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長編トラベルミステリー小説「急行八甲田の男」7.スタミナ・ベーカリー。

初江は中学に入るとき、母を亡くし、父親はそのあとすぐに、飲み屋の女を後妻として迎えた。しかし、この後妻と初江は完全に性格があわず、口論が絶えなかった。初江の中学の成績は良いほうだった。しかし、中学を卒業する頃には、父親は、半ばアルコール中毒の状態で、初江が後妻と仲良くしないと言っては、初江を責め立てた。初江は、家庭の経済状態も思わしくないため、中学を卒業したら、東京へ出る決意をした。とにかく、この地獄のような家庭を一刻も早く抜け出したいと考えていたのだ。
道雄はこれを聞き、初江に同情した。なるほど、初江も自分と同じなのだ。そして、もう近くに身寄りもないのだ。そう思うと、道雄の心に一種の同情心が生まれた。
旅立ちの日、父親は、初江を小樽駅の改札まで送って、「あとは勝手にやれ、もう家には帰ってくるな」と申し渡した。道雄は、普通の父親であれば、娘が可愛いのは当然だし、はるか東京まで行くことには当然賛成しないと思った。だが、初江の父親は、仕事がうまく行かないと、すぐに酒に溺れた。そうした意味で、少し偏屈な性格だったのかもしれない。
初江は家を追い出され、その悲しさのあまり札幌までの列車で涙にくれていたのだ。道雄はこれを知り、なぜ初江が自分の住所を教えたかを知った。
初江の中学の担任は、初江が東京へ行くことに強く反対した。父親の元で、小樽か札幌で就職先を探しなさいと初江に忠告した。中学の担任は、父親にたびたび電話をかけ、初江を説得するよう働きかけた。しかし、電話口で父親は半分酔っ払って、まともにとり上げようとしない。初江は、東京に素晴らしい憧れを持っていた。東京で女優のような仕事をして、みんなを見返してやりたい。そうして良い服を着て、いい暮らしをしたい。そんな子供じみた夢を描いて、恵まれない生活に必死になって耐えていた。その夢を実現するためには、まず東京に出なくてはならない。
そんな時、初江の目に触れたのが、東京のスタミナ・ベーカリーという焼きたてパンチェーン店の求人票だった。初江にとって一番の決め手は、電話口の採用担当者の一言だった。「我が社は、現在焼きたてパンチェーンの展開をしているため、従業員を募集している。我が社は学歴は一切関係がない。現に、スーパーなどの流通・外食チェーンの中には、中学を卒業して、店員やウエイトレスで採用され、取締役になった人が何人もいる」この一言で初江の決意は固まった。
道雄は思った。そういった野心的なところは自分そっくりだと・・・。
だが、初江の失望は、入社したその日から始まる。

平成元年四月一日。初江は京王線つつじが丘駅前の、スタミナ・ベーカリー「つつじが丘店」に配属された。
初江が、朝九時にスタミナ・ベーカリー「つつじが丘店」に来て「おはようございます!」と元気よく挨拶すると、同僚の三人の店員がいわくありげに挨拶をした。店長を名乗る男は、初江にとりあえずレジの打ち方と、パンの価格を覚えるように申し渡し、それ以上は何も言わなかった。
店長は中年の、中肉中背のくりくりした目をした、何かだらしない感じのする男だった。今日初めて、初江が「おはようございます!」と張り切って挨拶をしても、一言「ああ・・」と言うだけだった。
もう一人は年の頃五十歳くらいの、背が低く、痩せて頭の毛の薄い男だった。このスタミナ・ベーカリー「つつじが丘店」のパン焼き工をしている。
もう一人のレジの女は、まだ二十歳くらいだが、髪をヘアマニキュアで茶に染め、どす赤黒い口紅をしていた。

