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短編集、彼岸花。彼岸花。

彼岸花

秋、九月二十三日の秋分の日近くになると、彼岸花の真っ赤な花が、早稲の黄金色の稲穂が揺れる水田の畦(あぜ)に連なるように鮮やかに咲く。彼岸花というのは、別名、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれる植物である。その鮮やかなまでの赤に、昔の信仰心厚い人々は極楽浄土を連想したから、そういう名前が付いたのかもしれない。

愛知県三河地方の、ある町の寺の墓地から、この物語は始まる。

平成十年、秋の九月二十二日の夕方、古い昔の家並みが続く、名鉄支線沿いの古ぼけた駅舎のある一角を、ずうっと歩いていくと、広い森に囲まれた大きなお寺がある。その、大きな松の木がある境内の寺の建物の裏手には、昔からの檀家の墓地があった。門前には、多額の寄付をしてくれた会社の経営者の名前が彫った石碑があり、「大正十二年、金一万円」などと彫ってある。
その境内で、学校を終えた近所の子供たちが遊んでいたが、秋の日はつるべ落し。やがて暗闇が迫ると、子供たちは家に帰っていってしまった。

その晩、現世からはるか遠くにある極楽では、すでに世を去った人々が、なに不自由なく暮らしていた。戦争も飢餓も、失業も、病の苦しみもない極楽浄土では、極楽の花である、ほうそうげの花が咲き乱れ、大きな寺のような楼閣のほとりの池には蓮の花が咲いていた。そこで、今は世を去った人々が、楽しそうに暮らしていた。

ところで、極楽には奇妙な習慣というか、しきたりというのがある。それは、墓のある死者については、お盆、春と秋の彼岸の中日に、現世のその墓に帰ることが、死後五年間だけ許される、という奇妙な習慣である。そして、彼岸の中日に、墓参りに来る家族と、死者とが再会できる。その墓地の墓石の上に、死者の霊魂がさまよい、墓参りに来た家族を、じっと見ているのである。

そして、今年も秋の彼岸の中日がまもなくやってくる。その九月二十二日の晩、現世への長い旅に発つ死者たちが、極楽の楼閣の入り口の前に集まっていた。人々は、現世の肉親たちとの再会を楽しみにしている。
と、その時、天上からお釈迦様の声が聞こえた。
「吉井喜久治は、いるか?」
それに吉井喜久治が答えた。
「ここに、明日の彼岸の中日に現世に帰るために、おります」
「お前は、もう死んで六年になる・・・現世に帰れるのは、死んで五年までだ。噓をついては駄目だ」
それに、吉井喜久治は肩を落した。
「それから、向井清子はいるか?」
その老婆は答えた。
「おりますが、私は死んで四年。まだ家族に再会できます・・・」
「実はな、お前の家族は薄情者で、墓参りをせず、墓地がなくなってしまった。だから、お前は、もう現世には戻れない」
それに老婆は肩を落とした。お釈迦様は続けた。
「それでは皆の者、達者で現世への旅をつつがなくせよ」
一同が頭を下げると、先頭の者たちが歩き始めた。こうして、天空から、地上の墓を目指して、無数の死者たちの行進が始まった。

その、九月二十三日。秋分の日の朝が明けた。遠くの三河の東の山の端から日が昇り、寺の境内の松や楓の木のある風景がますますはっきりとしてきた。遠くから、電車の走る音がこだまのように聞こえ、近くの家では主婦が朝ご飯の用意をしていた。散歩をしている人が、寺の庭を掃除している住職に、「おはようございます」と言って挨拶をしていった。

