き取って欲しい』と言って欲しいんだよ」
「本当ですか?それ!」
「そうだよ」
「だけど、お母さんは承知するかしら?」
「さあ、どうだろう」
「でも、今日帰ったら、何とか説得してみます」
「なるほど、よろしく頼むよ」
「分かりました。・・でも、お父さん、どうして泣いたのかしら?」
「さあ?僕には分からないが、多分、疲れてたんだよ」
「そうかもしれないですね」
「そうだよ。それで、今日は、どうやって東京に帰るの?」
「岐阜駅16時38分発の豊橋行快速に乗れれば、今日のうちに、家に帰れます」
「そう、気をつけてね」
そう言うと、受付の所で、蒲田刑事は娘と別れた。娘は手を振って、近くのバス停まで歩いていった。

ある夏の暑い日の出来事であった。

次の短編、「足切りの男」は、5月下旬か6月上旬にnoteにアップする予定です。


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