朝十時、スタミナ・ベーカリーが開店すると、一人の中年の女性客が、トレーにメロンパンとあんぱんを乗せ、レジに精算に来た。
髪をヘアマニキュアで茶に染めた女は、自分を水井良子と名乗った。水井は初江をレジのところに立たせると、水井は「メロンパン90円、はい、9と0のキーをたたいて」と初江にレジのキーを叩くよう促した。初江は慎重に慣れない手つきで9と0のキーを押した。
「次に、あんぱん。80円、8と0のキーをたたいて」
初江は慎重に慣れない手つきで8と0のキーを押した。だが、9080と入ってしまう。この様子に水井はこう言った。
「はい、やり直し。無効のキーを押して」
婦人客はこれをいぶかしそうな目で見ていた。そして、不快な表情で、イライラとしていた。水井はかわってレジを打った。
「それで、まず90て入れるでしょ。それからこの右の1から27までのキーのどれでもいいから押すの。そうすると90円が入力できるでしょ。それで80円を入力して、どれか右のキーを叩けばいいわけ。それで合計のキーを押すと、金額を合計してくれるわ」
水井が合計のキーを押すと、レジは金額を合計した。
「はい、170円でございます」
客の女性はいぶかしそうに二人を見つめながら、千円札を一枚出した。
「千円のお預かりです」
水井は、初江に、「お金を貰ったら、貰った金額をキーでたたいて、預かりのキーを押すのよ。そうすると釣銭を計算してくれるわ」と教え、水井はレジのキーを叩いた。
預かりのキーを押すと、レジは釣銭を計算して、レシートを打ち出した。水井はレジを開けて、830円のお釣りをレシートと一緒にお客さんに手渡した。
「ありがとうございます」二人は声を合わせて挨拶をした。
水井は言った。
「早く、パンの価格とレジの操作を覚えてね」
その女性客を始めとして、ぼつぼつとお客がスタミナ・ベーカリーを訪れた。
十一時頃、客が少しいなくなると、水井という女は初江に話しかけた。
「あなた出身は東北のほう?そんななまりがあるわ」
初江は言葉のことを言われて、少しギクリとした。東京へ出て、標準語で話しているつもりだったからだ。
「わたし、北海道の小樽出身なの」
初江がこう答えると、女は驚いた。
「えっ!北海道!そんな遠くからこんな店に来たの!」
初江は答えた。
「そうです」
女は、少しもて余しぎみで、どうしようもないな!なんて顔をしながら言った。
「そう・・とにかく、わたしはこれでここを辞めることができるわ」
初江は驚いた。
「えっ!辞めるの!」
「そうよ、こんな店。もう次の勤め先は決まっているわ。あなたも、もう次の勤め先を考えたほうが良いわよ」
初江の心には穏やかでないものがあった。期待を持って東京に出て来たのに、勤めている人から、お前は自分の代わりに来たんだ。とか、こんな店辞めれば、などとそれも初日に言われてはたまらない。
十一時半をすぎると、店内はさらに忙しくなった。昼食のパンを買い求める主婦、サラリーマンで店内はいっぱいである。水井さんは、この客をすごい手際よさで片付けていく。
「今日は、あなたがいてくれてラクだわ・・」水井さんがパンの価格を言う。初江がレジを打つ。こうして二人は十二時の多客時をのりきった。
午後一時を過ぎた頃、水井さんは初江に言った。
「とりあえず、お昼に行ってらっしゃい。店長がレジをかわるわ」
その時、店長が店に戻ってきた。九時に顔を合わせたきりで、どこかへ出かけていたみたいである。
水井さんは吐き捨てるように言った。
「また午前中、どこかで時間を潰してきたのよ。仕事をわたしたちにおっつけてね。最低よ!」
店に入ってきた店長は水井さんを完全に無視して、初江に、「お昼はまだなの?行ってらっしゃい」と何か女々しい口調で促した。
初江は「はい!ありがとうございます!」と言うと、初江はエプロンを外して、控え室で着替え、近くの喫茶店に入った。
ミックスサンドを注文しようとメニューを見ると七百五十円!「高い!」初江は思った。カレーライス、定食。どれも小樽よりはるかに高いのである。初江の月給は十四万円。そのうち家賃が五万円、食費、光熱費を合わせると、七百五十円のミックスサンドを食べる余裕はない。
仕方なしに、初江はまたスタミナ・ベーカリーに戻ってきた。店長が驚いて「どうしたの?」と聞くと、初江は「どこも高いの。だから、この店のパンを買って食べることにしたんです」と答えた。初江はあんぱんとサラダサンド、それに牛乳を買うと、狭い控え室に戻り昼食を食べた。