朝七時に、最初の墓参りの人がやってきた。水桶を取ると、墓に柄杓で水をかけ、お墓の掃除をすると、菊の花を添えて、線香を上げ、手を合わせていた。

極楽からきた死者たちは、あの世からの長い旅に、ふぅっと一息つきながら、墓の上で、ひたすら家族が来るのを待っていた。良次おじいちゃんは、三年前にこの世を去って、家族との再会を楽しみに、この墓にやって来た。その隣の千枝子おばあちゃんの墓は、もう二年近く誰も来ないのか、荒れ放題になっていた。その墓は、この九月二十三日をもって、誰も来なければ、墓を撤去してしまうというお知らせが、墓地の入口に貼り付けてあった。今日、誰も来なければ、この墓はなくなってしまう。
その墓の上で、千枝子おばあちゃんが泣いていた。良次おじいちゃんは、千枝子おばあちゃんに話しかけた。
「それにしても、千枝子さん。もう、この墓には二年も誰も来ていないらしいが、一体どうしたというのかね?」
「さあ、それが分からなくて・・もう、このお墓がなくなると、現世には戻ってこれなくなってしまう・・・」
「そうだな、それにしても、千枝子さんの家族は、どうしてしまったのやら?」
「それが、良く分からないの・・・」
「しかし、千枝子さんの旦那は、確か会社を経営して、息子が社長をしていたのでは、なかったかな?・・しかし、経営者というのは薄情なものだね。自分の親の墓に誰も来ないなんて・・うちは、会社勤めだが、毎年、春分の日、お盆、秋分の日にはお墓参りに来てくれるよ。・・とにかく、もう二年も誰も来ていないというのは、少し変だな・・・」
「そうね・・」
千枝子の旦那は、七年前にこの世を去って、もう墓には戻れないのだが、小さな鉄工所を経営して、それなりに羽振りは良かった。旦那は十年前に長男の息子に経営を譲ったのである。その息子たちが、もう二年も墓参りに来ていない。だから、気が気でないのである。千枝子は続けた。
「でも、うちの会社がどうにかなってしまった・・そんなことはないと思うわ。だって息子の片腕には、水野と木田という有能な重役を配置していたから。あの人達がしっかりとやっていると思うわ」
「まあ、そう信じたいものだ」
そう良次おじいちゃんが言うと千枝子おばあちゃんは頷いた。
千枝子の隣には、木村のおじいちゃんと、よし坊という子供がいた。よし坊は、二年前の夏に、岐阜県関市の長良川で、母親が目を離した隙に、溺れて死んだ子供である。そして、両親と小さな妹に会うのをとても楽しみにしていた。

墓の上では、多くの霊魂たちが、家族との再会を楽しみにしていた。その時、墓地に誰かが入ってきた。千枝子は、こう言った。
「あら、私の息子たちが来たのかしら・・」
だが、良く見ると、それは別人だった。五つ手前の墓の前に来ると、その墓の上のおじいちゃんの霊魂がとても喜んでいた。千枝子は落胆した。
「あら、違うわ・・がっかり・・・あら!また、誰か来たわ・・あれは私の息子ではないかしら・・」

だが、やってきたのは二つ隣の木村のおじいちゃんの息子夫婦だった。菊の花、落雁のお菓子を持った、五十すぎの息子と、その妻が墓参りにやってきたのである。孫は、二年前に東京の大学を卒業して、そのまま東京のメーカーに勤務して、もう、墓参りには来ない。去年の夏に一度きたきりである。その夫婦は運動靴に安物のズボン、チェックの厚手のシャツ、背中にはナップサックを背負っていた。妻が言った。
「さあ、早くお墓を掃除して、西尾駅に行かないと、間に合わないわよ・・」
「そうだな・・・」
そうして取り出したのは、名鉄の「秋のハイキング」という題のついたパンフレットだった。もう、子供が片づいたので、今は、二人で日曜日になると、近くの行楽地にハイキングに行くというのが、この夫婦の楽しみだった。犬山の明治村、矢作川上流の香嵐渓、岐阜県中津川市の馬篭宿・・先週は、近鉄名古屋駅から、三重県の名張まで行き、赤目四十八滝へ行ってきた。息子がこう言った。
「今日は名鉄三河線で豊田市駅に集合してバスで猿投(さなげ)山だから、急がないとね・・」
「そうね・・それで、猿投山を登って、反対の瀬戸に出るわけね」
「まあ、そうだな・・・」
「どうしようかしら・・落雁だけで良いかしら・・」
「というと?」
「たとえば、おにぎりを一個置いていくとか?」
「そう、今朝、昼飯用に作ったおにぎり、梅、鮭、タラコ、時雨・・どれか一個置いていくかな」
そう言って、息子は鮭のおにぎりを一個置いていった。
「さあ、急がないと」
「そうだな」
そう言うと、二人は、さっさと墓地から出ていってしまった。木村のおじいちゃんは、「まあ、こんなものさ、去る者日々に疎し・・」なんて、諦めていた。