午後三時半、水井さんと一緒にレジに立っていたが、客は来ない。水井さんは初江と話を始めた。
「それにしても、あなたもものずきね。どうしてこんな店へきたの?」
初江は答えた。
「スタミナ・ベーカリーは、東京一円に十二店舗を持つ焼きたてパンのチェーンで、これから、チェーン展開をするために、従業員を募集している。と言うもんだから将来性のある会社だと思って・・・」
水井さんはこれを聞いて、お腹を抱えて笑いころげた。
「なにがチェーン展開よ!どこの店も近くに大型スーパーが出店する計画があって、大型スーパーが出店すれば、スタミナ・ベーカリーなんてすぐ潰れてしまうわ。あなただまされたのよ」
初江はこの一言に慄然とした。水井さんは続ける。
「ここの社長は二代目のボンボンだけど、大型スーパー出店反対運動の先頭に立って、飛び回っているみたい。でも、わたしに言わせれば、こんな店潰して、大型スーパーが出来たほうがお客さんは絶対に喜ぶわ。それにね・・・」
「それに、なに?」
「わたし今月限りで辞めるの。だから早くパンの名前と値段を覚えてね。来月からはあなた一人よ」
「でも、店長さんは手伝ってくれないの?」
水井さんは、まだわかっていないの!という表情でこう言い切った。
「ここの店長はなにも手伝ってくれないわ。あなたも明日から午前七時に店に出てきて、サラダやサンドイッチを作るのを手伝って、午後八時に帰る、という生活をするのよ。大変よ。こんなに人をこき使う店なんてほかにないわよ。一店舗三人で運営しなければ、この店は経営が成り立たないのよ」

初江は今一つ店長が好きになれなかった。しゃべり方が女々しいというのか、どうも妻帯者ということもわかった。もう一人のパン焼き工は暇があると、演歌をカセットで流して仕事をしている。
しかし、その店長のいやらしさを知ったのは、三日後だった。朝早く、初江がサンドイッチを切っていると、突然後ろから、初江のもものあたりを触ったのである。
「きゃあ!」と初江が悲鳴を上げて、サンドイッチを床に落とす。店長は素知らぬ顔でむこうに行ってしまった。水井さんが、「ほら、始まった。あの店長痴漢癖があるのよ。それで女の子はみんな辞めていってしまうの」と、吐き捨てるように初江に言った。
初江は、この店長の行為にショックを受け深く傷ついた。東京に一人で出てきて、回りに相談する身寄りも、友人も誰もいない。もちろんパン焼き工の男もそんなことが通じるように思えない。
翌朝、初江は自分にあてがわれたロッカーを開いて驚いた。女性のヌード写真が貼り付けられていたからだ。初江は慌ててこの写真を剥がし取り、ゴミ箱へ投げ込んだ。水井さんの話では、これはあのパン焼き工の仕業だという。
そうした、初江の救いのない気持ちを和らげてくれるのは、水井さんだった。彼女は今年十九歳。東京の中学校を卒業して、東京のある通信機器メーカーの下請け工場で工員として働いていた。しかし仕事があまりに単調でつまらないので、職長に「仕事を変えてください」と言ったため会社を首になり、職場を転々とした。家庭事情も複雑で、両親とけんか別れをして、自分の手一つで生計を立てている。初江はそういう水井さんにあねご肌の親しみを感じていた。
水井さんは、店長が自分の体に触ってきたところ、思い切って店長の頬に二発ビンタを喰らわしたという。これで店長は恐れをなしたのか、水井さんには手を触れないという。
初江も水井さんに習って、店長をはりたおそうと思ったが、仕事を失うことを恐れて何もできなかった。それをよいことに、店長は毎日のように初江の体に触れ、その度に初江は深く傷ついた。
ある日、水井さんは、初江を不憫に思いついに店長を怒鳴りつけた。
「店長。いくら何でも、あんまりじゃないですか。まだ新卒の女の子に手を触れて。初江さんは嫌がっているじゃありませんか」
店長は、これに恐れをなしたのか、それから一週間くらい、初江には手を触れなかった。

四月中旬。近くの公園や、川の土手の桜の花が散り終えたころ。普段店にいない店長が何やら騒いでいる。店の周りを掃除したり、パンの陳列を変えてきれいに揃え直したりしている。パン焼き工の男も、普段はろくに掃除をしないオーブンを磨いたり、作業場の床を掃除している。
レジで手持ち無沙汰にしている初江のところに、店長がやってきた。
「社長が明日この店においでになる。そのエプロンもきれいに洗濯したものを着て、レジ台のところもきれいに拭いて、それからトレーやハサミもきれいに拭いて、初江さんわかったね」
初江は「はい」と頷いたが、その時、ハッと良い考えが浮かんだ。
「店長のことを社長さんに直訴してみよう。そうすれば何とかしてくれるかもしれない」

その晩、初江はどうやって社長さんに自分のことを話そうかと、考えていた。まず「三矢初江です」と自分の名前を言う。そうすると、おそらく社長さんは自分に気を留めてくれるだろう。そうして店長が仕事中自分の体に触ったり、パン焼き工が自分のロッカーを勝手にあけてヌード写真を貼り付けたりされて困っている、と話してみよう。そうすれば、社長をあれほど恐れている店長である。社長さんが自分の話を聞き、店長たちを怒鳴りつけてくれれば、店長たちはきっとこれからは悪さをしなくなるだろう。そう考えつくと、初江は安らかな眠りについた。

翌日、初江はスタミナ・ベーカリーの社長がいつ来るかと待っていた。しかし、十一時を過ぎても現れない。このままでは十二時の忙しい時間帯に入ってしまう。そうなると、社長に直訴する時間はない。十一時半過ぎ、客がひっきりなしに訪れているころ、店の前に一台のベンツが止まった。社長である。
店長はそれを見るや、「初江さん、よろしく頼むよ」と言って店の外に出て、一目散に車のところへ走ってゆき、深々と頭を下げた。水井さんは吐き捨てるように言った。
「あの店長、仕事は全然できないけど、社長に取り入ることだけはうまいわ。それから、あなたに言っておくけど、社長と口をきいては駄目よ」
その一言に初江はぎくりとした。
やがて社長は店内に入ってきた。四十歳くらいで、アルマーニのスーツをキザに着こなし、金バンドのロレックスの腕時計をはめ、派手なネクタイを締め、ピカピカの茶色の革靴を履いていた。なんとなく、二代目の坊っちゃんといったタイプで、初江は好きになれなかった。付き添っている店長から三分くらい説明を聞いて、店長と一緒に店を出て行ってしまった。

社長と店長は、近くの喫茶店に昼食をとるため入っていった。二人は窓側の席を占めると、社長は書類入れから店舗別の損益計算書を取り出した。
「うちの顧問税理士の指導で月次の店舗毎の損益計算書を作ったんだ。三月のこの店舗の損益計算書を見て真っ先に思ったのは、人件費が高いということだ。理由は何?」
店長は開口一番、「ああ、四月に新卒の女の人を採ったためです。その新卒の女の人の支度金が三月は多かったからです。でも大丈夫です。今月末には水井という女の人が辞めますから、五月には採算は良くなります」と答えた。
社長は感心した。
「なるほど、そういう理由か!さすが月次の店舗毎損益計算書の威力はすごい。顧問税理士の指導だけはある」
「社長は確か南北大学の商学部で会計を専攻されていたとか、さすがいいところに気づかれる」
社長は照れくさそうに頭を掻いて答えた。
「そんなことないよ。大学では遊んでばかりいたから。大学では社会勉強が大切だと思うよ」
「そうですか。でも、社長はやっぱり頭がいい。わたしなんぞよく人件費が高いとわかったなと、感心しておるんです。やっぱり、頭のいい人は勉強しなくても、それなりにできるんですな」
社長はてれ笑いをして頭を掻いた。
「いや、それほどでも・・・」
ちょうどウエイトレスがおしぼりとメニューを持ってきた。社長が言った。
「腹が減った。君は何にする。ぼくはこの定食がいい」
店長は「同じもので結構です」と答えた。店長が切り出した。
「ところで・・ヨロコビドーの出店計画はどうなりましたか?」
社長はおしぼりで手を拭きながら答えた。
「ひどいよ・・本当に・・どうやら近々出店が本決まりになりそうだ。ヨロコビドーの出店計画には先頭切って反対運動をしてきたが、先日そこの筋の横沢宝石店が我々を裏切った」
「裏切った・・というと?」
社長は憤懣(ふんまん)やる方ない口調で横沢宝石店をののしった。
「ヨロコビドーのショッピング街への出店を条件に出店賛成派に寝返ったんだ。あそこのオヤジもタヌキなんだから」
「そうですか。けしからんですね」
その後、運ばれた定食を食べながら、社長はひたすら横沢宝石店を激しい口調でののしり、横沢宝石店の悪行を店長にぶつけた。店長はこれを時々相槌をうちながら、ただ黙って聞いていた。社長はやがて「それじゃあ、今日はもう本社に帰るから」と席を立った。