午前十時を過ぎ、空は雲一つない快晴だった。近くの池の静かな水面の上を赤とんぼが、すぅーっと飛んで、近くの土手には真っ赤な彼岸花が咲いていた。墓地には、車で乗りつけた家族が、今はなき人達の墓に花を添えていた。

よし坊は、一人、早く両親が来ないかと待っていた。木村のおじいちゃんとは、もう二年来の付き合いであるが、毎度、両親が来ては、お母さんの家に帰りたいと泣き出すので、手を焼いていた。また、今度も手を焼かすのだろうか・・・。

千枝子おばあちゃんは、ひたすら自分の子供たちが墓参りに来るのを待っていた。墓地に誰かが入ってくると、「あら、また、誰かが入って来たわ・・・」、「今度こそ、私の息子や娘たちよ・・
」などと、言っているのだが、それが自分の息子たちではないと分かると落胆するという有り様だった。見ていて良次おじいちゃんは気の毒になってきた。それにしても、千枝子さんの家族は一体どうしたというのだろう?その時、墓地に誰かが入ってきた。千枝子は、その方向を見たが、それは千枝子の子供たちではなかった。それは若い夫婦と、幼い娘の子供連れだった。
それに、よし坊が狂喜した。それは、よし坊の父親と母親、それから妹の咲子だったからだ。よし坊は、父親と母親、妹の顔を見ると非常に喜んだ。
「お母さん、お父さん、咲子、早く、早く、こっちだよ!」
そう言って、よし坊は、墓場の入り口まで飛んで行った。そして、母親の手を取ろうとするのだが、母親の手に触れても霊魂であるから、母親はよし坊に全然気づかない。
三人は菊の花を添えて、墓の掃除を始めた。母親は、手にしたバッグから、生前、よし坊の大好物だったクリームワッフルを取り出し、それを妹の咲子に手渡した。
「さっちゃん、お兄ちゃんに、このクリームワッフルをあげてね」
妹の咲子は、母親からクリームワッフルを受け取ると、小さな両手で、よし坊の墓の前に置き、こう言った。
「こんにちは、お兄ちゃん。お兄ちゃんの大好物だったクリームワッフルを置いていくわ・・」
これによし坊は答えた。
「ありがとう、咲子」
だが、妹からの反応は無慈悲なほど何もない。
母親が線香を上げ、菊の花を添え、三人は手を合わせた。幼い妹の咲子は、まだ、事情が飲み込めないところがあるのか、キョトンとしている。
よし坊は母親に抱きつこうとするのだが、母親は全然反応しない。父親の気を引こうと、目隠しをするのだが反応がない。妹の肩を叩いても、妹は知らん顔をしている。妹の咲子は、しばらくして退屈になったのか、あちらのほうに行ってしまった。
母親が、咲子がいなくなったのを見計らって、ポツリと父親に言った。
「早いものね・・もう、あれから二年になるわ・・」
そう言うと、バックからハンカチを取り出して目頭を押さえた。父親は答えた。
「そうだな・・・」
よし坊は、こう言った。
「ねえ、お父さん、お母さん、何を言ってるの?僕は、ここにいるよ。ねえ、どうして僕と遊んでくれないの?お母さん、僕を抱いてよ、叱ってよ」
だが、その声は、暗い表情の両親には届かない。母親が胸を押さえ、こう言った。
「時々、この胸が痛むことがあるわ」
「そうだな、僕も仕事をしていて、ふっと、よし坊の事を思い出す」
「そう、いつも家事をしていて、夕方になると、よし坊が、『ただいま』って、玄関を開けて、『ねえ、今日の晩ご飯は何?』なんて、そう言ってランドセルを放り出して、食卓の椅子に座るような気がするの・・・たった一日でもいいから、そういう日があったら、とっても豪華な食事を作ってあげられる・・そう思うと、胸が詰まりそうになるの」
それを聞いて、父親は暗い表情になり、気持ちが沈んだ。父親が言った。
「まあ、そうだな。僕も、とにかくよし坊の事を忘れるために、それこそ必至になって働いている。そうして、忙しさに紛れて、とにかくよし坊の事をなんとか忘れようと努力しているんだ」
そうして二人は暗い表情になり、しばらく何も言わず黙っていた。重苦しい静寂が流れた。