店長は、ホッとした表情を浮かべた。
ところが、ベンツに乗ろうとした社長はハッとして、突然「少し店舗の中を見てみたい」と言い出した。店長は、また社長の気まぐれが始まったと内心驚いたが、「そうですか」と、とりあえず平静を装った。
初江は、店に入り自分のところにやってくる社長を見て、「言うなら今だ」と思った。
ところが、社長は初江のいるレジのところにやってくると、いきなりレジシートをとり上げた。
それを見ると社長はみるみる顔色を変え、初江に噛みついてきた。
「おい、お前、なんだこれは!」
初江は驚いた。
「レジでは、パンの品種毎に番号をつけたキーを叩くんだ。たとえば、あんぱんなら80円と入力した後、右の27というキーを叩いて登録する。ミックスサンドイッチなら3だ。これによって、どのパンがどれだけ売れたかがわかる。お前、ちゃんと打ってたか!」
初江は驚いた。そんなことは知らない。「知りませんでした・・」、と答えると、社長は血相変えて初江を叱り飛ばした。
「ちゃんとレジを打て、店長!教育はしたか!」
「もちろんです」と、店長は胸を張って答えた。
そして店長は「あれほど教えたのに、どうしてちゃんと打たないの」と初江を叱った。
初江は驚いた。店長は自分に何も教えてくれなかった。教えてくれたのは水井さんだった。店長はそれを嘘をついて取り繕っているのである。
社長は舌打ちして、「君、まあ・・いいよ。だから、人事に中卒はやめろと言っているんだ。キーの叩き方一つわからない奴を採用しても仕方ないんだよ。まあ君も苦労すると思うがよろしく頼むよ」と店長の労をねぎらった。そして、社長は初江を怒鳴りつけた。
「とにかく新人は、最初の教育が肝心だ!このたわけが!ちゃんとレジを打て!」
初江は半分泣きながらこの叱責を受けた。
「それじゃあ、帰るから」
社長はそう言って店を出ていった。店長はベンツで帰る社長を深々と頭を下げて見送った。
初江は深い失望に襲われた。結局自分の悩みは誰もわかってくれないと・・・。
店長が店内に戻ってくると、水井さんは店長に言った。
「店長、あまりにひどいんじゃないですか?初江さんの体に触ったり、社長に嘘をついたり、初江さんが可哀想じゃありませんか?」
店長は申し訳なさそうに「とにかくマニュアルを探して、正しいレジの打ち方を教えるから」と釈明した。
その日は一時間くらい、店長と水井さんの間でちょっとした口論になった。

水井さんは、初江の境遇を聞き彼女を不憫に思い、自分のアパートの電話番号を教えた。自分が退職した後も、困ったことがあれば相談に乗ると約束してくれた。そして、道雄を江ノ島、鎌倉の旅へと誘うようにアドバイスをしたのも、水井さんだった。

その後の水井良子の消息であるが、平成四年三月二十五日午前3時42分。東京首都高速都心環状線日本橋付近を男友達のバイクに便乗中、バイクが時速九十キロで転倒事故を起こし、男とともに救急車で近くの病院に運び込まれたが、同日午前5時45分脳挫傷で息を引き取ったということである。

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