しばらくして、父親がこう、決然とした口調で妻を教え諭した。
「もう、行こうよ・・過去のことをいくら考えても無駄だよ。そうしないと天国にいるよし坊に笑われてしまう」
これに母親は答えた。
「そうね・・その通りだわ・・じゃあ、よし坊、また来るからね。咲子!おいで。もう帰りますよ・・」
そう言ってよし坊の両親と妹の咲子は墓地を後にした。それに、よし坊が、ついていった。千枝子が言った。
「あら、駄目よ、私たちは墓地から出られないのよ。良次さん、よし坊ちゃんを引き留めて・・・」
しかし、よし坊は、両親について墓地から出ようとする。ところが、墓地の出口のところで、目に見えない壁に当たった。そして、よし坊は、はじき飛ばされてしまった。
「何か壁がある!お願い、お母さん、お父さん、咲子、行かないで!」
しかし、霊魂は墓地から出られないという決まりだから、どうにもならない。三人がよし坊の視界から消えると、よし坊は、わんわん泣き始めた。
もう墓参りをした肉親との再会を果たし、極楽に帰ろうとした木村のおじいちゃんが、よし坊にこう言った。
「よし坊、お前も辛いだろうけど、男の子が泣いちゃあいかん。お前が、そんな風に駄々をこねていることを、お父さんもお母さんも望んでいないから」
それによし坊は、泣きながら頷いた。千枝子が、こう言った。
「まあ、この歳だから母親に甘えたいのも当然じゃないかしら?」
良次が答えた。
「まあ、そうだな・・木村さん、よろしく頼むよ」
「ああ、わかったよ・・いいか、よし坊、誰にとっても別れというものがある。それは誰にとっても避けられないものなんだ。そんな風に泣きじゃくっていると、お母さんが悲しむぞ。男だったら、もっとしっかりしなけりゃ、いかん」
そう言うと、よし坊は諦めて泣き止んだ。
「よし、いい子だ。じゃあ、わしと一緒に極楽に帰ろうな・・・それじゃあ、千枝子さんと良次さん、わしらは先に失礼しますから・・」
これに良次は答えた。
「わかりました。それでは、気をつけて・・」
そう言うと、木村のおじいちゃんとよし坊は極楽に帰っていった。

昼すぎになったが、相変わらず良次と千枝子の家族はやって来ない。二人は、暇をもて余して昔話に花を咲かせていた。
良次と千枝子は幼なじみだった。良次は戦前の小学校を四年で中退すると、大工の棟梁のところに見習いに出た。千枝子はそのまま女学校に進み、二十の時に千枝子に結婚話が持ち上がった。大工の良次は、これに非常に驚いた。しかし、千枝子の親が決めた、もう亡くなった千枝子の旦那との結婚を、ぶち壊すことはできなかった。良次は、結婚し嫁いでいく千枝子を見ながら、一人悲嘆に暮れた。今は昔の話である。
その時の話を良次が始めると、千枝子おばあちゃんは、そんな、昔の話は、ええ・・とか言い出したが、良次は構わず話を続けた。
「君が結婚するといういう話を聞いて、僕はいたたまれない気持ちになった。どうしよう・・もし、僕の前から君が消えたら、自分の人生はまるで消し炭のように消えてしまうような気がした。君のいない人生なんて・・そう思ったから、僕と所帯を持って欲しいと言おうとした」
千枝子はこう言った。
「確かに、私にも、あなたと一緒に・・そんな気持ちがあったのは確かね・・だけど戦前は結婚というのは親が決めるものだったから・・・私、どうしても決心がつかなかった・・・でも、もう終わった人生をあれこれ悩んでも仕方ないわ」
「そうだな・・、それで、僕は君が結婚した日、ついに大工の棟梁の家を飛び出して、安城駅まで行った。そして、そこから汽車に乗って東京に出ていった」
「まあ、そうだったの・・知らなかったわ・・」
「それで、東京の街を食うものもなく浮浪者みたいにうろついていたところ、上野公園で男に呼び止められた。そうすると、東北の線路工事の現場に仕事がある。食い物はたらふく食えると言われた。そこで、上野駅から汽車に乗って、盛岡まで行ったんだが、そこは蛸部屋だった」
「蛸部屋!」
「そうだ・・とにかく、賃金を貰うと無理やり博打場に連れ込まれ、身ぐるみはがれてしまう。逃げ出した何人かの仲間は、監視役のヤクザに半殺しにされる。中には本当に殺された奴さえもいる。食い物は麦飯と菜っ葉だけ。それで、凄い食事代を差し引かれ、賃金が手元に残らない。・・・その年の深い雪の降る晩、ついに僕は蛸部屋を逃げ出した。それで、ヤクザに追いかけられ、断崖の所に来た。捕まれば殺される!そう思って、その断崖から飛び降りた」
これに千枝子は驚いた。
「まあ、それで、どうしたの?」
「奇跡的に、かすり傷一つなく、そのまま雪の中を半死半生で逃げ、鉄道線の線路沿いを歩き、やってきた蒸気機関車が牽引する貨物列車に飛び乗って、命からがら東京に帰ってきた」
「・・・そんなことがあったのね・・」
「そうだ・・それから東京でいろいろ頑張ってみたんだが、結局どうにもならず、昭和三十年に、夢破れ、家族を連れてこの町に帰ってきた・・」
「それから、どうしたの?」
「小さな鉄工所に工員として勤務したよ」
「そう・・」
「赤貧洗うが如き生活さ。よく女房と喧嘩してね。その女房も十年前に亡くなった」
「そう、そうだったのね」
「そうだよ」
その時、千枝子が、誰かが墓地に入ってくるのを見つけた。
「今度こそ、私の息子だわ・・きっと、そうよ」
「違うな、あれは、わしの息子だ。嫁さんも一緒だ。さあ、早くここへ来てくれ」
それは良次の息子と奥さんだった。孫は結婚して、名古屋に住んでいる。息子は父親の墓の前で、こう報告した。

「今年の九月二日で、会社を定年退職しました」

それを、良次は寂しそうに聞いていた。息子も、そういう歳になってしまったのである。
二人は手桶の水を柄杓でお墓にかけると、お墓の掃除を始めた。年老いた妻が、お墓を拭きながらこう言った。
「それにしても、良い時に定年退職したわ」
それに、線香に火をつけた息子が答えた。
「そうだな、昭和三十二年に、十八歳で入社した時は、親父がとても喜んでいた。あの超一流企業に工員として採用されるなんて凄い!なんてね。その親父も今は墓の下だ」
「そうね・・昔は良かったわ。あの一流企業の工員だなんて、鼻が高かったもの」
「そうだな・・俺たち、あの会社の一番良かった時期に会社に勤務していたからな・・しかし、今は大変だ・・」
「そうね、会社では、陰湿な退職勧告がなされているという噂が飛び交っているし・・」
「まあ、あの会社も、ここまでだな・・」
「そうね・・」
そう言って、息子と奥さんは菊の花を添え、手を合わせると、そのまま墓地を後にした。
良次は、こう呟いた。
「それにしても、あの会社が経営不振だなんて、信じられないな。それだけ世の中の変化が激しいということなのか?」
「そうね・・」
そう言って、千枝子は頷いた。良次は続けた。
「まあ、息子もじきお迎えが来るのだろうが、それまで会社が持ってくれれば良いのだが・・」
「そうね・・」
「そうだよ・・」

近所の子供たちが、お寺の境内でサッカーボールを蹴って遊び始めた。しばらくして怖い顔をした住職がやってきて、子供たちを追い払ってしまうと、墓地に秋の冷え冷えとした冷気が立ち込めてきた。

秋の日はつるべ落とし、西の山の端に日が傾いて、墓地に秋の西風が吹き、その風に、まだ青い薄の穂が揺れた。夕方が近くなって、墓参りする人はいなくなってしまった。千枝子の墓には誰も来なかった。このままでは、墓は整理され墓はなくなってしまう。そうなったら、二度と子供たちとは会えない。そう思うと千枝子はいたたまれない気持ちになった。千枝子は寂しそうな表情で、こう言った。
「もう、私は、現世に帰ってこれないのね・・もう、このお墓がなくなってしまう・・・そう思うと、とても辛い気持ちになるわ。私の息子や娘たちが、こんなに薄情だったとは知らなかった」
それを、良次は優しくなだめた。
「まあ、仕方ないよ・・」
その時、誰かが墓地に入ってきた。それは、汚れた作業服に深々と作業用の帽子を被った風体の良くない男だった。それを見て、良次はこう言った。
「おや、誰かが来たぞ」
千枝子は、これを見てこう言った。
「そうみたいね・・でも、あれは私の息子ではないわ」
その男は、お寺の事務室に行くと、しばらくして住職と一緒に墓の入口までやってきた。何か住職に叱られていたらしい。その作業員風の男が、桶に水を汲むと、菊の花、手桶、柄杓を持って、千枝子の墓の前にきた。そして、深々と被った作業用の帽子を取った。その顔を見た千枝子は仰天した。
「まあ!和雄!その格好は、一体どうしたの!」
それは千枝子が三十七の時に産んだ、末っ子の和雄だった。和雄は、苔だらけになった墓を拭くと、菊の花、安物の落雁を千枝子の墓前に置き、線香に火をつけて、手を合わせた。和雄は呟いた。
「お父さん、お母さん、長らく墓参りせず、あいすまなく思います。二年前の夏に、兄貴の会社が倒産して大変でした・・・そのため、墓参りをする余裕もなく申し訳なく思っています・・」
それを聞いて千枝子は非常に驚き、子供たちの事情の急変に心を痛めた。
「会社が倒産した時は、とても大変でした。債権者が家に押しかけて来て、土地、屋敷などの財産を全て取られてしまいました。それ以来、兄弟は散り散りばらばら、兄貴は、大阪に出ていったきり、消息がわかりません。嫁いでいった姉たちは、みんな、嫁いだ先でいじめられ苦労してます。僕も、妻と三人の高校と中学になる息子たちを抱えて大変です。トラックの運転手をして、なんとか生活をしている有り様です・・・もう、できれば、家族を放り出して、どこかに逃げたい気持ちでいっぱいです」
その、一言一言を、千枝子は末の息子の和雄を優しい目で見つめながら、ハンカチで目頭を押さえて黙って聞いていた。和雄は続ける。
「昔は優しかった妻とは、もう毎日ケンカをしています。妻は、『私がこんな惨めな境遇になったのは、あなたの責任よ!』と、毎日、僕を責めるんです。息子たちは、それこそアルバイトをして学費を稼いで、何とか学校に通っています・・・本当に、泣きたい毎日です」
そう言うと、和雄は、墓前で涙をこぼし、男泣きに泣き始めた。その様子を、何も手を下すことができない千枝子は、ただ黙って見ているだけだった。

そうして、しばらく、時間が流れた。もう日が落ちて暗闇の迫る墓地で、和雄は、決然として、こう誓った。
「だけどね、・・お父さん、お母さん・・僕は絶対に世間には負けないよ・・・会社が倒産して世間の風がどんなに冷たかったとしても、僕は、この場で誓うよ。必ず、経営者として再起を果たしてやるからって・・また、来るよ。今度来る時は、きっと、何か大きな仕事をしてやるから」
これに、千枝子は励ましの声をかけた。
「そう、その調子で頑張るんだよ・・世間に負けちゃあ駄目ですよ・・」
その言葉に、息子の和雄が、はっと千枝子の方を振り向いた。
「・・不思議だ・・今、母親から話しかけられたような気がしたが・・・」
これに千枝子は、はっとした。和雄は続ける。
「まあ、気のせいだろう・・お父さん、お母さん、また、春になったら来るよ。とにかく、僕は忙しいんだ。これから、まだトラックの積み荷を届けなけりゃあいけない先が沢山残っている。・・それじゃあ、お父さん、お母さん・・僕は、これで帰るよ」
そう言って、和雄は墓地の外に消えて行った。

こうして、その年の秋の彼岸は終わった。良次が、こう言った。
「それじゃあ、千枝子さん・・もう、極楽に帰ろうか・・」
「そうね・・。でも、嬉しいわ。また来年の春分の日に帰ってこられるなんて・・今度は、長男の良雄や娘たちと会いたいわ」
「そうだな・・・」

もう、暗闇の迫った寺の境内には、赤い彼岸花が咲いていた。

遠くから、電車の走る音がこだまのように聞こえる。

次回の「赤穂線の風景」は、七月上旬にアップする予定です。

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